応仁の乱が生んだ戦国大名
「27応仁の乱が生んだ戦国大名」86~87頁
ここで学びたいこと
1 応仁の乱 1441(嘉吉元)年に播磨の守護赤松(あかまつ)満祐(みつすけ)によって室町幕府6代将軍足利(あしかが)義教(よしのり)が殺害されたことにより(嘉(か)吉(きつ)の乱)、将軍の権力・権威は弱まり、有力守護大名による幕府の実権をめぐる対立が激しくなります。とくに8代将軍足利義政のとき、幕府の実権は細川勝元(かつもと)と山名持(もち)豊(とよ)に握られました。義政ははじめ、弟の義視を後継ぎとしていましたが、妻の日野富子が義(よし)尚(ひさ)を生んだために、次期将軍をめぐる家督争いがおこりました。細川勝元が義視を支持し、一方山名持豊は日野富子と結んで義尚を支持しました。そこに、有力守護大名の斯波家、畠山家の後継者争いが加わり、全国の守護大名を二分する戦争となったのが1467(応仁元)年の応仁の乱です。こうした家督争いの背景には、相続者の決定に際し家臣の意向を無視できなくなってきた、という事実があります。下剋上の風潮を示唆していると言えるでしょう。
2 下剋上の動き 11年におよぶ京都を主戦場とした戦争は、京都の荒廃をまねき公家や文化人の地方下向をもたらしたことで、地方文化が成熟しました。また、守護大名が本国を留守にしていた間、守護代や有力な国人たちが力をつけ、守護大名の領国支配は大きく動揺し、こうした情勢に国人たちも一揆を組織して自らの権益を守るために対応していきます。山城南部では、応仁の乱後も畠山氏の対立が続きますが、国人たちは農民らも巻き込んで、山城の国一揆を形成し、畠山氏の国外追放を実現させます。下剋上の代表的な一例であると言えましょう。
3 戦国大名の領国支配 戦国大名は、隣国の戦国大名と激しい領土獲得紛争を行いながら、分国支配をすすめていきます。とくに貫高制の採用はおさえておきたいところです。戦国大名は検地を実施することによって分国内の把握をすすめ収入増をはかり経済的な基盤を整備します。検地の結果、耕地面積を銭で換算した貫高であらわし、家臣団の軍役や農民の年貢などの役負担の基準としました。また分国法を制定する戦国大名もあらわれ、年貢を確保するために百姓の逃亡を禁じたりしています。とくに喧嘩両成敗についての規定は、家臣同士の紛争を自らの実力によって解決(自力救済)させるのではなく、戦国大名の法廷に訴えさせ、裁判権を確立させようとした点で、領国支配に関わる重要なポイントです。
ここが問題
1 86頁図版「応仁の乱」 ここで掲載されている絵画史料は『真如堂(しんにょどう)縁起(えんぎ)絵巻(えまき)』ですが、図版が左右反転して掲載されています。史料の提供は、事実の誤認にもつながりますので、注意したいところです。ただしくは、図版右に陣取る細川方の軍勢を、左から山名方が攻撃している場面です。つまり赤地に白丸の扇子を手に持つ騎馬武者が本来は左から右に攻めよせる山名方の武将なのです。
2 86頁16~18行目「実力のある家臣や地侍は独自の力で守護大名を倒し、一国の支配を行う領主となった。これが戦国大名である」とあります。戦国大名の出自を限定しかねない誤解を含む一文であると思います。戦国大名には様々な出自があります。この教科書でも、87頁の図版「おもな戦国大名」において、古くからの大名、新たに勢力をもった大名(これらの表現もあいまいで、不適切です。)を示し、キャプションで「武田氏や今川氏など守護大名から戦国大名になった」者もいることが記述されています。教科書本文と矛盾が生じています。戦国大名の出自には、守護大名やその家臣、または有力な武士など様々な例があるという点は、強調しておくべきでしょう。
3 87頁図版「おもな戦国大名」 分国法を制定した大名がマークされています。この教科書だけではありませんが、このうち北条氏と朝倉氏の取扱いは気をつけなければいけません。それぞれ、北条氏は『早雲寺殿廿一箇条』、朝倉氏は『朝倉孝景条々』をさしていると思われますが、これらは分国法ではなく、家訓です。分国法の定義は、その内容が法治主義にのっとった領国支配の基本法であるかどうか、です。そうした点で、前出の2つの家訓は、子孫に対して文字通り戒めるべきことを示したものなのです。さらに「16世紀中頃の支配図」として、小早川氏を独立した戦国大名と扱っている点は、不適切です。
4 87頁10~11行目「やがて、力をたくわえた戦国大名の中から、京都にのぼり、天皇の権威をかりて天下を統一しようとする者があらわれた」とあります。「天下を統一しようとする者」というのは、織田信長をさしているのかもしれませんが、信長は足利義昭を将軍職につけることによって室町将軍の権威は利用しましたが、天下統一のために天皇権威を利用したということは事実と異なります。
アドバイス
この教科書では、86頁に『真如堂縁起絵巻』が掲載されています(ただし、前述のように左右反転。以下の記述は正確な向きの場合による)。絵画史料の読み解きは、生徒の興味関心を引きだす効果があります。この場面は南禅寺に近い東岩倉の合戦を描いたものです。軽装で活躍する足軽に注目してはどうでしょうか。応仁の乱では足軽が登場し、それまでの騎馬武者主体の戦闘から歩兵による集団戦へと戦闘が変化していきます。一条兼良の『樵談(しょうだん)治(ち)要(よう)』の一説には、「最近の都での戦乱で登場した足軽はかつてないほどの悪党である。都の寺社他が荒れ果てたのは、彼らの仕業である」とあります。そこで、もう一枚『真如堂縁起絵巻』の場面を提示します。山名方の軍勢に属する足軽たちが真如堂の建物から建材を奪い取っている場面です。鎧をつけずふんどし姿に刀だけを差した足軽など、一条兼良が嘆いた足軽の姿を視覚的に確認できると思います。こうした足軽たちが、形勢の有利な勢力につく傭兵的な存在であったことなどをあわせて解説すると、生徒はより豊かに応仁の乱と下剋上の様子を認識できるのではないでしょうか。『真如堂縁起絵巻』は、『続々日本絵巻大成 伝記縁起編 第5巻』(中央公論新社、1994)に収録されている他、中学校、高校の教科書や図説に掲載されていることが多いので手に入りやすい教材だと思います。