自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
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コラム 「ミヽヲキリ、ハナヲソキ…」 -『阿弖河荘上村百姓等言上状』の世界-(Vol.2)

コラム 「ミヽヲキリ、ハナヲソキ…」
-『阿弖河荘上村百姓等言上状』の世界-

46~47頁

日本の中世を生き抜いた農民たちの姿を伝える『阿弖(あて)河(がわの)荘(しょう)上村(かみむら)百姓(ひゃくしょう)等(ら)言上状(ごんじょうじょう)』は、大変有名な教材です。しかし、この教科書には一行の記載もありません。

阿弖河荘は紀伊国(和歌山県)の有田川上流の山あいにある荘園で、年貢以外に公事として、主に絹と真綿、材木などを納めていました。阿弖河の農民たちは、蒙古襲来の衝撃がまださめやらぬ1275(建治元)年、新任の地頭湯浅(ゆあさ)宗(むね)親(ちか)の横暴を荘園領主に訴え出ました。カタカナで書かれた13か条におよぶ言上状には、現代の私たちが読むと、身の毛もよだつ地頭の暴力が描かれています。  農民たちは、年貢を二重に取られ、綿や麻を責め取られる、栗や柿も奪い取られる。そして、地頭は様々な労役を課し、農民たちを酷使する。しかも、地頭の言うことを聞かなければ、「ヲレ((俺))ラカ コノムキ((麦)) マカヌモノナラハ メコトモ((女たちや子どもたち))ヲ ヲイコメ ミヽヲキリ ハナヲソキ カミヲキリテ、アマニナシテ、ナワホタシ((縄)(絆))ヲウチテ、サエ((苛))ナマント候ウテ…(私たちがこの麦をまかないならば、女や子どもを追い込めて、耳を切り、鼻を削いで、髪を切って尼にして、縄で縛って虐待し…)」という残酷な刑罰を課すというものです。この『阿弖河荘上村百姓等言上状』は、農民自身がカタカナでたどたどしく書き上げ、地頭の暴力的支配の実態を告発する形態をとっています。



  しかし、阿弖河の農民がこの言上状で荘園領主に訴えたかったことは、地頭の暴力的支配を「やめさせてください」という内容だけなのでしょうか。実はそうではありません。地頭のすさまじい暴力を記述した後に、「…セメセン((責詮))カウセラレ候アイタ ヲンサイモク イヨイヨヲソナワリ候イヌ(拷問をかけられているので、材木[を納めるの]は遅くなります)」と書いてあります。農民たちは荘園領主の材木催促に対して、「地頭が乱暴だから木材の納入に応じられません」といっているのです。

農民たちに対する地頭の残酷な刑罰は、誇張ではなく事実であることが、研究によって明らかになっています。しかし、この時代に生きる農民たちは、これくらいのことで悲鳴を上げたりはしません。農民は地頭からの仕打ちを利用して、荘園領主に対し、自己の負担を軽減させようとしているのです。
さらに、この言上状が書かれた背景には、荘園領主から派遣されている荘官の従(じゅう)蓮(れん)と地頭の湯浅宗親との荘園支配をめぐる激しい対立がありました。この言上状が書かれる16年前、1259(正元元)年に、地頭が荘官を六波羅探題に訴えています。この年は大変な飢饉でしたが、阿弖河荘の荘官は何らの救済策も採らず、逆に数千の材木を責め取ったため、餓死するものは数しれないという惨状がおこりました。さらに、あらかじめ年貢をもらうといって、春から米を奪っていき、地頭の屋敷にいた農民2人をからめとって京に連れて行ってしまいました。しかも、その1人は妊婦でした。「ミミヲキリ、ハナヲソキ」という暴力を振るう地頭も、荘民を餓死させ妊婦を連れ去る荘官も、農民にとってはまったく同じ過酷な支配者だったのです。

この状態の中でも、地頭と荘官の対立を利用して、農民たちは自分達の生活を向上させるために、地頭と荘官のどちらにつくのが有利なのかを見極めていきます。当時、荘園領主が派遣した従蓮は、北条氏に近い人物であり、彼を荘官に推挙したのは、六波羅の引付(ひきつけ)奉行人の斉藤唯(ゆい)浄(じょう)でした。人脈からいって、地頭よりも荘官の側につく方が有利であることが分かっていた農民たちは、密議を重ね、自分たちの手で荘園領主に訴えるという形で、地頭の非法を告発した言上状を完成させたのです。

そもそも、地頭と荘官が対立するようになったのは、農民たちから思うように年貢や公事がとれなくなってきていることに原因がありました。この言上状が書かれる前年の1274(文永11)年、それはまさに蒙古軍が九州に襲来した年でしたが、阿弖河の農民たちは、地頭の非法に抗議して逃散を行っています。集団で逃亡することで、支配者の課役を拒否したのです。過酷な支配に組織的に対抗する程にまで、農民たちは変わりつつあったのです。食べられないから、支配者たちの圧制から逃げ出したいから、やむなく行っていた逃亡という行為を、強い連帯意識を持って支配者への抵抗の武器に変えていったのです。こうして鍛え抜かれた民衆の力が、地頭・荘官の両者による二重支配を弱める結果となっていくのです。

  言上状の世界は、鎌倉時代の農民が残酷な抑圧すらも抵抗の手段に変えて、自分たちの生活を向上させていこうとするたくましい姿を、私たちに教えてくれる貴重な史料です。なお、『阿弖河荘上村百姓等言上状』を教材として利用するにあたっては、日本書籍新社版(83頁)のコラムを利用すると良いでしょう。