自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
 →横浜教科書研究会のとりくみ
■これまでに発表した声明を掲載します。
 →これまでに発表した声明
■自由社版教科書を使用して授業をしなければならない、現場の先生方、保護者の方、自由社版教科書を使っている中学生を指導される塾の先生方に、お読みいただきたい冊子です。 
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目次(Vol.2)


目次

はじめに
 コラム 〔そこに眠っていた歴史 2 「盗掘穴から1300年前の星空を発見!」〕
 コラム 〔そこに眠っていた歴史 3 「出雲大社 巨大空中神殿の謎」〕

原始古代を学ぶために
 人類のはじまりと日本列島
 縄文文化と土偶
 弥生文化と中国歴史書による古代日本
 東アジアとヤマト王権(倭王権)
 蘇我氏と厩戸王子の政治
 大化の改新と白村江の戦い・壬申の乱
 律令制と人々の暮らし
 飛鳥・白鳳・天平の文化
 平安京と摂関政治
 密教の伝来と国風文化

中世を学ぶために
 武士の登場と院政
 コラム 荘園をどう教えるか?
 平氏の繁栄と滅亡
 鎌倉幕府の武家政治
 コラム 人物コラムに潜むもの「源頼朝と鎌倉武士」を解体する
 大衆や武家の仏教と鎌倉文化
 コラム 「ミヽヲキリ、ハナヲソキ」―『阿弖河荘上村百姓等言上状』の世界―
 元の来襲とその後の鎌倉幕府
 鎌倉幕府の滅亡と南北朝の動乱
 倭寇と東アジア貿易
 中世の産業の発達
 中世の都市、農村の変化
 和風を完成した室町の文化
 応仁の乱が生んだ戦国大名

近世を学ぶために
 ヨーロッパ人の来航
 信長・秀吉による全国統一
 秀吉の朝鮮侵略
 朱印船貿易から鎖国へ
 鎖国下日本の4つの窓口
 コラム 「鎖国」から「4つの口」へ―近世日本の国際関係をどうとらえるか―
 近世の身分制度
 農業・産業・交通の発達
 幕藩体制の動揺と改革
 コラム 江戸時代の飢饉の記述について
 江戸の町人と化政文化
 コラム 貨幣経済と米経済の攻防って何?
 コラム 「江戸の下町へタイム・スリップ」は幻想だらけ
 新しい学問・思想の動き
 欧米諸国の新たな接近
 コラム 教科書の中の間宮林蔵と間宮海峡

コラム 教科書の中の間宮林蔵と間宮海峡(Vol.2)

コラム 教科書の中の間宮林蔵と間宮海峡

日本では韃靼(タタール)海峡とよばれた? 間宮林蔵について、自由社の教科書では、樺太を含む蝦夷地の大がかりな実地調査を行い、樺太が島であることを発見した人物と説明し、「樺太と大陸をへだてる海峡は間宮海峡と名づけられた」(132頁)ことを紹介しています。「間宮海峡」という名称は、いつ頃から使われたのでしょうか。
 間宮林蔵は、常陸(ひたち)国(のくに)筑波(つくば)郡(現在の茨城県)の農家の家に生まれますが、幼い頃から数学的才能に秀で、伊能忠敬の教えも受けて測量術を学び、幕府役人に随行したり幕命を受けたりして幾度も蝦夷地の調査に携わった人物です。彼はシーボルト事件の発端となった人物ともいわれていますが、皮肉なことに、カラフト―大陸間の海峡を間宮海峡と名付けたのはそのシーボルトでした。シーボルトは、カラフトと大陸の間の広い範囲をタタール(韃靼(だったん))海峡と表記。その最狭部をマミヤノセト(間宮海峡)と名づけ、これによって間宮の名前は世界に知られるようになったのです。
 しかし、間宮海峡の名称が世界に紹介されたにもかかわらず、日本では、カラフト―大陸間の海峡は、ながく韃靼海峡と呼ばれていました。近代以降、海図作成は海軍水路部(現在の海上保安庁海洋情報部)が行っていますが、その作成海図をみると、1895(明治28)年には韃靼海峡(STRAIT OF TARTARY)と記され、間宮海峡の名はなく、最も狭い部分の以北は黒龍海湾となっています。この表記は1901(明治34)年版・1904(明治37)年版でも踏襲されていました。日露戦争時に出版された『日露戦争地図』、『征露最新早見地図』なども韃靼海峡と書かれています。では、この海峡はいつから間宮海峡とよばれるようになったのでしょうか。

 
国定教科書に描かれる林蔵 海峡名の変遷をみるまえに、近代以降、間宮林蔵という人物がどのように評価されていったかを少し見ておきましょう。間宮の「海峡発見」の業績が知られ始めると、1893(明治26)年には、東京地学協会が林蔵への贈位を宮内大臣に申請しているように、間宮は次第に注目され始めます。ただし、実際に林蔵に正五位が贈られたのは、日露戦争直前の1904(明治37)年4月22日、すなわち日露戦争開戦2ヶ月後というタイミングでした。
 一方、同年4月からは、全国の小学校で国定教科書の使用が始まります。国定教科書の中で林蔵は、「樺太は大陸の地続きなりや、又は離れ島なりや、…その実際を調査して此の疑問を解決したる人、遂に我が日本人の中より現れぬ。間宮林蔵これなり。…」(1918(大正7)年刊の第三期及び第四期国定教科書・尋常小学国語読本第十七課)と、苦難を乗り越えカラフトが離れ島であったことを見極めた国民的ヒーローとして描かれます。
 ところが1943(昭和18)年になると、「『ロシヤの国境まで、奥地を探検するのが、風雲急なこの時勢に、自分に与えられた使命ではないか』そう思うと…。途中の苦しみはこれまでにも増して、たとえようのないものでした。しかし林蔵は生死をこえて、ただ国をおもうのまごころから、外敵におかされようとしていた北辺の守りのために、身を投げ出したのでした」(第五期国定教科書・修身)と変わります。教科書が発行された1943年は、まさにアジア太平洋戦争の真っ最中。林蔵は、少国民である子どもに、北方での戦争のために命を投げ出すように教化する格好の教材とされたのです。日本が南方で苦戦する一方、対ソ防衛も意識している事情を反映しているのでしょう。

 
間宮海峡と呼ぶようになったのはいつ? では、海峡の名前はどうなったのでしょうか。日露戦争時までの海図や一般の地図では韃靼海峡だったのですが(前述)、1907(明治40)年になると、間宮海峡(Strait of Mamiya)となり、これが1915(大正4)年版以降も受け継がれます。つまり、韃靼海峡から間宮海峡への転換は1904~07(明治37~40)年に起こり、同じ変化は、小学校で使われる地理図にも起きています。
 もともとカラフトは明治維新期には日本とロシアの雑居地でした。1875(明治8)年、樺太・千島交換条約により日本は樺太を手放しましたが、1905年、日露戦争の勝利によって、日本は樺太の南半分の領有権を手に入れました。多大な犠牲を払った代償として南樺太領有を当然とする意識が高まるのと同時に、地図上でも、韃靼海峡ではなく間宮海峡の名を使うことになったのです。日本の帝国主義的進出が間宮海峡の名称を生んだともいえるでしょう。一見古く見えますが、自由社教科書の林蔵の肖像画も、実は1910年に描かれた図です。

間宮林蔵から学ぶこと では、現在の私たちが間宮林蔵の足跡から学ぶべきことはいったい何でしょうか。林蔵の功績は、当時ロシアの勢力圏であると考えられていた樺太北部の先住民が清に朝貢し、その役人として山丹貿易(中世以来のアムール川流域と樺太・蝦夷地との交易。1809年からは江戸幕府が直轄した)を先住民が進めていたことを確認し、アムール下流から樺太までの地図(樺太の北・東部は未踏のため不正確)を完成させ、樺太島を確認したことなどでしょう。そして、この仕事は樺太アイヌのサポートやノテトのギリヤークの長コーニらが行っていた山丹交易なしには考えられませんでした。林蔵の歩いた道そのものが山丹交易ルートなのです。国定教科書も自由社も林蔵を取り上げながら、日本とロシアの関係のみに注目し、そこに住むアイヌをはじめとする先住民の人びとは目に入っていません。また、間宮海峡という地名一つをみても、そこには近代日本の「国民」形成のしくみが透けて見えます。自由社教科書が無自覚に露わしている問題は、同時に私たちにも大切な問題をなげかけているといえるでしょう。

欧米諸国の新たな接近(Vol.2)

欧米諸国の新たな接近

「44欧米諸国の新たな接近」132~133頁

ここで学びたいこと

1 外国船の接近 18世紀後半、イギリスで産業革命がはじまり、欧米諸国は工業化の歩みを始めました。18世紀末には、鯨の脂を工場の照明や機械の潤滑油とするために、世界各地で捕鯨漁がさかんになり、日本近海にも捕鯨船や測量船などが現れるようになりました。一方、ロシアはシベリア進出によって得た毛皮などを中国などに売って食糧を獲得し、日本に対しても通商・交易を求めるようになりました(ラックスマンの来航)。また、19世紀にはいると、欧米諸国の国際的対立の影響で、長崎に突然イギリス船が入港する事件もおこりました(フェートン号事件)。

2 幕府の対応と国内の批判 幕府はロシアの交易要求を断り、外国船に対する警戒などから異国船打払令を打ち出しました。この法令にしたがって、漂流民を送り届けたアメリカのモリソン号を打ち払った事件にたいしては、国内からも批判がおこり、幕府は批判した蘭学者らを厳しく弾圧しました(蛮社の獄)。世界の動きと幕府の対応について、国内でもさまざまな意見があらわれ、幕府も、対外政策の見直しを迫られるようになってきたことを学びましょう。

3 アイヌの人びと この教科書では、日本と欧米の関係からこのころの動きを説明しています。しかし、蝦夷地、カラフト、千島は、アイヌなど先住民の人びとが生活し交易をおこなっていた地域です。カムチャッカ半島を押さえたロシア人も、クナシリ島にまで進出した松前藩や日本の商人も、アイヌとの交易地を広げ、働き手としますが、アイヌからみると、ロシア人が南下し、和人が北上してきたのです。幕府が派遣した近藤重蔵や間宮林蔵が、これらの先住民と関係をもちながら調査をすすめたことも理解しておきたいことです(本冊子100頁コラム「教科書のなかの間宮林蔵と間宮海峡」参照)。

ここが問題

1 危機感をあおる図「欧米諸国の船が目撃された数」(132頁) この図は、一見して外国船に日本列島が包囲されているような印象を与えます。ところが、同図の右下グラフを見ると、急激に来航が増加するのはアヘン戦争後の1840年代です。この単元の年代には全く関係ありません。また、この図は『再現日本史』の江戸Ⅲ③35頁の図を参照したもののようですが、同書が依拠している『黒船来航譜』によれば、接近の理由も、漂着・接近・通過・渡来出没・上陸・薪水要求・通商を求めるなど様々です。しかも、18世紀末から19世紀はじめにかけて日本に接近した外国船は捕鯨船が中心であり、異国船=脅威とはいえない時期なのです。このようなずさんな図の掲載目的は何なのでしょうか? この図は、時期の違いを無視し、ことさら船の絵を大きく書き込み、一貫して「日本」がロシアなどの侵略の脅威にさらされてきたと強調しているようです。また、他社の教科書はすべて、この単元を寛政改革などとつなげて近世で扱うのに比べ、無理に近代の日露関係に入れ込むため、幕政との関係もわかりにくくなっています。

2 132頁「ラックスマンを日本に派遣し、…鎖国下の幕府がこれを拒絶すると、ロシアは樺太(サハリン)や択捉島にある日本の拠点を襲撃した」と書いてありますが、これでは、ラックスマンが襲撃したかのように誤解されかねません。武力行使は、1804年のレザノフ来航の時です。ラックスマン来航の折、老中の松平定信は、「外国と新たな関係を持たないのが国法である」と回答しましたが、紛争が起きるのを恐れ、通商を許可する可能性をほのめかしながら、長崎入港許可証(信(しん)牌(ぱい))を与えて帰国させました。ところが、12年後、ラックスマンが持ち帰った入港許可証を携えたレザノフが長崎に来航すると、幕府は、1年余りレザノフを待たせた上、「鎖国は昔からの法である」と交易を拒否します。怒ったレザノフの無責任な指示で部下のフヴォストフが武力で襲撃し、一連の紛争が起きたのです。その後、襲撃はロシア政府の命令によるものではないと公式文書で釈明が行われ、事件は決着をみました。以後40年間、日露関係は平穏が続き、幕府も貴重な外交経験をしました。

3 132頁15行目「近藤重蔵や間宮林蔵に、樺太もふくむ蝦夷地の大がかりな実地調査を命じた」という部分は、基本的な認識に間違いがあります。ロシアの襲撃の恐怖感から東蝦夷を直轄地にしたかのように記述されていますが、実際は襲撃事件のおこる5年前に直轄化しています。近藤重蔵は幕命により蝦夷地調査をし、クナシリ・エトロフへも渡っていますが、この調査の結果で東蝦夷直轄化が決まるのです。直轄化後に近藤重蔵の調査が始まるのではありません。あり得ないミスです。

4 小林一茶の句(132頁) ロシアの襲撃に対する恐怖が高まって読まれたように書いてありますが、間違いです。襲撃事件は1806年からですが、この一茶の句は1804年(文化元年)12月10・11日に他の3句とともに読まれています。

アドバイス 

1 133頁「アメリカの捕鯨船」図の鯨の油が何に使われたのかを考えさせ、産業革命のころの日本と世界のつながりの背景を理解させるのもよいでしょう。

2 幕府の対応については、東書113頁「鎖国が祖法とされる」が参考になります。高野長英の鎖国批判の理由と異国船打払令を比べさせてみるのもよいでしょう。

3 19世紀初めの外国船の接近を、人びとはどのように受けとめたのでしょうか。「松前藩家老がロシアに寝返った」とか、「ロシアの軍艦は数百艘、津軽海峡は封鎖されている」など、異人を恐れる噂が飛ぶこともありましたが、一方では一般の人びとと外国人との交流もあったのです。1811年、北方のクナシリ島を測量にきていたロシア艦長ゴローニンが捕縛され、2年以上幽閉されたとき、ゴローニンの世話をしていた人達は、別れを惜しんで泣いたといい、異人を恐れてはいません。1824年、常陸大津浜(現在の茨城県)では、沿岸漁民たち300人とイギリスの捕鯨船員との長期にわたる交流が行われていました。かれらは、ともに酒宴まで開いていました。しかし、幕府はこれを警戒し、百姓・町人身分の者が異国人に恐れをいだき、敵愾心を持たせるべきと考え、さらに、翌1825年には、異国船打払令を出しました。

新しい学問・思想の動き(Vol.2)

新しい学問・思想の動き

                                          「42新しい学問・思想の動き」124~125頁

ここで学びたいこと

       
1 寺子屋の普及 江戸時代後期には、新しい学問といわれた国学や蘭学などが成立、発展し、武家だけでなく、上層の農民や町人にも国学や蘭学が浸透していきました。一方、庶民の子どもが通った寺子屋では、男女をとわず、生活に必要な基本的な読み、書き、算盤を学び、読み書きの出来る人びとが増えました。寺子屋では、和歌や儒学の手ほどきを行うこともありました。寺子屋が普及し、百姓や町人のなかからも知識や学問への関心をもつ人たちも現れるようになり、新しい学問の発展の背景にもなったのです。

2 国学の成立と内容 儒学の主流をなした朱子学は、幕府の官学的な地位を占めていましたが、17世紀半ば以降になると、不安が増していく現実社会に対応できない朱子学の内容に反発する動きが次々とおこってきました。国学も儒学を批判して成立しますが、寛政の改革では、朱子学以外の学問が禁止されました。
 国学を大成させた本居宣長は、日本人の素朴な心情を明らかにするために、古典を30年以上研究し、当時読まれることの少なかった『古事記』の研究をおこないました。宣長は、理想とする政治が行われず、一揆や打ちこわしなどがおこる現実の政治への批判も述べています。一方、朝廷崇拝すなわち尊皇の考え方が政治の基本であることを説きました。そして「日本の神話が世界で最も優れている」、「日本は世界を政治的支配のもとに置くのが当然」といった自国の優越性も主張しています。その後の国学は、次第に排外主義、国粋主義の傾向を強め、幕末の尊王攘夷論に大きな影響を与えました。

3 蘭学(洋学)と新しい学問の成果 蘭学(洋学)は、おもにオランダ語によって学ぶ西洋の学問のことです。8代将軍吉宗の実学奨励が糸口となって発展しましたが、これまでの学問では解決できなかったことが究明できたことで、科学的探求心が育ち、学問研究発展の基本となりました。芸術、科学などいろいろな分野で活躍した平賀源内が出たほか、杉田玄白等の『解体新書』の出版、伊能忠敬らの日本地図作製など、蘭学はめざましい発展を遂げました。蘭学者や医学者を数多く育てたシーボルトの功績もあります。
 新しい学問といわれた蘭学(洋学)は、それぞれの学者の地道な研究や努力もあって発展してゆきました。オランダ語の解剖書を翻訳した『解体新書』は、ただの翻訳ではなく、神経、骨髄、筋肉、盲腸…などそれまでの日本語にない新しい医学用語を作る努力もしています。東書114頁の2つの図を見れば、オランダの解剖図が、それまでの医学書との違いが明らかに理解できるでしょう。
 伊能忠敬の偉業は、56歳という当時としてはかなりの高齢から研究を始めたこと、海岸線を地道に歩いて3年間で9千キロも測量して驚くほど正確な地図を作ったことです。これは伊能個人の業績だけでなく、伊能に協力する人びとと幕府の援助がなくてはできない事業でした。幕府も各地の実情を探りたいため、各藩に測量への協力を命じました。さらに現在の数値と比べても誤差は1000分の1という正確さで、地球の大きさも測定しました。

ここが問題

1 天皇家とのつながりの強調  「万世一系」(124頁13行目)の用語は、幕末に藤田東湖、会沢正志斎が主張したとされていますので、宣長が使っているわけではありません。また、天皇の権限が時代によって異なるのに、同じ皇室という用語を使うことは誤解を生じます。他の教科書には出てこない「皇室」「万世一系」を使うことは、無理に天皇を印象づけてしまうと思われます。

2 125頁9行目「海防の必要」という記述。外国船の接近については、時期や内容をていねいにみてゆく必要があります(「欧米諸国の新たな接近」の項参照)。

3 125頁11~16行目 会沢正志斎と頼山陽の説明。漢文で書かれた彼らの著作を幕末に読んでいたのは、主に武士階級と一部の上層の町人、農民だけです。尊皇的歴史観が評価されたのは戦前の昭和期になってからであり、幕末に彼らの著作が広く読まれたことで、「国民としての自覚をつちかった」とまでいうのは問題です。

4 124,125頁 この2ページに出てくる文化の担い手が11人という多さ。中学生の発達段階や説明に要する時間を考えると、会沢正志斎、頼山陽、林子平、石田梅岩などは、難解すぎるので他の教科書には出てきません。ほかの教科書では3~4人(本居宣長、杉田玄白、伊能忠敬、シーボルト)だけです。 

5 124頁上の寺子屋の説明 寺子屋の数。寺子屋の数を全国で約1万としていますが、寺子屋が増えるのは18世紀後半以降で、数も幕末には約1万6千(『日本教育史資料』)といわれています。さらに、この数の2~4倍もあったという説まであります(『江戸の寺子屋入門』など)。

アドバイス

 この授業では、寺子屋が普及したこと、新しい学問が成立したきっかけ、内容、研究方法、成果について具体的な説明をして、生徒がイメージしやすくし、それぞれの学問がどんな社会背景でおこったのかを学ぶことが、重要です。

コラム 「江戸の下町へタイム・スリップ」は幻想だらけ(Vol.2)

コラム 「江戸の下町へタイム・スリップ」は幻想だらけ

                              「江戸の下町へタイム・スリップ」122~123頁

1 「両国橋のにぎわい」は
 最初の「江戸両国橋のにぎわい」と「三井越後屋」は、江戸東京博物館の展示の紹介です。これが繁栄する江戸下町の姿だ、と印象づけるための仕掛けです。
 江戸の下町とは、高台の山の手に対し、江戸の低地の部分を下町と呼ぶという説が有力で、山の手には武家屋敷が多く、下町に町屋が多かったことから、下町は町人の町というイメージが定着しました。そして江戸中期までの下町は、神田・日本橋・京橋周辺の呼称で、後期に下谷や浅草までを加えるようになりました。
 「両国橋のにぎわい」は、江戸東京博物館の常設展示場の中心的展示で、実物大の両国橋を再現したものです。そして橋の東西に設けられた広小路の賑わいを見せることで、江戸の繁栄を実感させようとしたものです。時代設定は江戸後期、下谷や浅草も下町と呼ばれだした文化文政期の光景を想定し、再現したものです。
 たしかに下町の日本橋周辺には、呉服の越後屋をはじめ大店が建ち並んでおりました。彼らは株仲間を組織し、江戸の経済を牛耳ってきました。遊里吉原では、「粋」と呼ばれる美的な感覚で遊女と上手に遊び、「通」と呼ばれるお大尽(だいじん)の多くは大店(おおだな)の旦那衆でした。「葛蒔絵(くずまきえ)提(さげ)重箱(じゅうばこ)」のような豪華な衣類や家具や装飾品を所持できたのは、大店と呼ばれるほんの一握りの上層町人だけでした。

2 江戸後期に経済の主役は野暮な中小商人へ
 しかし江戸後期になると、株仲間以外の中小の新興商人が江戸経済の中で大きな位置を占めだし、まもなく江戸のメーンストリートに進出するのです。
 村を離れた貧しい農民が各地から大量に江戸に流入してきて裏長屋に住む。こんな「店(たな)借(がり)」といわれた住民は、手に職(技術)もなく、元手(資本)もないので、仕事は日雇いや行商などによる日銭(ひぜに)稼(かせ)ぎのため、「その日暮らし」の者と呼ばれました。しかしそんな人間でも、毎日食べ、着物を着て生きています。それが10万人以上にもなると、消費量は膨大なものになります。彼らは安い物しか買えません。こんな層を相手に商売し、経済的に成長しだしたのが神田周辺に店を持つ中小商人でした。扱う商品は江戸地廻(じまわ)り産の安物ばかりです。彼らの生活はまだ質素なものでしたから、暮らしに潤いをもたらす民芸風の家具や装飾品を大切に使いました。彼らは江戸っ子であることを誇りにして、生活信条として「意気」や「心意気」という言葉を大切にするようになりました。
 一方「その日暮らし」の者たちは裏長屋(うらながや)暮らしでもなんとか暮らしていけるから、「人返し令」の甘い誘いには乗らない。彼らも人間で、花見にも花火見物にも出かける。だから行楽地が賑わったのは当然です。また裏長屋を舞台にした怪談物が大変な人気を呼びだしたように、裏長屋の住民を主人公にした小説や芝居が江戸文化の主役に躍り出たのです。

 
3 闘う江戸の下層民にも焦点を当てよう
 江戸後期、江戸の住人の大半は、「その日暮らし」の者で占められだしました。下町の神田周辺や下谷のほか、「場末(ばすえ)町」と呼ばれる本所・深川などの裏長屋に住み、日銭稼(ひぜにかせ)ぎの仕事に出ました。でも、江戸ではお米が食べられる。すごい!
 主食はお米しかなく。江戸では将軍も裏長屋の熊さんも米を食べて生きています。そんな消費人口が100万人も住んでいたのです。そこへ大凶作が起こり、稲が不作で米価が暴騰したら江戸市中は一挙にパニックに陥ります。そして安い米を求めて「その日暮らし」の者たちが米屋を打ちこわしに出ます。1787(天明7)年、天明の飢饉のさい、約1,000軒も米屋などを襲い、自分たちの命を守ろうとしました。老中田沼意次を失脚させる原動力となったのです。
 そのころ、100万都市への産物供給など商品生産が盛んになり、村にも田畑を手放して機織などで働く貧農が増えていました。彼らもまたお米を買って食べだしましたので、村にも消費人口が増大していたのです。だからちょっとした不作でも各地で打ちこわしが起こりました。そんな闘いが全国的に頻発しだしていたのです。その最大の闘いが天保の飢饉のとき、全国で起こった打ちこわしでした。
 そんな各地での打ちこわしは、すぐ江戸の米価に反映しました。そこで幕府は貧民救済のための七部積金の法で積み立てた資金を運用して、打ちこわしへの発展を未然に食い止めたのでした。
 これが「下町へタイム・スリップ」の華やかな江戸の実態なのです。事実を隠蔽し、繁栄の一部分を拡大してみせるのでは、史実は見えてきません。

4 輸出陶器用に浮世絵の古紙は使われたか?
 123頁の下に「ヨーロッパに輸出された絵皿」という題で伊万里焼の皿が紹介されています。これはオランダへ輸出されるさいに梱包用に浮世絵の古紙が使われ、それがヨーロッパでの浮世絵の流行、さらに「ジャポニスム」という日本ブームのきっかけとなったという説明を裏付けるために紹介されたのでしょう。
 浮世絵が錦絵と呼ばれるのは、浮世絵師鈴木春信が創始してからです。そのころ、もう伊万里焼の輸出は中止され、VOCという商標を持つオランダ東インド会社も解散し、伊万里焼のヨーロッパ市場への道は途絶えていたはずです。密貿易で輸出されたと想定しても、それはゴッホやロートレックが影響された錦絵ではなく、単色か2色の浮世絵でしかなかったはずです。このVOCのマーク入りの皿は、17世紀産の伊万里焼で、明の景徳鎮が復活し、伊万里焼の輸出が衰退する以前のものでしょう。
 浮世絵が、ヨーロッパ、とくにフランスで大きな反響を呼ぶのは1867年のパリ万国博覧会に、浮世絵が大量出品されてからです。もしそれ以前だとしても、横浜港から輸出される生糸の荷崩れ防止のパッキング用に詰め込まれた可能性があるくらいで、いずれにせよ幕末のことです。それが常識だと思います。

コラム 貨幣経済と米経済の攻防って何?(Vol.2)

コラム 貨幣経済と米経済の攻防って何?

 
 江戸時代の経済の変化について、自由社教科書には次のような説明があります。

 江戸時代の経済の歴史では、民衆にとって便利な貨幣経済と、武士の生活を支えている米経済の攻防が繰り返された。幕府に強力な指導者が出て行われる「改革」は米経済体制の立て直しを意味し、かならず緊縮財政をともなった。市中に流通する貨幣は減り、倹約令も出されて民衆の生活が制約されるために文化もいきおい低調になるが、その緊縮政策がゆるみ、貨幣流通が息を吹きかえすと文化も再び花開くのであった。(120頁1~8行目)
 「先生、貨幣経済と米経済の攻防ってなんですか?」と質問されたら、どう答えたらよいでしょう? そもそも貨幣は、民衆には「便利」で、武士には困る存在なのでしょうか? また、貨幣の流通量の変化によって、文化が発展したり衰退したりするのでしょうか?
 貨幣経済とは 中世の日本では、強力な統一権力が存在しなかったために、信用ある貨幣が発行されず、中国の銅銭(宋銭・明銭)を輸入して国内で使っていました。国内で貨幣を発行できるようになったのは、豊臣秀吉、徳川家康が国内を統一してからのことです。しかし、貨幣は発行されただけで広く流通するわけではありません。律令時代の富本銭や和同開珎などが社会にゆきわたらなかったように、貨幣が必要とされるような商品の交換が行なわれなければ、普及しないのです。江戸時代には、中世とは比べものにならないほど商品生産が盛んになり、貨幣も広く社会全体で用いられるようになりました。つまり、貨幣経済の発達とは、商品経済の発達を意味しているといえるでしょう。

 武士の収入では、江戸時代の武士にとって、貨幣経済は攻防によって敵対すべきものなのでしょうか? 江戸時代は、兵農分離によって武士が城下町に集住させられていたため、幕府・大名やその家臣たちは年貢米を商品として売って貨幣に換え、その代金で必要な物資を手にいれるしくみになっていました。米経済という言葉は歴史学の用語ではなく、この教科書にも説明がありませんが(もちろん高校の教科書や受験にも登場しません)、武士が年貢米に頼って生活するという意味だとすれば、米経済による武士の生活は、はじめから貨幣経済(商品経済)にくみこまれており、貨幣経済と対立し攻防するものではないというべきでしょう。武士は、はじめから商品としての米の流通売買を前提に財政を維持していたのです。さらに、くわしくいうと、武士も全国的な商品流通を前提として生きるという社会のしくみを作ったのが、豊臣秀吉や徳川家康の行った兵農分離政策でした。

武士の財政困難 しかし、貨幣経済の発達は、武士に大変大きな影響を与えました。新田開発が進み、需要以上に米が生産され市場に出回るようになれば、米価は低迷します。一方、さまざまな商品が生産され生産が需要に追いつかないと、その値段は上がり、武士の支出は増加します。米価安、諸物価高――大きく見てこの動きが進んだこと、そして、その結果、年貢米の販売代金で財政をまかなっていた幕府や大名が財政難に苦しむことになったこと、それが、貨幣経済が武士に与えた影響でした。
 18世紀以降、幕府や大名の財政難を示すエピソードは数多くあります。盛岡藩では、1723(享保7)年の大晦日、江戸の藩邸に品物の代金を取り立てに来た商人たちに支払いができず、商人たちが元日になっても藩邸を退去しないため、藩の重役が商人たちに財政困難の事情を告げて謝り、その面前で切腹し、ようやく帰ってもらいました。また、庄内藩主の酒井忠徳は、1772(安永元)年の参勤交代の帰途、福島宿で旅費がなくなってしまい、「14万石の大名でありながら旅費も不足するようでは、将軍さまへのご奉公など、とてもつとまるまい」と泣いて嘆いたそうです。参勤交代の旅費すら出せずに困っていた大名は、東国でも西国でも珍しくありません。

貨幣経済を利用する このような、18世紀以降の幕府や藩の財政難の大きな原因は、貨幣経済(商品経済)の発達にありました。幕府や藩は、倹約だけでなく、まず年貢を増徴してなんとかしようとします。また、それが難しくなると、逆に商品の生産や流通を盛んにして、田沼政治のように、その利益に税をかけ商人から上納金を取り立てました。
 しかし、財政難の対策は、それだけではありません。特に、幕府には、大名にはできない収入増加策がありました。それは、貨幣の改鋳です。金や銀の含有量を減らして、質の悪い金貨や銀貨をたくさん発行し収入とする―つまり“お金が足りないから、お金を作ってしまう”のです。貨幣経済との「攻防」どころか、これ以上の貨幣の利用はありません。幕府にとって貨幣はきわめて「便利」な存在でもありました。
 元禄時代(17世紀末)に初めて行われた貨幣改鋳で、幕府は450万両の出目(利益)を得ました。その後、貨幣政策はいろいろ変化しますが、19世紀には、改鋳による出目なしには幕府財政はなりたたなくなっていました。強力な幕政指導者水野忠邦が天保改革をおこなっていた1844年、幕府収入の33.3%(856万両)は改鋳によるものでした。「改革」だからといって、貨幣流通量を減らしたというわけではないのです。まして、文化の発達・衰退が貨幣の流通量によるという新説(奇説?)に根拠はないというべきでしょう。
 この教科書を使う場合には、「貨幣経済と米経済の攻防」などという、江戸時代の経済についての誤った説明を削除して、商品生産が社会にどのような影響を与えたのかをきちんと理解させることが大切です(本冊子86頁「幕藩体制の動揺と改革」参照)。

江戸の町人と化政文化(Vol.2)

江戸の町人と化政文化
    「41江戸の町人と化政文化」,「江戸の下町へタイムスリップ」120~123頁

ここで学びたいこと 

1 江戸が中心となった化政文化 江戸時代の後半期になると、江戸は100万人の大消費都市として繁栄します。武士の支配する政治的都市「天下のお膝元」で人口の約半分を占めたのは町人でした。豪商の出現とともに、中・下層の町人たちが次第に経済力を持つようになり、豊かな町人文化を発達させる担い手となりました。

2 庶民の親しんだ文芸 小説・川柳・狂歌 寺子屋の普及だけではなく、町人は店の看板・蕎麦屋の品書きの札など日常の生活環境からも、読み書きを身につけることも多く、識字率が高まりました。内容は、『東海(とうかい)道中(どうちゅう)膝栗毛(ひざくりげ)』に代表される滑稽本(こっけいぼん)をはじめ多種多様。文字にはルビがふってあり、挿絵のあるものも多く、庶民の娯楽として親しまれ、貸本屋が繁盛しました。一方で、社会批判的な小説は、厳しい取締りを受け弾圧されました。例えば、寛政の改革の時、洒落(しゃれ)本(ぼん)作家の山東(さんとう)京伝(きょうでん)は、手鎖50日の刑を受け、版元の蔦屋(つたや)重三郎(じゅうざぶろう)も財産の半分を没収されました。町人たちは政治に翻弄され「お上には逆らえない」状況でも、諷刺や皮肉の精神を発揮しています。

3 浮世絵の人気は 役者絵・美人画・力士絵・風景画 錦絵と呼ばれる多色刷りの版画の技術が生まれ、安価で販売できるようになり、浮世絵は全盛期を迎えました。この背景には、歌舞伎や寄席、相撲、旅など、経済的な余裕を持つようになった町人たちの娯楽のひろがりがありました。
 121頁に歌舞伎の絵があります。舞台、満員の客席(桟敷・1~3階・舞台の袖付近)、花道、などの様子を観察させてみましょう。花道では市川(いちかわ)団十郎(だんじゅうろう)が『暫(しばらく)』を演じる名場面です。「成田屋(なりたや)!」と声がかかっていることでしょう。歌舞伎の興行は、朝6時ごろから、昼食をはさんで夕方まで催されました。封建制社会のさまざまな抑圧に置かれていた町人にとって、芝居小屋という独特の空間で、実際はかなわない願望が舞台で具現されていくのですから、これほど解放されるひとときはありません。しかも、派手な隈取や豪奢な衣装と道具による様式美に魅かれ、役者への憧れを募らせました。人気の高い役者絵は、飛ぶように売れたそうです。木戸銭(きどせん)の出せない町人は、せめて役者絵をと買い求め、寄席などを楽しみました。

4 地方文化の発達 陸上の交通路も水上の航路も急速に整備され、ネットワークができ、物も人も頻繁に交流するようになりました。三都の文化は、城下町や港町をはじめ各地に伝えられ、独自の文化が栄えるようになりました。例えば、農村でも、小林一茶(俳人・信濃)や良寛(りょうかん)(歌人・越後)などが優れた作品を残しています。

ここが問題

1 120頁の冒頭~8行目は、用語や記述などに学問的裏付がありません。意味が分かりにくく、教科書としては、不適切な説明です(本冊子92頁、コラム「貨幣経済と米経済の攻防って何?」参照)。

2 江戸中心の説明しかなく、地方の文化についての視点が見られません。 例えば、各地に芝居小屋ができ、農村歌舞伎なども演じられるようになりました。また、地方都市の発展の姿として北前船の拠点のひとつであった酒田の例(帝国118~119頁:歴史の舞台⑤酒田/豪商のくらし)は、イメージを高める教材です。

3 123頁6~13行目 ヨーロッパにおける「ジャポニスム」の扱い方が、問題です。
 「モネ、ドガ、セザンヌ、ゴッホ、ロートレック、ゴーギャンなどだ。いずれも今日、世界のもっとも有名な画家であり、その中のいく人かは、印象派という近代絵画最大の変革の旗手として知られている。江戸の町人文化の中から生まれた浮世絵がこのような画家たちを刺激して世界の文化を動かしたのだから愉快ではないか」。
 この画家たちが、浮世絵の影響を受けたことはよく知られていますが、浮世絵が、「世界の文化を動かした」とは、誇張です。19世紀半ばのジャポニスム以前に、ヨーロッパでは16世紀後半から18世紀にかけて、シノワズリー(中国趣味)が流行し、中国風の室内装飾や美術工芸品が愛好され、収集されました。このことには全く触れずに、日本文化の影響だけを強調し、個人的な感想の記述で締めくくるのは、教科書としては適切ではありません。文化の交わりや影響は、多種多様です。事実を客観的に示すことで、その広がりを学べます。帝国130頁には広重とゴッホの絵が並べられての設問があります。生徒に観察と思考をさせながら、絵解きをすることの方が、関心を高め発見する楽しい授業が出来るのではないでしょうか。

アドバイス 

1 江戸時代の町人になったつもりで、川柳や狂歌にこめられた皮肉を、探ってみましょう。
川柳 「かみなりを、まねて腹掛け やっとさせ」「役人の子ハ にぎにぎを よくおぼえ」「侍が 来てハ買ッてく 高やうじ(楊枝)」
狂歌 「白河の清きに魚もすみかねて、もとのにごりの田沼こひしき」
  「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶぶんぶ(文武文武)と夜もねられず」

2 庶民に人気のあった屋台でのファーストフードの話です。寿司といえば、それまでは、関西と同じ押しずしで、江戸前の浅瀬で取れた雑魚(ざこ)を処理する食物でした。今の「江戸前」(握りずし)が発明されたのは文政(ぶんせい)期(1818~1830)だといわれています。天麩羅(てんぷら)は安永(あんえい)年間(1772~1781)に江戸で流行しはじめました。関西で菜種栽培が盛んになり、食用油が普及していたので、江戸前の魚貝を素材にして、ころもをつけて簡単に揚がり、腹持ちの良いものとして愛好されました。江戸前も天麩羅も美味しく味わえたのは、濃い口醤油が、江戸で普及していたからです。それは、千葉県の野田や銚子で生産されていました。

3 「幕の内弁当」の由来は、歌舞伎の幕間(幕の内)の休憩時間に、桟敷や土間で食べた簡便な弁当です。箱を仕切って、野菜の煮物・焼魚・玉子焼き・漬物、などを見栄えよく盛り、黒ゴマを振りかけた俵型のご飯を詰めたものが一般的でした。

コラム  江戸時代の飢饉の記述について(Vol.2)

コラム  江戸時代の飢饉の記述について

素っ気ない記述  飢饉もしくは凶作についての記述は全体に素っ気なく不親切です。「歴史のこの人」の青木昆陽の説明に、「たまたま、享保年間に西国が飢饉にみまわれ、幕府は飢饉の際の食糧確保の方法を考えなければならなくなった」(117頁)と書いています。昆陽を取り上げるのはよいとしても、そのサツマイモの栽培の動機となったとする享保の飢饉については、本文にも記述がなく、西国が飢饉になったということ以外に何もわかりません。1732(享保17)年にウンカという虫が、大陸のほうから海を越えて飛来し、西日本で異常に増殖して稲を枯らし、大凶作になってしまったことくらいは説明してあげたいものです。幕府はこの西国の飢饉を救うために、大坂の御蔵や各地の城に備えてあった米、幕府領の年貢米、江戸で買い上げた米などを積極的に西日本の被災地に回しました。江戸ではそのために米価が上がってしまい、回米に関与した商人が打ちこわされています。また、鯨から採った油を水田に注ぎ、それにウンカをたたき落として駆除する方法が発明されたことなどにも触れると、享保の飢饉についての理解は深まるでしょう。

天明の飢饉の原因は浅間山の噴火か? 「産業の発展と田沼政治」では、「1783(天明3)年の浅間山噴火による気候不順でおきた大きな飢饉(天明の飢饉)で、多数の人々が餓死し、一揆や打ちこわしが多発し」(117頁)、責任を問われ田沼が辞任したと書かれています。しかし、多数の餓死者を出した天明の飢饉ははたして浅間山噴火による気候不順で起きたのでしょうか。結論からいえばきわめて短絡的な結び付けかたです。
 天明の飢饉は1782(天明2)年頃から1787(天明7)年頃までを長くとらえるのが一般的なようです。1786(天明6)年の関東や西国の凶作が米価の高騰を招き、翌年5月頃、大坂・江戸など全国各地の都市で連鎖的に打ちこわしが発生し、田沼の失脚につながりました。ただ、「多数の人々が餓死」したのは1783(天明3)年の大凶作によるものです。餓死者は、東北地方の北部・太平洋側に集中し、30万人以上と推定されます。
 浅間山の噴火は、1783年の4月頃から噴火が始まり、6月下旬から7月上旬にかけ(新暦でいえば7月下旬から8月上旬にかけ)激しく噴火し、東北の仙台や盛岡あたりまで白い「毛」のような灰が降ったと記録されています。群馬県側に大きな被害を出し、噴火による土石なだれ・泥流で約1500人が死亡したと推計されています。この浅間山の火山灰は成層圏にまで達して日光の照射を妨げ、それによる冷害でフランス革命を誘発したとまで語られることが少なくありません。東北地方では、浅間山の大噴火が起こる前から、太平洋の海の方から吹いてくる東北風、いわゆるヤマセの影響で冷たい雨の降る日が続き、低温と日照不足の天候不順であったことが知られています。浅間山の大噴煙の影響はなかったとはいいきれませんが、基本的にはヤマセの影響とみるべきでしょう。ヤマセはオホーツク高気圧が発達したときに起こる気象現象といわれています。

飢饉は自然災害? 浅間山の噴火はともかく、気候不順が飢饉を引き起こしたという書き方も、飢饉は自然災害、天災だという狭い見かたに閉じ込めかねません。飢饉というのは、冷害・旱害・風水害・虫害など農作物の被害、すなわち凶作がきっかけとなって、食べ物が不足し、死に直結していく飢えの状態に陥ることです。天候不順など天災的な要素のあることは否定できませんが、凶作がただちにおびただしい数の餓死者を生み出してしまうとはかぎらず、さまざまな人為的(政治的・経済的)な要因がからんで、飢えが作りだされたのが、少なくとも江戸時代中期・後期の大きな飢饉の特徴です。
 当時の人々は飢饉を説明するとき、人々の奢(おご)り、すなわち質素倹約な生活を忘れ、ぜいたくな暮らしをするようになったからだといいました。奢りというは、貨幣経済・市場経済の発展によって、米を作る農民も年貢米を納めた残りの米を売って貨幣に換え、衣食住の消費生活の向上にあてようと考えるようになったことを意味しています。本来、農民は凶作になったときの恐さをよく知っており、それに備えて次の収穫まで米を残しておいたものです。しかし、新田開発が進み、低米価の時代が長く続きましたので、少しでも売値がよくなると、気候不順を気にとめずに手放すようになってしまいました。そこに大凶作に襲ってきたらどうなるでしょうか。むろん、藩の救済があれば人々は餓死しないで済みますが、藩もまた財政窮乏などから、年貢米に加え、農民から強制的に買い上げて江戸や大坂方面に回米していましたので、人々を飢え死から救うことができませんでした。これが東北地方における天明の飢饉の実態でした。

備荒制度の登場  こうして、藩も農民も貨幣経済の進展とともに飢饉への備えがおろそかになって天明の飢饉を招いてしまい、あらためて寛政の改革で、社倉などと呼ばれる地域社会の備荒制度が再構築されることになったのです。「寛政の改革と大御所時代」では、松平定信が「凶作や飢饉に備えて、農村に倉を設け、米を貯蔵させた」(118頁)と記述し、その肖像画の説明でも、「凶作や飢饉への備えを指導し、天明の飢饉のときも白河領内には餓死者を出さなかった」(118頁)と人物の紹介をしています。飢饉の原因を浅間山噴火だけに求めるのは、前に述べた通り誤りですが、定信が社会政策として飢饉の備えに取り組んだことはきちんと教えて欲しいところです。

想像力を働かせよう  「飢饉の発生と天保の改革」では、「19世紀前半の天保年間に、日本は凶作におそわれ、深刻な飢饉におちいった(天保の飢饉)」(118頁)と書きますが、「深刻な飢饉」とはどんな状態なのでしょうか。天明の飢饉でも「多数の人々が餓死した」というだけで、飢饉状態のなかで苦しむ人々についての想像力がまったく働きません。食べ物がなくなると人々は山野に入り木の実を拾い、草の根を掘りました。また、飢え人となって食べ物のある都市に向かい施しを受けました。はるばる江戸へのぼり、そこで保護され国元に帰された人もいました。飢饉下では盗みや放火が発生し、そのため過剰防衛になりやすく、わずかな盗みでも村人たちによって殺されてしまうこともありました。飢え死にそのものよりも疫病に罹って死んだ人のほうが多かったと記録に残されています。飢饉のとき人肉を食べたということまで生徒に語る必要はないと思いますが、飢えた人々の境遇を想像させ、飢えにならないための手だてを考えさせるのが、今日の食料・農業問題ともかかわって、飢饉を教えるさいにもっとも重要なことでしょう。

幕藩体制の動揺と改革(Vol.2)

幕藩体制の動揺と改革

39 享保の改革から田沼政治へ」,「40 寛政の改革と天保の改革」116~119頁

ここで学びたいこと

1 農村の変化 幕府の支配が揺らぎ、諸改革が必要となった背景を考えてみましょう。授業の導入として、右のグラフを生徒に示してみましょう。江戸初期、村では10~20石未満の中農などの本百姓が中心であり、幕府の年貢収入を支えていました。当時は、自給自足的な生活が中心でした。しかし、17世紀以降、貨幣経済が浸透すると、幕府を支えていた本百姓の階層分化が進み、没落する農民も出てきました。こうした農村の変化について、東京書籍版のていねいな記述がとても参考になります(106頁)。また、農村の階層分化をわかりやすく生徒に理解させるには、近畿の一農村である「河内国下小坂村」を事例にしたグラフを使うのが有効です(『神奈川県版総合歴史』浜島書店、88頁)。このグラフから、18世紀には小農以下の農家が、全体の7割以上を占めるようになり、農村に格差が広がっていることが分かります。

2 田沼意次の改革 江戸幕府が開かれてから、新田開発などによって米の生産高が順調に伸びてきたのに対し、18世紀後半以降は天候不順により、凶作と飢饉に見舞われます。年貢は天候にも左右され、安定した収入が望めません。一揆・打ちこわしも増加します。年貢に依存する限り、幕府の諸改革は成功しないとも言えます。年貢増徴策に限界を感じた田沼意次は、蝦夷地でとれた海産物の乾物(俵物)や銅を盛んに輸出して長崎貿易を活発にするなど、年貢以外の収入増大政策を積極的に展開しようとしました。しかし、田沼政治が飢饉によって終わりを告げたように、天災に耐えられる財政の仕組みを作り上げるには至りませんでした。

3 松平定信の改革(寛政改革) 定信の政策は緊縮財政でした。しかし、定信が直面したのは、農村の変化と農村から都市への人口流入などによる都市問題でした。幕府は、寛政の改革で、農村から流入しつづける人々に対してどう対処したのか、農村に対して一揆を防ぐために、天災や飢餓対策として米の備蓄を行わせたこととも併せて、生徒に考えさせてみたいところです。

ここが問題

1 この教科書の全般にわたって言えることですが、民衆の姿が見えない記述になっています。この単元では、貨幣経済の浸透による経済変動から一連の改革が実施されるが、それは民衆への負担を強いるものであり、一揆や打ちこわしにつながったという「道筋」が、この教科書では見えてこないのです。百姓一揆のピークがそれぞれの改革や飢饉と相関していることを示す帝国書院版の「②百姓一揆の発生件数」グラフ(帝国126頁)などを活用すると良いでしょう。改革や飢饉など生活負担の高まりと民衆の動きとが、連動していることを、グラフからとらえさせ、この時代の概略を押さえさせましょう。

2 116頁11~13行目「新田開発を行ったり、年貢率をあげたりして、年貢収入の増加に努めた。これによって、幕府財政の立て直しに成果をあげた」。享保の改革について、吉宗は豊作・不作・飢饉に関係なく一定の年貢を徴収する定免法を採用し、年貢率を引き上げました。それは、サツマイモのような救荒作物でしのいでも、年貢を必ず納めさせるという、幕府の厳しい姿勢を示すものです。「歴史のこの人」(117頁)の青木昆陽もそうした文脈でとらえる必要があります。この教科書に即して授業を展開すると、支配者である幕府の目線でいえば、「立て直し」の歴史になりますが、享保の改革に見られる幕府収入の拡大も、年貢率の増大や冥加金の徴収など民衆からの収奪を強化することで「成功」したのです。負担の増大に苦しむ人々が、百姓一揆や打ちこわしによって、支配者に対して「異議申し立て」をした経緯も、学習していきたい項目です。

3 117頁11~12行目「田沼の政策は目新しいものだったが、大商人が幕政に深くかかわり、その結果、賄賂が横行して批判をあびるようになった」とあります。この教科書に限らず、多くの教科書が田沼政治の特徴に賄賂の横行をあげています。しかし、賄賂は田沼時代特有のものではありません。他にどのような批判や不満が、田沼の政治に鬱積していたのかが問われます。最近の研究では、諸藩の財政を困窮させてまで遂行された田沼の専制的な政治手法が、批判や不満の背景にあったことも指摘されています。

4 118頁3~4行目「定信の改革の中心的な柱は、農村の再建だった。そのため、江戸などの都市に流れ込んだ農民に、資金をあたえて故郷の農村に帰した」とありますが、なぜ農民が農村を捨てたのかについても説明が必要です。農村が抱えた社会変動(貨幣経済の浸透、農家の支出拡大、豊作による米価の下落、収入の減少、天災、重い年貢、家産の没落と階層分化など)を想起させましょう。

アドバイス

この教科書では、「江戸の人足寄場」が紹介されています(118頁左上の図)。定信が出した旧里帰農令は農村の生産人口の増加と江戸の消費人口の抑制が狙いでしたが、こうした施設を建てざるを得ない程に、都市への人口流入が進んでいたといえます。この教科書は「職業訓練」施設と説明していますが、過酷な作業や扱いの厳しさから、寄せ場送りは、当時から恐れられていました。しかも、施設は次第に所払いとなった無宿者を収容する徒刑場の性格を持つようになりました。定信の都市問題対策の一例である「人足寄場」は、都市問題の解決ではなく、むしろ都市問題解決を先送りする政策であったことが指摘できます(松本四郎「江戸の無宿と呼ばれた人々は、どんな生活をしていたか」歴史教育者協議会編『100問100答日本の歴史』4巻、河出書房新社)。

農業・産業・交通の発達(Vol.2)

農業・産業・交通の発達

                                「37農業・産業・交通の発達」110~111頁

ここで学びたいこと

1 大開発と農業技術の進歩 17世紀は、大開発の時代とよばれ、耕地面積はそれ以前の2倍にまで広がりました。この頃の新田開発は、年貢収入を増やすために幕府や大名が行ったものだけでなく、農民や商人もさかんに開発を行いました。横浜の場合、現在の横浜港や横浜駅の周辺は、それぞれ、17~18世紀に町人が開発した吉田新田、尾張屋新田などとよばれる新田です。現在の横浜市街の中心部はすべて江戸時代の干拓地の上にあることなどを紹介するのもよいでしょう。

2 産業と交通の発達 農民も、身近な土地での新田開発や農具の改良に努め、米や麦などの穀物だけでなく、商品として売るための、農業・漁業・手工業の生産が各地で盛んに行われるようになりました。111頁の図を使って、子どもたちが知っている特産物を探し、江戸時代の産業が現在の生活文化につながっていることに気づかせることもできます。
 また、それらの商品生産が互いに関係しあって発達したことにも目をむけたいものです。江戸時代のはじめ頃まで、木綿や生糸・絹織物は朝鮮・中国から輸入されていましたが、次第に、国内での生産が盛んになりました。その結果、染料となる紅花や藍の生産がさかんになり、綿作は良質の肥料を必要とするために、肥料となる干鰯や干ニシンが求められ、網を使った大規模な漁業が盛んになります。流通の展開は貨幣経済の発達をもたらし、金・銀・銅の鉱山開発も進みました。

3 三都の繁栄 江戸時代には、江戸、大坂(大阪)、京都の三都とよばれる巨大な都市が発達しました。江戸の人口は100万人を超え、世界一の大都市になりましたが、それはなぜでしょうか?江戸の人口の半分は武士とその奉公人です。江戸には将軍の家臣(旗本と御家人)が集められ、大名も参勤交代のために1年ごとに江戸と国元を往復して生活させられました。武士の生活を支えるために、商人や職人の町も作られました。こうして、最大の城下町江戸は、政治の中心となる都市として、人口がふくれあがっていったのです。
 一方、新田開発により増産された全国の年貢米や特産物は、大坂におかれた大名の蔵屋敷などに集められ、そこから菱垣廻船や樽廻船で大消費地の江戸に運ばれました。大坂は、「天下の台所」とよばれる商業の中心になりました。三都や各地の城下町が大量の年貢米の販売・消費地でもあったことにも、目を向けたいものです。

ここが問題

1 110頁1~3行目「平和な社会が到来し、人びとは安心して生活の向上をめざして働いた。幕府や大名も、農地の拡大につとめ、干潟や河川敷などを中心に新田の開発が大規模に行われた」というところは、幕府や大名が新田開発を行い、そのもとで農民が働いただけという理解にならないようにすることが大切です。横浜をはじめ、全国各地でも、農民や町人たちは、規模の大小を問わず新田開発に取り組んでいます。新田開発は、百姓や町人たちの工夫や熱意と幕府や大名の姿勢があいまって進んだとみるべきでしょう。

2 111頁8~9行目「江戸は、「将軍のおひざもと」とよばれ、商人や職人が多数集まり」というところも、城下町に自然に商人や職人が集まってくるようによめるので、注意が必要です。城下町の建設にあたっては、かならずしも商人や職人が自然に集まってくるわけではありません。大坂や江戸では、豊臣秀吉、徳川家康が商人や職人を集め、職業ごとに町をつくらせました。
右の図(割愛)は、江戸の日本橋南側の様子です。町名をみると、さまざまな商人や職人の町があったことがわかりますが、それは、幕府が積極的に商人や職人を集めて居住させたなごりです。都市が発達してゆくと、みずから都市に流入する人びとも増え、職業も入り交じるようになります。ただし、武士は武家地、町人は町人地にしか住めませんでした。人口の半分を占める50万人以上の町人たちは、江戸の土地全体の16%(約296万坪)の町人地に住んでいたのです。

アドバイス

1 この項目は、地域の教材を使いやすいところです。大岡川、鶴見川、帷子川などの下流域の開発事例から、子どもたちの関心を引き出すこともできます。

2 三都の町人の活発な経済活動を理解するために、三井越後屋の「現金掛け値なし」の図も役立ちます(帝国116頁)。

近世の身分制度(Vol.2)

近 世 の 身 分 制 度

「36江戸の社会の平和と安定」108~109頁

ここで学びたいこと

1 近世の身分制度 前提として、江戸時代の人々の生活様式は身分に応じて異なっていたこと、幕府や藩により身分が制度化されていたことを述べましょう。また108頁の円グラフを利用して、それぞれの身分の人口比率を考えさせましょう。

2 武士身分 兵農分離の結果、武士と百姓間の身分の区別が確定し、武士身分は治者としての名誉を独占する身分として認知されました。武士以外の者が武士に対して「無礼」(武士の身体に当る、行列を横切るなど)をはたらくことはとがめられました。無礼討ちは武士だけに許される特権でしたが、むしろ地位の高さに見合う名誉を守るために彼らが果たすべき責務でもあったのです。手討の相手は必ず殺害する必要がありましたし、相手に逃げられることは武士として「不覚」とみなされ、処罰の対象となりました。無礼討ちを行った後には届出が義務づけられ、「無礼」の有無は厳格に審査されました。

3 村と百姓 幕府や藩による年貢・諸役の徴収の単位として、全国各地の生活共同体が、一律に「村」という枠組みで制度化された点に触れる必要があります。しかし等しく「村」といっても山村あり、漁村あり、町場あり(在郷町(ざいごうまち)といいます)、という状況だったこと、規模や景観においてかなりの地域差があったことを理解すると、「江戸時代の村」についての豊かなイメージがふくらみます。
教科書にも「『百姓=農民』とばかり受け取ってはならない」(109頁)とあるとおり、住民の大多数は「百姓」身分でありながら、さまざまな生業にもついていました。それでもやはり多くの百姓は、年貢米を納めるため、たとえば漁業や林業に特化した村や、よほどの町場でもない限り、田畑の維持を本業として義務づけられていました。さまざまな生業は、タテマエとしてはあくまでも本業を支えるための副業として許されていたのです。タテマエとしての副業と、ホンネとしての生業、この両方を説明すれば、本文と109頁上部の囲み記事との関係がうまく理解できるでしょう。
一方、農業を営む者がすべて「百姓」身分だったのではありません。多くの村の中には「百姓」以外の階層が存在しました。村や地域によって呼称(よく「水呑(みずのみ)」などと呼ばれます)、人数比、実態は千差万別ですが、おおむね彼らは検地帳に登録されず、五人組からも除外され、村の寄合にも参加できないなど不利な立場にありました。

4 城下町と町人 教科書の説明に加えて、城下町の絵図(高校の教科書・参考書・一般書籍などで簡単にみることができます)を見せ、城下町の居住区も武士、町人、寺社など身分別に区画されていた点を指摘すると、理解を深めるのに役立ちます。

5 えた・ひにん えた身分の人々は、農林漁業に従事しながら、死んだ牛馬の解体や皮革業、雪駄生産、竹細工などに従事し、また役目として犯罪者の捕縛や牢の番人などを務めました。ひにん身分の人々も町や村の警備などに従事しました。このように、社会的には必要な役割を果たしていたにもかかわらず、彼らは他の身分からきびしく差別されました。幕府や藩はその差別意識を利用し、身分制度の最下位として固定化することによって、幕藩体制の秩序維持をはかりました。これについては東書93頁に、「幕府や藩により住む場所や職業も制限され、服装をはじめさまざまな束縛を受けました。これらのことは、えた身分、ひにん身分とされた人々への差別意識を強める働きをしました」とあるのが参考になります。

ここが問題

1 108頁10~11行目「武士と百姓・町人を分ける身分制度は、必ずしも厳格で固定されたものではなかった」。身分所属のあいまいな境界線上の人間は、身分制度がどんなに厳格な社会にも当然存在しており、身分移動の事例の指摘だけでは時代の特徴を述べたことにはなりません。むしろ重要なのは、それでも江戸幕府が社会秩序を維持するために、身分制の枠組み自体を最後まで厳守したことです。このことがかえって、百姓や町人などの上層の間で「士分化(しぶんか)」願望をかき立てたのです。彼らのなかには、先祖が武士の家筋につながる由緒であることを証明しようとしたり、窮乏する御家人から御家人株を買ったりする者がいました。また藩は、財政政策の一環として上層農民、町人に御用金や献金をすすめましたが、その報酬として彼らに、公的な場での苗字・帯刀を許可しました。これらの動向は、武士身分が治者としての名誉を独占したという原則をふまえて初めて理解可能でしょう。そのことと、たとえば武士が商人になったこと(確かに実際にありえましたが)との社会的な意味合いは違うのです。
 身分移動の存在の指摘自体はきわめて重要ですが、そのことは常に当時の社会制度や人々の抱いた価値観と関連させて考える必要があるでしょう。

2 109頁8~9行目「百姓は年貢を納めることを当然の公的な義務」。まず理解しておきたいのが、 
 江戸時代が始まった当初(17世紀前半)、農民の生活は不安定だったにもかかわらず、領主から賦課される年貢・諸(しょ)役(やく)(城普請の手伝い、将軍や藩主のための荷物運搬など)の負担は大変重く、農民の生活が圧迫されたということです。このような状況の下、寛永(かんえい)18(1641)年から翌年にかけて、「寛永の飢饉」と呼ばれる大飢饉が発生し、全国に餓死、流浪、身売りが蔓延して、幕府に衝撃を与えました。
 多くの農民は農法を改良したり新田開発を行ったりして、少しでも農産物が手元に残るように努力を積み重ねました。一方、幕府や藩は、彼らの生活にある程度の余裕を持たせたほうが、生産力が高まり、年貢の取り分も増加することに気づきました。
 こうして17世紀を通じて農業生産力は大きく増加し、農民の経営も安定することになったのですが、幕府や藩は、年貢や役を徴収しすぎるがために百姓の生活を破壊することは、自分たちにとってマイナスになると知っていたため、たとえ生産力が増大しても、際限なく年貢を増加させることはしませんでした。百姓は年貢の納入を義務として受け入れることと引き換えに、幕府や藩に対して生活の安定と安心できる社会秩序を強く望みました。
 この「約束」が守られず、生活が脅かされた場合、百姓は領主に対して訴願を行いました。訴願を行うこと自体は合法であり、頻繁に行われました。それでも状況が改善されない場合、彼らはやむなく徒党を組み、百姓身分の象徴として鎌を携え、蓑(みの)笠(がさ)を着るなどして領主に迫り、異議申し立てを行いました。これが「強訴(ごうそ)」と呼ばれる行為であり、教科書などで「百姓一揆」と呼ばれるものはこの段階のものを指します。
 このように百姓一揆の目的は、あくまでも自分たちの置かれた状況の改善にあり、幕府や藩の体制自体を否定するものではありませんでした。その場合、幕府や大名は、たしかに「訴えに応じることもしばしばあった」(109頁)わけです。しかし、単なる訴願と違い、強訴という手段そのものは法によって禁じられていました。要求の実現と引き換えに、強訴の頭取は獄門(ごくもん)、死罪などの刑に処せられました。それでも18世紀後半、百姓一揆の発生件数が増加し、幕府は強訴禁令の周知徹底をはかりました。

3 幕府や藩による年貢の取り分をどうみるべきか? 元禄(げんろく)期(1688~1704年)ごろまでに、日本の農業生産力は地域差を伴いつつも大きく向上し、農民の経営も安定しました。左の図(割愛)は当時、紀伊国(きいのくに)(和歌山県)の庄屋であり、のち才能を買われて紀州(きしゅう)藩の地方役人となった大畑(おおはた)才蔵(さいぞう)が著書『地方(じかた)の聞書(ききがき)』で示した、「中分(ちゅうぶん)の作(さく)人(にん)」(普通の農家)の家計の収支モデルです。
この家の収支残額は銀21匁あまりしか残らないものとされています。才蔵はこれをもって、勤勉努力をし、倹約しなければ、暮らしが立ち行かなくなることを示したのです。
 この時期における同様の計算例は国内のほかの地でも発見されていますが、いずれも年貢を支払ったあと、十分な生活費は残らないとされています。「安定期」といわれるこの時期でさえ、少しでも凶作になると、家計は成り立たなくなるのでした。このような状況下、多くの農民は耕作のかたわら、荷物運送や商業などの余業に従事し、現金を得て家計の足しにしました。
18世紀から19世紀にかけて、農業生産力はゆるやかながらも増加しましたが、他方で年貢の徴収率は頭打ちとなり、農業生産全体のなかで年貢の割合は徐々に少なくなっていきました。マクロな視線でみれば、飢饉などの場合を除いて、幕末までには幕府や藩に徴収されずに村々に残される米の量は増大した、ということができます。
 しかしむしろ重要なのは、その米がどのように分配されたかをミクロな視線で考えることです。これはすなわち、個々の人の生活にそくして考えることを意味します。
左の表(割愛)は、信濃国(しなののくに)(長野県)北部の川中島(かわなかじま)と呼ばれる一帯を含んだ松代(まつしろ)藩領里方(さとかた)(平地の村々)の幕末の人口分布を示したものです。100石を越える石高を所持している者がいる一方で、大多数の者は5石未満しか持っていませんでした。わずかな土地しか持たない者は、多くの土地を持つ者との間で地主‐小作関係を結んで耕作地を確保し、経営を維持しました。年貢米の割合が減る代わりに、小作米すなわち地主の取り分が次第に増加していきました。
 こうした地主の多くは、酒屋や穀屋(こくや)を兼ねていました。大量の小作米が酒造にまわされるか、あるいは周辺の山間村に売られ、大豆その他の雑穀などと交換されました。
なお川中島地方は海から離れた盆地であり、多くの米消費人口を抱えた大坂や江戸などへ米の大規模輸送をするには限界がありました。そのため領主はあらかじめ村レベルで年貢米を換金させて納付させる政策も併用しました。この場合、村では米を何とかして地元で換金せねばならず、その手段として酒造業が発達したのです。米が農村に余り、酒の市場が展開したのには、こうした地域特有の年貢制度の影響もありました。もちろんこのような事情には地域差がありますが、地主‐小作関係が近世を通じて発展し、民間に残された米が、地主の手を通じて酒造や流通にまわされた点は一般化できるはずです。
 なお近世後期には、農民が商品作物を売るなど現金収入の機会も増えましたが、この点は収入面だけでなく、支出も含めて考える必要があります。後期に至っても、一般的な農家の経営にはさほどゆとりがありませんでした(「近世を学ぶために」参照)。
 よく、「江戸時代は明るい時代だったか暗かったか」、「豊かだったか貧しかったか」などといった問題設定がされます。しかし、「社会を見る眼」を養ううえで本当に重要なのは、そうした単純で二者択一的な見方ではありえないはずです。農林漁業を基本として、手工業や物流、運送など多様な生業に従事する人々が、身分制の枠組みの下、自然条件や交通条件に制約されながらもどのように日常生活を営んだのか、また、直面したさまざまな課題をいかにして乗り越えようとしたのかを、それぞれの生活の場=地域にそくして具体的にイメージすることこそが大切ではないでしょうか。

アドバイス 

 地元の自治体史や博物館の図録などに収められている江戸時代の村の絵図を教材として使うと、「江戸時代の村」に親近感を持つことができるでしょう。

「鎖国」から「4つの口」へ―近世日本の国際関係をどうとらえるか―(Vol.2)

「鎖国」から「4つの口」へ―近世日本の国際関係をどうとらえるか―

「自由社」の教科書の問題点 このコラムでは、「自由社」の教科書の中の近世の国際関係の記述(89~128頁)の問題点を詳しく論評する余裕はありませんが、とりあえず、次の3点を挙げておきます。
1つは、日本を美化することに主眼がおかれている、いわば「自惚(うぬぼ)れ史観」であること。
2つは、その価値の基準が欧米にあり、それ以外の地域、特に東アジアへの関心はほとんど見られないこと。
3つは、近世の国際関係については、「4つの口」の関係を「鎖国下の4つの窓口」として紹介してはいるが、そういう関係が存在したことの歴史的な意味についてまともな説明はされていないこと。    
つまり、旧弊な「鎖国」観を、著者たちの「自惚れ史観」にのっとって焼きなおした「鎖国」肯定論にすぎないことです。さらに、文体は散漫で、初歩的な誤りや誤解も多く、新しい研究成果を取り入れて子どもたちに真に栄養になる教科書を作ろうという意欲も配慮も見られません。
  「鎖国・開国」という見方について 「鎖国」という言葉が文科省の今年度の指導要領(高校用日本史B)から消えました。「開国」という言葉はまだ残されていますが、いずれそれも消えることになるでしょう。2つの言葉はともに実態を表現するには不十分であるとともに、「開国」は「鎖国」と対(ペア)になっており、「鎖国」があるから「開国」があり、その逆もまた真であるという関係であるからです。
「鎖国」という言葉が生まれたのは1801年ですが、それが支配層や知識人の間で一般化するのはペリー来航(1853年)以後です。「開国」という言葉そのものは古くからありますが、もともとの意味は「国をつくる」(建国)という意味でした。ペリー来航以後の状態は主に「開港」と呼ばれており、それを「開国」と呼ぶことが一般に定着するのは19世紀末のことです。この対の見方が定着するまでには約半世紀という時間と日清戦争の勝利(1895年)や条約改正の実現(1897年)などの成果が必要だった、言い換えれば、それまでは明治維新や近代化の推進者たち自身も、自ら選んだ方向について不安を抱えていたと言うこともできます。つまり、「鎖国・開国」という対の言葉は近代日本人の近世へのまなざし(観方)であると同時に、彼らのアイデンティティのよりどころの1つでもあったのです。「鎖国・開国」という言葉の歴史的役割については、今後も研究を深めていく必要がありますが、近世の国際関係の実態については、そのような言葉にとらわれずにさらに研究を深めていく必要があります。

「四つの口」の国際関係 「自由社」もそうですが、他の教科書でも「4つの窓口」と言い換えられている例が多いようです。しかし、1978年に提起されたのは「四つの口」で、当時の史料にも、まとめて「四口(しくち)」、個別には「長崎口」・「対馬口」などという表現で出てきます。これらの国際関係にはおよそ3つの局面があります。
1つは、国内において、誰がどのような形でその関係に携わるか、ということです。近世においては、これらの権限は幕府(究極的には徳川将軍)が独占し、外交や貿易などの具体的な業務は1つの特権都市(長崎)と3つの大名(島津氏・薩摩藩、宗氏・対馬藩、松前氏・松前藩)が「役(やく)」として排他的に担い、そのための財政的な基盤として、貿易の利益など、その関係から得られる利益を「所(しょ)務(む)」(職務にともなう得分(とくぶん))として独占することを許されていました。いわゆる封建的な「御恩・奉公」の関係が将軍と「四つの口」の担い手(3都市と3大名)との間には成立しており、それにもとづいてこれらの関係は営まれ、統制されていました。  
2つ目は、これらの関係から排除された国々や人々があったということです。排除された国々はスペイン・ポルトガル・イギリスなど、カトリックを信奉する国々です。その他にも排除された人々がいました。他ならぬ、一般の人々です。ヨーロッパにおいても、上記以外の特権を持たない国々や特権を持った国々であっても、ヨーロッパ以外の地域に関しては、一般の人々は排除されていました。
東アジア諸国における「国家」権力(政府と特権者)による国際関係の独占の形態にも、違いがあります。それぞれについて立ち入る余裕はないので、日本の1つのケースだけについて説明しておきます。一般に「日本人の海外渡航の禁止」と説明されてきましたが、実際には、朝鮮の釜山、当時は「海外」(外国)だった蝦夷地(現北海道の大部分)や琉球にも特権を持つ日本人は渡海していました。日本人の渡航が全面的に禁じられていたのは、スペインやポルトガルが制海権を握り、キリスト教に「汚染」されていると幕府が考えたシナ海域だけでした。事実、「日本人の海外渡航の禁止」の根拠とされてきた、いわゆる「鎖国令」(1635年)のその条文は、具体的には朱印船(奉書船)の禁止を目的としたものだったということが明らかにされているのです。

近世東アジアの国際社会の平和と繁栄 3つ目は、各国の政府が国際関係の権限を独占しながら、主体性を持って相手を選び、そのネットワークで、アジア地域全体の平和と安定を実現したこと、さらに大事なことは、そのことについての明確な、あるいは、暗黙の了解が各国の政権担当者の間で共有されていた、ということです。そして、その様な関係のもとで、日本だけでなく、各国は緩やかに発展を続け、固有の社会と文化を育み、それが現代の各国民のアイデンティティ(国民意識)と文化の土台となったということです。そこに、この時代の国際関係の歴史的な意義を認めることができるでしょう。

近世の国際関係のあり方を「鎖国・開国」観にもとづいて批判的にみることは、一概に否定すべきではないでしょう。しかし、近世の国際関係のあり方を切り捨ててきた近・現代の日本人、そしてその日本人(そこには、「新しい教科書をつくる会」の皆さんも含まれています)が信奉してきた欧米の国際社会の論理は、地球や人類に何をもたらし、これから何をもたらそうとしているのでしょうか。現在は、そのことを真摯に反省すべき時期にきています。その際に、日本をふくめた近世東アジアの国際社会の実態は、私たちが見失ってきたものを映し出す鏡ともなるのではないでしょうか。

鎖国下日本の4つの窓口(Vol.2)

鎖国下日本の4つの窓口
「35鎖国下日本の4つの窓口」106~107頁

ここで学びたいこと  

 「鎖国」とは、どのような実態だったのでしょうか。幕府は、日本人の海外渡航を禁止(海禁)するとともに、長崎・対馬・薩摩・松前の4つの窓口に限定して交易・外交をしていました。これは、幕府が新しく作り上げた独自の外交政策であり、完全に「国を鎖した」のではありません。限定されていたとはいえ、人・物・情報の流入は続けられました。幕府の領地であった長崎は、幕府の奉行所が管轄しましたが、対馬、薩摩、松前の3つの窓口の管理については、それぞれの大名に任せました。幕府はこの4つの窓口から海外の情報を入手し、独占的に管理しました。また、オランダ・朝鮮・琉球王国の使節を江戸に参府させ、幕府(将軍)の威信を国内の人びとにみせつけました。日本の幕府とこれらの国との関係が続いたのは、互いに利益と思惑で結びついていたからです。そのようすを学びましょう。
【注】このテーマは、教科書にある「4つの窓口」としましたが、歴史学では、「4つの口」と表現するのが通説です。以下は~口の用語を使います)

1 長崎口

A 出島でのオランダとの貿易
 17世紀のオランダは、中国産の生糸・絹織物をはじめ、アジア各地で買い付けた綿織物・薬品・砂糖・皮革・香料などを出島に持ち込み、銀・銅などを得て莫大な利益を得ていました。そのため、どうしても幕府からの貿易許可を必要としました。オランダ人は出島での厳しい隔離生活にも耐えました。商館長が江戸に参府し将軍との謁見に臨むときの儀礼は、屈辱的でさえありましたが、我慢したのもそのためです。
 18世紀以降には、日本からの輸出品は銀ではなく銅とされ、貿易額も制限されますが、幕末までオランダとの貿易は続きます。毎年、幕府に提出される「風説書」は、世界情勢を知るための重要な情報源でした。なお、商館長の江戸参府の際は、定宿の長崎屋(ながさきや)に滞在していましたが、その折には学者や知識人が訪問することが許され、蘭学の発達にも影響を与えました。

B 唐人屋敷での中国との貿易 
 一方、幕府は、中国産の生糸や絹織物など、莫大な利益のあがる輸入品を確保するため、中国人の来航による貿易を認めました。清では、日本の銀に対する需要が大きく、17世紀後半には、貿易船が激増し、日本から国外への金銀流出が、貿易上の大問題になりました。そのため、幕府は、1685年、年間の貿易額を中国船銀6000貫目、オランダ船金5万両(銀3000貫目)に制限し、その後も制限を加えました。さらに密貿易を禁止し統制するために、1688年からは、長崎郊外に設置した唐人屋敷(約1万坪の敷地)に限って貿易を許しました。18世紀以降、輸出品は、銅・海産物(煎(い)海鼠(りこ)・干し鮑(あわび)・鱶(ふか)のひれ・昆布)などで、取引量はオランダをはるかに越えていました。

2 対馬口 朝鮮との正式な国交 

 幕府を開いた家康は、対馬藩に朝鮮との国交回復交渉を要請しました。対馬藩にとっては、朝鮮出兵によって中断されていた貿易の復活は急務でしたから、捕虜を朝鮮に送り返すなどで誠意を示し、講和を実現させました。1609年、藩主宗氏は朝鮮と己(き)酉(ゆう)約(やく)条(じょう)を結び、貿易の内容や通信使の来日などが決められました。
 朝鮮側は、釜山(プサン)に倭館(約10万坪)の設置を行い、そこには、対馬藩から役人と商人たち500~600人が常駐していたのです。年に20 回の貿易が行われ、中国産の生糸・朝鮮人参・木綿・書籍などが輸入され、銀や銅が輸出されました。また、将軍の代替わりの時に派遣される通信使を受け入れるための準備なども、この倭館で行われました。この外交使節の派遣は、前後12回実施されました。4回目からは、「信(よしみ)」を「通(かよわす)」通信使と称され、400~500人ほどの大使節団で来日し、各地で歓迎されました。宿泊の際には、丁寧なもてなしを受け、随行の学者や文化人との交流が行われました。朝鮮通信使がもたらした、中国からの情報は貴重でした。

3 薩摩口 琉球王国

 
 1609年に薩摩藩の島津氏は琉球王国を武力で服属させました。琉球王国は以前から中国と服属関係にありました。そのため、冊封使(さくほうし)が来琉し、琉球からは毎年進貢船が派遣されていましたので、海外の情報や中国の産物などをゆたかに入手していました。そこで、薩摩藩は、琉球王国の朝貢貿易を続けさせました。那覇港(107頁の絵)には、中国・琉球・薩摩の船の賑わいがみえます。よく観察してみましょう。     
 幕府は、将軍の代替わりには慶賀使を、国王の即位の際には謝恩使を江戸まで派遣させました。その際、行列に中国風の服装を強要するなどして、沿道の人々に、幕府の「異国支配」を見せて権威を高めようとしました。(帝国の109頁の行列の絵が参考になります。) 

4 松前口 アイヌとの交易

 まだ、どこの国にも属していない領域であった蝦夷地では、アイヌが、狩猟・農耕(アワ、ヒエ、ソバ、ダイズ等)や交易で生活をしていました。中国―韃靼(だったん)―樺太―松前というルートで日本に持ち込まれた蝦夷地や大陸の産品は、松前から各地へ運ばれます。昆布・〆(しめ)粕(かす)・俵物(たわらもの)・蝦夷(えぞ)錦(にしき)などを素材に、蝦夷地―日本海沿岸都市―大阪-長崎や薩摩・琉球を経て中国までつながる、モノの流れを追ってみましょう。
 一方、幕府から松前口の支配を命じられた松前藩は、米が取れないためアイヌとの交易を収入源としました。かつてアイヌたちは、津軽・下北・秋田で、自由に交易していましたので、以前とは異なる不利な条件での交易に不満を持つようになりました。ついに、1669年にはシャクシャインの指導する大規模な戦いが起きました。松前藩は、津軽藩の援軍を得て鎮圧に成功し、これ以降は、アイヌとの交易を独占し続けるようになりました。

ここが問題

1 106頁6行目「長崎には中国船も来航して交易を行った」との記述は、不十分です。自由に交易が出来たのではありません。かつては、長崎各地に住んでいた清国商人は1688年以来、唐人屋敷への居住と取引を義務づけられ、生活は隔離状態に置かれていました。交易は、この屋敷内で幕府役人立会いの中で行われたのです。 

2 106頁11行目「朝鮮の釜山には宗氏の倭館が設置され」では、宗氏が設置したかのような誤解を招く恐れがあります。設置したのは朝鮮側で、日本人の無断外出や内陸旅行は禁止でした。その理由は、再び日本による侵略を恐れていたからです。日本人の足止めは、警戒のためでした。秀吉の朝鮮侵略の影響が大きかったことが、わかります。

3 107頁2行目「松前藩の不公正な交易方針」の内容が書かれていません。松前藩は海産物などの価値を不当に低く見積もり、アイヌからの大量の干鮭や昆布などを少量の米と交換して暴利を得ていたのです。干鮭・ニシン・昆布・蝦夷錦・ラッコの毛皮・鷹・クマ、シカ皮などで藩の財政は潤います。アイヌの不満と反発はたかまる一方でした。「アイヌの土地から和人を追い出そう」と先頭に立ったシャクシャイン。東は白糠(しらぬか)、西は増毛(ましけ)にいたる東西蝦夷地のアイヌが一斉に蜂起し、和人の商船などを襲撃、270人ほどの和人が殺害されました。幕府の出兵命令を受けた津軽藩などの鉄砲隊によって、アイヌの弓矢や刀での抵抗は抑え込まれ、やむなくシャクシャインは松前藩との和平交渉に応じました。が、だまし討ちにあって敗れてしまいます。その後は、松前藩がアイヌとの交易を独占します。

4 106頁19行目「海産物や毛皮などを手に入れた」とありますが、「海産物」とは何でしょう。昆布・俵物(煎(い)海鼠(りこ)・干(ぼし)鮑(あわび)・鱶(ふか)のひれ)などです。長崎貿易での銅の替わりの輸出品になった海産物の主要な産地はこの蝦夷地でした。田沼時代にさかんになった中国向けのこれらの食材輸出は、銀の流出を止め、流入に転換させることになりました。

5 107頁8~9行目「幕府は貿易を統制し、利益を独占していたが、ヨーロッパからは新しい学問や文化も日本に入り」との記述だけでは、 アジアからの影響が欠けています。たとえば、中国や朝鮮からは、多くの書物をとおして、儒学・医学や薬学・文学・書画などがもたらされています。琉球からは、16世紀の後半以来三(さん)線(しん)が伝えられ、三味線(しゃみせん)として発達、歌舞伎や浄瑠璃などになくてはならない江戸の芸能として根付いています。

アドバイス

1 絵画史料や地図などを観察させ、読み解いていけば、外交も楽しく学べます。例えば、朝鮮通信使の全行程(帝国107頁)や文化交流として岡山県牛窓などに伝承されている唐子(からこ)踊り(同、同頁)があります。滋賀県には「朝鮮人街道」と名づけられた道路があります。将軍が上洛の際に通る道路を、通信使一行にも通過するように、指定したからだと伝えられています。なお、県内では小田原の早(そう)雲寺(うんじ)の山門の扁額(へんがく)が良い例でしょう。通信使が立ち寄った際に揮毫(きごう)したもので大切にされています。

2 昆布ロードをたどってみましょう。蝦夷の松前口から、昆布やニシンは北前(きたまえ)船(ぶね)で運ばれ日本海沿岸から下関、瀬戸内海を経て、大坂(大阪)で取引されます。ここで買いつけられた昆布は、長崎を経由する公認の貿易によって大量に中国に運ばれ、高級料理などに使われました。また、琉球を支配していた薩摩藩は、18世紀後半からは、中国と密貿易を行うようになりました。当時、昆布はバセドー病の薬としても珍重され、高値で売られました。替わりに薩摩藩が購入した漢方薬などを定期的に買いつけていたのが富山藩です。藩内で売薬として製造され、藩の認めた「富山の薬売り」たちによって、全国に売られていったのです。交易の広さと商品の流通が学べます。

3 106頁の蝦夷(えぞ)錦(にしき)の写真に注目しましょう。本来は、中国の役人の制服で、中国江南地方の蘇州・南京で作られたことが現在確認されています。アイヌ社会では、ハレ着として着用されたことから、アイヌが中国を中心とした東北アジア文化圏の中にも属していたことを示しています。

4 〆(しめ)粕(かす)はニシンを加工した肥料です。江戸時代後半の農業発展をもたらした要因の一つはこの〆粕で、当時オホーツク海や日本海では鰯より大量に獲れたために、18世紀後半には畿内に、19 世紀前半には北陸・瀬戸内へ肥料として広がりました。〆粕は主に綿などの商品作物に、丸ごとの胴ニシンは米作に使われ、生産高は飛躍的に伸びました。「上国(上方)の米穀なかば蝦夷地より出産すべし」(近江出身の馬場正通著『辺(へん)策(さく)発(はつ)朦(もう)』より)と記録されるほど畿内と蝦夷は結びついていたのです。

朱印船貿易から鎖国へ(Vol.2)

朱印船貿易から鎖国へ

「34朱印船貿易から鎖国へ」104~105頁

ここで学びたいこと

1 朱印船貿易と日本町 家康は、東南アジアの国々との親善を求めながら、日本からの貿易船には、海外渡航を許可する朱印状を与え、アジア海域での貿易を積極的に奨励し、その動向を掌握しようとしました。朱印状を得た西国の大名や京都、長崎などの豪商たちは貿易船を派遣し、莫大な利益を得ました。大量の銀や銅、硫黄などを輸出し、中国産の生糸や絹織物、またアジア各地からの鮫皮・鹿革・木綿・砂糖・香木などを輸入し、日本国内で売却していたのです。貿易が盛んになり、朱印船が多く渡航する地域には、移住する人も増加し日本町ができました。(104頁の地図)

2 キリスト教の禁止政策と貿易の統制 幕府は貿易の利益を確保するために、海外との行き来を統制していなかったので、キリスト教については、徹底した取締りができませんでした。イギリス・オランダからは「スペインには領土的野心がある」ことを伝えられ、その懸念もでてきました。また、キリシタンの「人は神の前に平等」という信仰で結ばれた団結心による反抗も恐怖でした。そのため、禁教令をはじめ宣教師の国外追放やキリシタンの弾圧、日本人の海外渡航や帰国の禁止など、次々に厳しい統制策をとるようになりました。

3 島原・天草の一揆 1637年に総勢3万7千人の農民による大規模な一揆が起きました。この両地は、かつてキリシタン大名による支配地域でした。島原藩主松倉氏、天草藩主寺沢氏は重い年貢を課した上に、とれた野菜ひとつにも税をかけました。キリシタンへは、厳罰を与えました。箕(みの)踊りと称して藁(わら)を体に巻き火あぶりにする、妊娠中の母親を水牢へ閉じ込める、雲仙の火口へ投げ込むなど、過酷を極めていました。このような支配への不満が高まっており、農民らは、ついに天草四郎を大将にして、原城に立てこもったのです。この激しい抵抗に対して、幕府は12万人もの大軍で包囲し、海上からオランダの軍艦による威圧もかりて、4ヶ月もかかってようやく鎮圧しました。この一揆に驚いた幕府は、ポルトガル船の来航を禁止しました。

4 幕府の宗教対策 幕府は島原・天草一揆をキリシタンの反乱と宣伝し、各地でも一層の弾圧を実施し、あわせてポルトガル人の国外退去を命じました。さらに、キリシタンの撲滅を図るため、絵踏みの強化や宗門改め制度の実施を徹底しました。こうして、全ての人々に仏教徒としての登録が義務づけられ、寺院によって誕生から死亡までが管理される仕組みがつくられたのです。

5 長崎出島での貿易 ヨーロッパ人では、オランダ人だけが、日本に残留し貿易を許可されました。オランダ人の信仰するキリスト教は、イエズス会とは異なるプロテスタントなので、布教はしないから、という条件でした。出島では厳しい監視下の生活と特殊な貿易方法が採られました。なお、この貿易は、オランダ政府との正式な国交によるものではありません。オランダ東インド会社(VOC)との貿易です。VOCはオランダ政府から特許状を受けた国策の会社です。アジアの拠点として、インドネシアのバタビア(ジャカルタ)に本拠を置き、総督が各地の商館を統治していました。

ここが問題 

1 104頁の朱印船の絵は、あまりにも小さすぎて、生徒がじっくり観察しながら、思考を深める教材として配慮されていません。人物の服装や朱印状のことも説明があり、教え込む記述になっています。これでは、発見の楽しさも体験できません。東書94頁の朱印船と朱印状の絵と設問が生徒に観察させるのには、参考になります。

2 104頁4~5行目「朱印船は、安南(アンナン)、フィリピン、東南アジア各地に出かけ、活発な活動を展開した」とあります。国名の呼称が当時と現在とが入り混じり、統一性がなく正しくありません。しかも、両国とも東南アジアの国であり、生徒が混乱しかねない表現です。104頁の地図を見ながらきちんと確認する必要があります。

3 104頁9~10行目「山田長政のように、シャム(現在のタイ)の国王から、高い官位を与えられたものもいた」とあります。山田長政については、不明な点が多く、タイに密出国したともいわれています。彼は、国王が日本町アユタヤに作った日本人部隊を中心とする軍団の指揮官、いわば傭兵隊長のような地位を与えられ、その後オークプラ(伯爵)に叙せられました。彼の名が教科書や紙芝居、雑誌などに大きく登場したのは、太平洋戦争下で「大東亜共栄圏」が国策とされ、第5期国定教科書(1942年)に東南アジアの地域が大幅に取り入れられるようになってからです。地理・国史・国語・音楽・修身等の教科書に掲載され、「日本の武名を南方の天地にとどろかした」(初等科修身二)英雄として讃えられ、子どもたちに憧れと戦意を抱かせたのです。このような人物を、あえて教科書に取り上げた意図はどこにあるのでしょうか。

4 105頁16~17行目「鎖国の最大のねらいは、外国による侵略の危険の防止と国内秩序の安定のために、キリスト教を禁止することにあった」と説明されています。キリスト教の禁止は大きな理由ですが、一面的な捉え方です。幕府が体制の維持のために「鎖国」政策を採ったもうひとつの理由が貿易統制です。この両面からの対策として把握することが大切です。

5 「島原の乱」の語について。他の教科書は「島原・天草一揆」と記しています。当時から「いくさ」や「一揆」といわれていただけでなく、キリスト教徒が多く、強い団結心で結ばれた抵抗の経過からも、「一揆」とよぶのがふさわしく、「反乱」とする支配者側からの観点は、農民の意志を表していません。

アドバイス

当時は「鎖国」(国を鎖す)という言葉はありませんでした。1801年にオランダ通詞の志筑忠雄がケンペル著『日本誌』の一部を翻訳・造語したもので、江戸時代の末期ごろから使われて来ました。が、江戸幕府の外交実態にそぐわないという理由から、近年見直しもされています。具体的には、次のテーマをご覧下さい。

秀吉の朝鮮侵略(Vol.2)

秀吉の朝鮮侵略

 「31豊臣秀吉の政治と朝鮮出兵」96~97頁

ここで学びたいこと

1 朝鮮侵略の背景  中国の明帝国が栄えていた15世紀には、東アジアの周辺国が明に朝貢することによって国際的な秩序が保たれていました。しかし、16世紀になると、中国沿岸部の商人による交易の拡大(後期倭寇)や、中国商人とともに新たに東アジアの通交関係に割り込んできたポルトガルなどのヨーロッパ勢力の動きがさかんになり、国際秩序は崩壊の兆しを見せていました。朝鮮侵略の背景には、このような東アジア情勢の変化がありました。

2 朝鮮侵略の原因 秀吉は、全国統一する前から、このような明中心の朝貢体制が崩れてゆく機会をとらえて中国さらにインドまでも征服し、自ら一大帝国をつくりあげるという構想(妄想)をもっていました。戦いにより領地を広げていく戦略を、国内だけでなく、海外でも実行しようとしたのです。そのため、国内統一後、ただちに朝鮮にたいして明への道案内を求めました。ところが、それが拒否されたので、肥前名護屋(佐賀県)に巨大な城を構え、15万人もの大軍を朝鮮半島に送り始めました。このように、朝鮮侵略は、秀吉のアジア征服の野望が直接の原因となってはじめられました。

3 戦争のようすと抵抗 15~16世紀、日本は戦国時代をむかえていましたが、朝鮮では長く平和が続いていました。また朝鮮は日本についての正確な情報もつかんでいませんでした。そのような時に、戦争によって鍛えられた秀吉軍が鉄砲を駆使して攻撃してきたため、朝鮮国内は混乱し、ひと月ほどで、朝鮮北部の中心平壌(ピョンヤン)まで占領されてしまいました。戦争の知らせを聞いた国王が都から脱出したこともあって、軍は十分な抵抗ができず、反撃はまず義兵や民衆によって行われました。女性も投石などで抵抗したことが記録にあり、最近も、頭部に刀傷を負って死亡した女性の頭骸骨が発掘されています。やがて、朝鮮軍が態勢を整え、李(イ)舜(スン)臣(シン)の率いる水軍が制海権を奪うなど反撃に転じ、義兵の抵抗もさらに激しくなりました。また、明も、朝鮮北部まで侵略した秀吉軍の明への進入を防ぎ、自国の利益を守るため、大軍を送ってきました。その結果、秀吉軍は劣勢に追い込まれていきました。いったん明との講和が図られましたが、不利な戦況を認めようとしない秀吉は、明の示した講和内容に激怒し、朝鮮南部に14万人の兵を送り、再び戦いが起こりました。1598年の秀吉の死によって、悲惨な戦争はようやく終わったのです。

4 戦争の結果 戦争によって、朝鮮の兵士、一般民衆はもちろんのこと、日本の兵士や駆り出された農民や漁民(その数は兵士より多いといわれる)、明軍にも大きな犠牲が出ました。また、朝鮮の文化財、自然も大きな被害を受けました。世界遺産であるソウルの景福宮(王宮)など、文化財の多くはこの時期に破壊され、のちに再建されたものです。朝鮮では、戦争によって社会が混乱し立ち直るのに多くの時間がかかりました。その後の植民地化とあわせて、日本人への怨恨が今に伝わっています。さらに、戦争は豊臣政権崩壊を早める一因にもなりました。明も、戦争後ほどなく滅び、中国中心の秩序が解体して、日本、朝鮮、琉球は、それぞれ独自に外交を進めていくことになります。このように朝鮮侵略は東アジア全体に影響を与えた大戦争でした。

ここが問題

1 ただ軍隊を派遣するだけではなく、領土を奪うことを目的として相手を攻撃することは、侵略といいます。教科書の表題には「豊臣秀吉の政治と朝鮮出兵」とありますが、他の教科書や多くの書籍は侵略と表現しており、ここでは侵略と書くべきです。

2 97頁13行目に「明との和平交渉のために兵を引いた」とありますが、実際は講和中に8万人もの軍を残して次の戦いに備えていました。また、戦争の原因・経過・結果については、秀吉の野望に加え、東アジアの国際環境からも考える必要があります。「明の皇女を天皇の后にせよ」などという一方的な講和条件が決裂を招いたのは当然でしょう。

3 加害については具体的に説明しないと戦いの本質がわかりません。秀吉は、武将たちに朝鮮人の皆殺しを命じました。そして戦功のあかしとして、首の代わりに耳や鼻を送れと指示しました。耳塚(鼻塚)は、耳、鼻を切り取られた人々を「供養」する塚です。現存する鼻請取状には、吉川家の18350個など、28881個もの朝鮮の人々の鼻が切り取られ、塩漬けにされて日本にもたらされたことが書いてあります。

4 「歴史のこの人陶祖李参平」では、「李参平はそのまま帰化し」(97頁)と書かれています。しかし、自ら進んで日本にとどまったのではなく、さまざまな事情から帰れなかったのが真相でしょう。今でも陶工の子孫は先祖の姓を名乗り(有田焼の李氏、薩摩焼の沈氏など)、帰国できなかった先祖をしのんでいるといいます。朝鮮から連れてこられた5万人(20万人という説もある) におよぶ人のうち、その後帰国できたのは、わずか2千人ほどでした。日本やポルトガルの人買いに奴隷のように売られた人も多かったのです。また、李参平が伝えたのは陶器ではなく磁器の焼成技術の間違いです。

アドバイス

旧500ウォン紙幣には、朝鮮の水軍司令官李舜臣の肖像と亀甲船が描かれていました。亀甲船とは相手が乗り移れないように船の甲板を針のように鋭い突起で覆い、側面に銃眼をつけた軍船です。また朝鮮各地には李舜臣像が建っています。なぜ李舜臣がお札の図になったり像が建てられたりするのかを考えさせてみるのもよいでしょう。

信長・秀吉による全国統一(Vol.2)

信長・秀吉による全国統一

    「30信長と秀吉の全国統一」,「31豊臣秀吉の政治と朝鮮出兵」94~96頁

ここで学びたいこと
1 信長・秀吉の全国統一への動き 中学生には、信長・秀吉・家康という有名な3人にスポットを当てて天下統一を見ていくことはわかりやすいと思います。しかし、信長や秀吉を個人的英雄としてのみ扱うのではなく、あくまで3人のとった政策が、何のために、何をめざしたのかを具体的に扱うことが大切です。

2 信長・秀吉の政治 今までの戦国大名と違って、統一を成し遂げつつあった信長は、軍事的な面だけではなく、楽市楽座、関所の廃止など、都市や流通も積極的に支配下に置く政策をとり、さらに秀吉は、領主が先祖代々の土地に住み、維持するしくみ(在地領主制)を否定することで、武士による戦国の争乱を一掃していきました。

3 太閤検地と刀狩 その際秀吉は、「検地尺」と「京ます」を統一し、太閤検地によって、全国の農村を一つの基準で統一的に支配する基礎を推し進めていった点をおさえましょう。また、同時に刀狩をすすめ、身分を制度的に固定化させ、農民の一揆も防ぐ兵農分離をおこないました。こうして、領主としての立場から全国を統一的に支配し、安定した支配秩序を作り出していったのです。

ここが問題

1 94頁16行目「このように仏教勢力を嫌った信長は」というような、仏教に対する個人的な好き嫌いの感情による政策であったような書き方は、事実の本質を見失わせます。比叡山焼き討ちや一向一揆に対する容赦ない弾圧に見られる信長の残忍性には、古い権威を認めない新しい支配者という側面と、民衆の一つの信仰による強固な結束が、天下統一の障害になるとして排除したという側面との両側面があるのです。

2 95頁1行目「楽市・楽座の政策をとって、城下の商工業者には自由な営業を認め、流通のさまたげとなっていた各地の関所を廃止した」という記述のみでは、一方で堺の自治権を奪ったという事実が抜け落ちています「堺の自治権をうばうなど、商人や職人たちを支配下に置く政策もとりました」(帝国95頁6~7行目)という指摘が重要です。また、東書・帝国版では「自由な営業」の中身として、「市場での税を免除した」とはっきり書かれています。具体性がなく、あいまいな表現の「自由な営業」では十分な理解ができません。

3 96頁1~7行目 従来の大名ごとの検地では、土地を測量する長さの単位も、米を量るますの大きさもバラバラでした。太閤検地の意味を理解させるには、全国統一の「検地尺」と「京ます」を使わせたことが重要な意味を持っていますが、書かれていません。東書版では検地によって「全国の土地が統一的な基準であらわされました」と明記し、「検地尺」と「京ます」が写真に載っています。

4 96頁3行目「土地の等級と石高を示す検地帳を作成した」とありますが、土地の等級、石高以外に、測量した田畑の面積を記し、その田畑を実際耕している耕作者の名を記したのです。検地のねらいを考えさせる上で、欠かせないことがらです。

5 検地によって「農民は土地の所有権を認められた」(96頁5~6行目)とありますが、あくまでも、自分の持ち分の、石高に応じた年貢などの負担を義務づけられるようになったという点を、しっかりおさえる必要があります。検地の目的=実際に耕作している農民に土地の権利を認め、年貢を課すため、という点が重要です。

6 刀狩令によって、「こうして身分の区別が確定し、安定した社会秩序がつくられていった」(96頁11行目)という記述があります。刀狩による兵農分離は、武士の争乱と農民の一揆を防ぐという点で「安定した社会秩序」を作り出しますが、それらによって身分が固定化させられ、住む場所まで分けられていく兵農分離の体制が作られるのです。この点をしっかりおさえる必要があります。検地や刀狩によって、農村にいた地侍たちの存在は否定され、農民たちの抵抗をおさえ、安定して支配するしくみがつくられていったのです。

アドバイス

1 自由社の教科書記述は、生徒たちに考えさせるところがない点が大きな問題です。94頁の「長篠合戦図屏風」はじっくり見させ、考えさせましょう。ここでは生徒たちに話し合わせましょう。「大将は、どこにいるか?」「どちらが勝ったと思うか。その理由は?」「戦いの様子は、今までとどこが違ったのか?」「戦国時代にどんな影響が出てくるのだろうか?」など考えさせ、多くの死傷者が出ることにも気づかせましょう。

2 96頁の「検地図絵」から、「どんな人がいるか?」「何を持っているのだろう。」「何をしているのだろう?」「どうやって測っているのだろう?」と発問してみましょう。検地尺を使って、どうやって測るのか、検地尺(帝国96頁の検地尺の写真)を模造し、教室に持ち込んだり、さおの長さを想像したりしながら、いろいろ考えさせましょう。資料集などに検地帳の実物があれば、解読させるのもいいと思います。そして、検地について、農民の気持ちを想像させたり、検地の目的をじゅうぶん考えさせましょう。

3 96頁の「刀狩令」の資料をじっくり読ませましょう。「刀狩とは何をすることなのか?」「秀吉は、何のために刀狩をするといっているのか?」「農民はひたすら何をすればいいと書かれているのか?」と問いかけ、刀狩の目的やその後の社会を考えさせましょう。

ヨーロッパ人の来航(Vol.2)

ヨーロッパ人の来航

「28ヨーロッパ人の世界進出開始」,「29ヨーロッパ人の日本来航」90~93頁

ここで学びたいこと

1 大航海時代とは? 大航海時代は、ヨーロッパ人の外洋航海活動が世界中に広がり、諸地域に波紋を起した時代です。イスラム文化圏に属するオスマン帝国は、地中海交易とインド洋交易の仲介をしていました。一方、ポルトガル・スペイン両国は直接交易を求めて、インドに向かう航路の開拓を始めます。スペインの援助で西回り航路をとったコロンブスは「アメリカ大陸」に到着し、それがアメリカ古代文明を崩壊させる端緒となりました。教科書の南蛮屏風にある船は、黒人や豹を乗せており、長崎に来るまで通ってきた地域を示しています。

2 新航路開拓とイエズス会 新航路開拓の目的の一つは、アジアとの直接交易でした。一方、イエズス会の世界布教は、教皇庁による宗教改革運動への対抗手段の一つでもありましたので、この新しい航路を利用して世界布教を行い、カトリック圏の拡大をはかりました。

3 鉄砲とキリスト教の伝来 インド洋や東アジア海域へのポルトガルの進出は、従来からその海域にあった交易網に参加する形をとりました。たとえば、ポルトガルのガマの船団は、アフリカ東海岸で水先案内人を雇い、その案内でインド洋を横断してカリカットに到着できたのです。鉄砲を伝えたポルトガル人も、後期倭寇の船に乗り種子島に来たのです。ザビエルは、ポルトガルの拠点マラッカで日本の情報を知り、その後東アジア海域交易網を利用して来日し、キリスト教を伝えます。キリスト教信者の数は、30万人に達したと言われています。

4 鉄砲の影響と南蛮貿易 伝来した鉄砲は戦法を変化させ、戦国時代の統一を早めました。信長は、戦国の世を勝ち抜くためその威力をいち早く見抜き、その調達と管理に長け、戦術に旨く利用しました。
当時明は、日本に倭寇の拠点があるため、日明間の民間交易を禁止していました。このため両国間で生糸・絹などを仲介する交易の利益は大きく、ポルトガル船もこの交易に参加しました。南蛮船は他にも時計などの珍しい産物をもたらしたので、大名の中には南蛮貿易の利益を目当てに、キリスト教に入信する者も現れました。

ここが問題

1 イスラム勢力の扱い方 教科書では、オスマン帝国が西欧商人の通行を妨げた(90頁)とあります。しかし実際には、16世紀初頭に東地中海でオスマン帝国の支配が確立して地域間の争いが収まると、共通の商業慣習のもとで安全が保証されたのです。この頃イスラム圏との交易は、ヴェネチアなどの北イタリア商人が独占していました。この教科書は、イスラム勢力を単純にキリスト教勢力の対抗勢力と見なし、航海技術の発達に果たしたイスラム文化の役割などに触れていません。イスラム勢力の学問・芸術面での貢献をもっとしっかり記述すべきです。

2 ポルトガルとスペインによる地球分割計画の強調 1494年のトルデシリャス条約で取り決められた経線により、「ブラジル」はポルトガル領となりました。その後両国はアジアをめざしますが、現地政権と既存の交易網のために、条約の決めた経線をアジア側へ延ばしても、その線は効力を持ちませんでした。「まるで饅頭を二つに分けるように地球を分割し」自分たちの勢力圏を決めた、という91頁の記述は、ヨーロッパの脅威を過度に強調しています。この教科書の特徴をよく示した記述です。

3 日本の鉄砲生産量は当時世界一? 教科書では当時「日本は世界一の鉄砲生産国」と92頁で記述しています。まず鉄砲の生産数については、鉄砲伝来研究で用いられる16世紀の資料メンデス・ピント著『東洋遍歴記』に関係する記述があります。1556年ピントは、大分で数人の商人から「日本全島に三十万挺以上の鉄砲があり、彼らだけでも六度にわたって二万五千挺の鉄砲を交易品として琉球に送った」と聞いたと記述しています。しかし、この数字は誇張もはなはだしいというのが研究者一般の意見です。また琉球は、当時武器の輸出入を行っていない国だったので、この証言自体の信憑性にも疑問があります。この教科書がこの資料に基づいているのならば、この記述のままでは、単純な「日本人礼賛論」につながりかねません。

4 93頁注「当時世界では銀は金と同じかそれ以上の価値を持っていた」 この文は金銀比価(同じ重さの金と銀の値打ちの違い)が同じになったという誤解をあたえます。当時、交易決済では銀の方が金以上の頻度で用いられた、と解釈するのが妥当でしょう。

5 キリシタン大名の保護で、長崎、山口、京都などに教会(南蛮寺)が作られた? 最初のキリシタン大名は、1563年に洗礼を受けた大村純忠です。1568年に長崎初の教会の建設には、彼の保護があったのでしょう。しかし1551年、山口に日本初の教会が建った時の領主大内氏はキリシタンではありません。また1576年、京都初の教会の建設に便宜をはかったのは信長です。したがって、93頁のこの記述は誤解を生む表現です。

アドバイス  

インド洋交易網と東アジア海域交易網 インド洋では1~2世紀頃から季節風を利用した交易が盛んで、対等な取引を前提とする「交易と契約の支配する交流の海」でした。インド洋ではダウ船が、東アジア海域では中国起源のジャンク船が主に用いられました。マレー半島やインドネシア地域は、インド洋と東アジアの両交易網の中継地でした。出会い交易により航海日数を大幅に短縮できたので、各地に港市が作られ、様々な人々が集まり、その中には日本人や中国人もいました。1570年代から明の海禁政策はゆるみはじめ、中国人の民間商人が東アジア貿易網で大きな役割を果たし始めます。また、太平洋を東から来航したスペインもこの交易網に加わり、フィリピンを拠点に、メキシコから運んだ銀を用い、主に中国商人との交易に従事しました。こうした交易網の状況は、17世紀の中頃まで続きます。

近世を学ぶために(Vol.2)

近世を学ぶために

1 社会の基本構造を見誤る教科書―「ゆたかな百姓・町人」と「困窮する武士」―

「武士の生活が借金と物価高で圧迫されるのとうらはらに、現金に余裕ができた町人や百姓」(120頁)という記述のように、この教科書では「ゆたかな百姓・町人」と「困窮する武士」という対比がしばしば登場します。はたして、中学生が江戸時代の社会の基本的な枠組みを学ぶとき、この対比的イメージを柱にしてよいのでしょうか。

武士は農民経営をどうみていたか そもそも、当時の武士は百姓をどのように考えていたのでしょうか。高崎藩の郡奉行大石(おおいし)久(ひさ)敬(たか)が書いた代官所役人などの行政マニュアル『地方(じかた)凡例録(はんれいろく)』(1794(寛政6)年)をみてみましょう。この本は、その一部が未完成であることを残念がった水野忠邦(天保改革の指導者)が完成に力を貸したり、財政通でしられる維新の元勲井上馨(かおる)が、明治のはじめ、大蔵省高官になったとき「地方凡例録の如き一部の書を大成(たいせい)致」したいと述べたりしているように、大変信頼されていた書物です。そこに示されている「作徳凡勘定之事(さくとくおよそかんじょうのこと)」(巻之六)という一般的な農家の経営モデルでは、家族5人暮らし、田畑5.5反をもつ一般的な百姓の家の収穫高、年貢、肥料や借馬代などの必要経費をトータルすると、経営は1両1分余不足の赤字経営になり、農業の合間におこなう蚕やたばこ、薪など土地にあった男女の稼ぎでしのいでいるとされています。作者大石久敬は、これが一般的な形であるが、「病難(びょうなん)等にて不慮(ふりょ)の物入(ものいり)等あれば取り続き難(がた)き者多し(生計を維持できない者が多い)」とのべ、「国政に携わる人は、この大旨を知らずんばあるべからず(知っておくべきだ)」といっています。商品作物生産は、確実に社会の富を上昇させ、豪農もあらわれますが、それにもかかわらず、19世紀の一般の百姓は転落すれすれの状態にあることは為政者として知っておくべきだといっていたのです。
渋沢栄一の体験では、肝心の百姓自身は、武士と百姓の関係についてどう考えていたのでしょうか。たとえば、この教科書の代表執筆者藤岡信勝氏らが称賛する明治の実業家渋沢栄一は、榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県)の裕福な百姓の生まれですが、同村を支配する小さな大名安部氏が、若様の初登城だ、姫君の嫁入りだなどといっては、有無をいわさず御用金を押しつけてくるのを経験し、はじめて「幕府の政治がよくないという考えが心にうかんできました」と述べています。これは、渋沢が家業の農業をすてて攘夷・討幕の運動に身を投じる一因にもなったできごとですが、この大名が特別に悪辣なわけではありません。構造的な財政難のなかで、領主は18世紀以来倹約を唱え続け、国産と呼ばれる藩の専売商品の生産をすすめるなどさまざまな打開策を試みますが、最終的には、年貢増徴や御用金賦課など、百姓・町人への収奪をすすめるしか対策はないのです。幕末の薩摩藩が、商人に申しつけた500万両の借金を無利子250年賦返済とし、事実上踏み倒したことは有名な事例です。このような武士と百姓・町人との基本的な関係を踏まえない記述には、大きな問題があります。

2 政治・経済と社会の関係がつかめない教科書―百姓一揆・打ちこわしは迷惑行為か―

仁政の考え方 「そうはいっても、江戸時代は、仁政は領主の責務だったし、百姓も領主に仁政を要求し、聞き入れられたこともあったのではないですか?」という疑問もあるでしょう。たしかに、18世紀後半になると、名奉行・名代官が登場し、仁政という考え方も唱えられるようになります。しかし、江戸時代の社会が、「異なる身分の者どうしが依存しあいながら、戦乱のない江戸時代の安定した社会を支えていた」(108頁)とするのは、領主の百姓・町人への支配を視野に入れない書き方といえるでしょう。
年貢増徴政策と百姓一揆 幕府や大名の民衆統治の転換の最初は、17世紀半ば、天草・島原一揆と寛永の大飢饉によって強圧的な幕府政治が根底から揺さぶられ、農村の安定がなくては政治も安定しないことがはっきりした時期でした。この最初の転換を経て、農業生産力の向上と技術の進歩により商品生産と流通が活発に展開しますが、一方で幕府・大名は次第に財政難に陥り、積極的な年貢増徴が行われました。幕府勘定奉行神尾(かんお)春(はる)央(ひで)の「胡麻(ごま)の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり」という言葉はこの時期のものです。しかし、18世紀前半の享保期には増徴反対の一揆が多発し、18世紀半ばには、助郷の負担増加に反対する伝馬(てんま)騒動(そうどう)(1764年)のように、参加者20万人ともいわれる大規模な百姓一揆がおこるようになりました。

農村再建と都市対策 杉田玄白の感想 このような百姓の動きにたいして、幕府の政策は再び変化をみせます。すなわち、一方では、伝馬騒動の鎮圧のために鉄砲を用いたり、百姓一揆の禁令(1770年ほか)を出したりして百姓の強訴を押さえる一方、備荒作物・貯穀制度などによって農村の再建と、農村から都市に流れ込んだ下層民対策をすすめるようになったのです。名代官が輩出し、仁政が注目されるのもこの頃です。寛政改革を断行した松平定信が登場したのも、江戸全域に広がった打ちこわしで事実上江戸の政治・経済機能がマヒするという、前代未聞の事態をうけてのことでした。『解体新書』を翻訳出版した蘭学者杉田玄白は、「もし今度の騒動なくば、御政治は改まるまじき」(『後見(のちみ)草(ぐさ)』)と述べています。

一揆・打ちこわしは迷惑行為? この教科書では、「不当に重い年貢を課せられた場合などには、百姓一揆をおこしてその非を訴えた」(109頁)、「気候不順でおきた大きな飢饉(天明の飢饉)で、多数の人々が餓死し、一揆や打ちこわしが多発した」(117頁)と書きますが、具体的に政治や経済の変化との関連を考える視点は希薄です。それどころか、「(二宮)金次郎が生まれた天明年間、飢饉や打ちこわしなどで人々が苦しんでいた時代だった」(115頁)と、打ちこわしが、多くの人々に迷惑をかけ、いやがられていたような書き方をしています。いったい、この「人々」とは誰をさすのでしょうか。天明の江戸打ちこわしについて、町役人経験者といわれる亀谷老夫は、「江戸中こぞって打ちこわしをよき気味と思い、誰一人として打ちこわし勢を憎む者がいない」といっています。なぜなら、江戸の町人の70~80%は“その日(ひ)稼(かせ)ぎの者”と呼ばれ、異変の際には御救いを受けなければ、たちまち飢えてしまう人びとだったからです。
一揆や打ちこわしをきちんと取り上げることは、江戸時代の政治、経済の変化、町や村のあり方を理解するためにも必要なことなのです。


3 実態を無視して天皇と朝廷にこだわる記述
自由社の教科書と他社の教科書の大きく違う点は、「江戸幕府の全国統治のよりどころは、徳川家が朝廷から得た征夷大将軍という称号にあった。」(101頁)とし、江戸時代の天皇や朝廷の力を実態以上に一面的に強調する記述が多いことです。

幕府と天皇 はたして、徳川氏は、「征夷大将軍」の称号をもらったから全国支配が可能になったのでしょうか。征夷大将軍の称号は、武家の第一人者が得ることが鎌倉時代以来の伝統であり、徳川氏もその伝統にしたがいました。しかし、徳川氏の全国支配を可能にしたのは、全石高の4分の1におよぶ700万石を領有し圧倒的な力によって諸大名を屈服・臣従させるだけの実力を備えていたからであり、全国支配の根本的なよりどころは、なんといってもその実力にあったからです。朝廷の力についてみても、大名や一部の旗本は、武家官位といって、官職(中納言のような職名)と位階(従(じゅう)五位(ごい)上(じょう)等の律令国家の官人の序列)を朝廷から授与されましたが、朝廷が自由に官位を与えたわけではなく、官位授与も改元も実際の決定権は将軍にあったのです。このような幕府と朝廷の関係は、幕府がよりどころとしたというよりは、幕府の全国支配にとって有用で役立つからこそ、その維持をはかったとみるのが通説でしょう。

民衆からみた天皇 一方、江戸時代の民衆が天皇をどうみていたかについても、最近研究がすすんできました。幕末に多数現れた、尊皇攘夷に荒れ狂う世相を諷刺する狂歌や都々逸(どどいつ)、落書、なぞなぞ、ちょぼくれ(乞食坊主が物乞いをするときの現在のラップのような歌)などのなかには、「天子と尊び乞食と賤(いや)しみ、隔(へだ)てみれば月とすっぽん、沓(くつ)と冠(かんむり)の違いはあれども、ギャッと産まれたその時は、皇子皇女もまるはだか、・・・楽屋をいえば、天子も乞食も、自ら耕し食うにあらず、精々(せいぜい)辛苦(しんく)民の汗を貰(もら)いて食うのはお仲間にて・・」(芝居口上「人間万事裏表」)といった天皇の神権的権威を笑い飛ばすものまで現れます。天皇や朝廷は幕末期には広く注目されますが、天皇を尊ぶ強烈な尊皇思想が力をもつ一方、天皇も人間だと言い放つ文芸がうまれるように、一色にまとめることは不可能な混沌とした時代でした。
中学校の授業で江戸時代を学ぶとき、天皇や朝廷についてどこまで触れる必要があるのについてはさまざまな考え方があるでしょう。中学校学習指導要領では、「国家・社会及び文化の発展や人々の生活の向上に尽くした歴史上の人物」を理解させるとされているに過ぎず、天皇についてはふれられていません。しかしどのような側面についても一面的な過度の強調は避けるべきでしょう。また、そういう複雑な時代であることをみないと、幕府政治から天皇を中心とする国家体制を構築していくときの葛藤にみちた政治や社会の動きも理解しにくいのではないでしょうか。


4 “創られた伝統”を教えることのむずかしさと問題点

日清・日露戦争以降の歴史像? 現代の子どもたちが歴史や伝統に学ぶことは、きわめて大切です。しかし、その内容が、その時代の実態を明らかにした研究から離れてしまうことは問題です。また、後世につくられた特定の歴史イメージを、そのまま歴史的事実として教え込んでしまうことも危ういことです。その点で、二宮尊徳や、「武士道」、間宮林蔵など、この教科書では、日清・日露戦争以降の時期にイメージが作られ、今日明らかになっている江戸時代の姿とは異なる時代イメージをそのまま記述する箇所が散見され、注意を要します(尊徳と武士道は本書vol.1、林蔵はvol.2のコラム参照)。

「武士道」の宣揚 日清戦争以降、欧米向けに日本道徳の価値を宣揚したり、兵士となる明治国家の国民に教える道徳思想として、「武士道」が脚光を浴びるようになりました。唱えたのは、キリスト教徒、国家主義者、旧幕臣などさまざまでした。「武士道」というキーワードをつなぎのことばとして、赤穂浪士と、実際は赤穂浪士を徒党とさえ見なした徳川武士とが、ともに「武士道」を体現した人びととして語られはじめたように、「武士道」は近代になってから国民的道徳思想となったものです。

創られた伝統” 近代になってから新たに“創られた伝統”を、この教科書のように、現実の歴史だと思いこむことは危険ですが、授業で取り上げるかどうかは別として、伝統が創られていくという事実は知っておいてよいことです。
同時に、“創られた伝統”を取り上げるのであれば、著者の気に入った“伝統”だけを取り上げるのも配慮に欠けることです。たとえば、佐倉宗(さくらそう)吾(ご)という人物は、将軍に越訴した義民として知られ、赤穂浪士と同じく、宗吾を主人公にした歌舞伎「東山桜(ひがしやまさくら)荘子(ぞうし)」が今日もたびたび上演されていますが、実は、佐倉宗吾や一揆の実像については、惣五郎という百姓がいて刑死し、祟り神(たた がみ)として祀られたということ以外、ほとんどわかっていません。しかし、自由民権運動が高揚した1882~3年に出版された『東洋民権百家伝』によって、宗吾は一気に日本第一の義民・民権家として知られるようになります。これも“創られた伝統”の一つだといえるでしょう。
“創られた伝統”を中学校の授業で取り上げるのは、大変難しいことです。しかし、あえて教科書で取り上げるのであれば、どんな時代に、どのような背景のもとで“伝統”が創られ、歴史が再評価されていくのかを公平にみていくべきです。そうでなければ、後の時代のメディアや文芸、政策的な誘導によってうまれた歴史イメージを受け入れるだけとなり、もはやそれを歴史学習ということはできません。

江戸時代の記述には、以上述べてきたような問題点がたくさんあり、子どもたちが使用する場合、よくよく注意を要する教科書だというべきでしょう。