自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
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■自由社版教科書を使用して授業をしなければならない、現場の先生方、保護者の方、自由社版教科書を使っている中学生を指導される塾の先生方に、お読みいただきたい冊子です。 
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中世の都市、農村の変化(Vol.2)


中世の都市、農村の変化

「25中世の都市、農村の変化」80~81頁

ここで学びたいこと

1 惣村・都市の展開 本冊子「中世の産業の発達」(54~55頁)で詳しく述べたような諸産業の発展をも背景とし、農村では惣(惣村)とよばれる自治的な村落が、14世紀ごろから特に近畿地方を中心に広くみられるようになりました。また京都・奈良・鎌倉のほか、港・宿などに都市が生まれました。戦国時代になると、戦国大名によって城下町も作られたほか、京都・堺・博多などでは、豊かな商工業者らによる自治もおこなわれるようになりました。

2 惣村のしくみ 惣村は、有力な農民が指導者となり、寄合とよばれる村民の会議で運営される自治村落でした。村民は山野の利用やかんがい用水、領主に対する年貢の負担などをめぐる自らの主張を通すために、村の神社の祭りのための組織などを中心に結びつきを強めました。惣村は村の秩序を守るためのおきてを定めたり、自警組織をつくったりしました。81頁の「惣のおきての例」は、寄合の重要性、惣村が森林などの財産を持つこと、外部の者への惣村の警戒心を物語る史料です。また戦国時代の事例ですが、和泉(いずみの)国(くに)(現在の大阪府)日根野(ひねの)荘(しょう)入山(いりやま)田村(だむら)では飢饉となった1504年の冬、村民の命をつなぐ蕨(わらび)粉(こ)を盗んだ少年を、警戒にあたっていた村民が捕らえましたが、この少年は母親ら家族とともに殺されてしまいました。村民の生存をかけた惣村の自治は、このようにたいへん厳しいものでもありました。さらに惣村は、個々の村民が領主に納める年貢をまとめて請け負いました(村請(むらうけ)・地(じ)下(げ)請)。これは近世の村に引き継がれていきます。


3 惣村と一揆 本書「中世を学ぶために」(本冊子30~33頁)でも述べているように、中世(特に後期)は「一揆の時代」であるとも言われます。次の記述が参考になります。
室町時代になると、武士から庶民までが「自分たちのことは、自分たちで解決する」(自力救済)という考え方によって行動するようになりました。人々は、1人では実現がむずかしい目的をなしとげるために、タテのつながり(主従関係)とは別に、共通の利害をもつ者どうしのヨコの結びつきを強めました。その代表的なものが一揆です。(中略)共通の利害のために、地元の武士(国人)から庶民にいたるまでが一揆をおこしました。(帝国76頁)
こうした時代にあって惣村の農民も、年貢の減免や荘園の管理人の罷免などを求めて一揆を結びました。そして、惣村を基盤として連合した農民たちが15世紀に盛んに起こしたのが土一揆です。中世の人々のあいだには、為政者の交代時などに全ての物が本来の姿・持ち主の元に戻るという「徳政」観念がありましたが、これに基づき借金の破棄を幕府に求めるいっぽう、自らも実行したのを徳政一揆ともいいます。

ここが問題

1 この教科書でも、中世における農業や手工業・商業の発達の事実は確かに述べられ、それを背景とする、都市での自治のにない手の成長(町衆(まちしゅう))や農村での自治組織の形成=惣(惣村)についての記述もあります。惣の結束のもとで土一揆に立ち上がることもあったというのがこの2頁全体のしめくくりです。しかしこの2頁の最大の問題点は、都市・農村の自治をつくっていった民衆の動き、そして土一揆という行動の指摘が、応仁の乱や下剋上の風潮と全く関連づけられていないことです。
他の教科書では、一見似たような歴史的事実を指摘しながら、著者・編集者の工夫によってより深い歴史理解に生徒を導こうとしています。たとえば東京書籍版では、「産業の発達」「市のにぎわいと都市の成長」は、足利義満の時期の室町幕府による「社会の安定」や中国・朝鮮との貿易を背景として記述し、さらに惣を基盤とした土一揆の記述の直後に応仁の乱や山城国一揆を配置し、下剋上の風潮から戦国大名の登場へと、一貫した流れのもとで説明しています(東書66~69頁)。
また帝国書院版では諸産業の発達の記述の後、上にも引用した「自分の身は自分で守る世の中」の項目で一揆全般についてあつかい、武士から庶民までをも含めた社会的風潮全体の中に位置づけており、さらに惣村のおきてや用水路の維持・管理、年貢納入の請(う)け負(お)いが江戸時代の村に引き継がれたことにまでふれています(帝国74~77頁)。これらと比べると、この教科書は、個々の事実の羅列にとどまり、他の歴史事象との関連づけを欠いているのです。

2各社の教科書で図版として掲載されている「柳生(やぎゅう)の徳政碑文(ひぶん)」が紹介されていません(東書69頁)。この碑文は、当時の惣村と土一揆の本質を理解するために最適な教材です。1428年に京都から近畿地方一帯で起きた土一揆の際、大和国(やまとのくに)柳生(やぎゅう)郷(ごう)の農民が、借金の破棄(徳政)を宣言したことがわかる史料です。当時の惣村の農民は、幕府に対して徳政令の発布を求めただけではなく、徳政も自ら行なっていたわけです。惣村とはそうした「自力(じりき)救済(きゅうさい)」のためのつながりでもあったのです。

アドバイス

1 惣村や土一揆の記述を生かすためには、27「応仁の乱が生んだ戦国大名」の項目とをまとめて授業展開することが考えられます。〈諸産業の発達〉→〈都市・農村の自治の成長〉(= たとえば〈土一揆〉)→〈応仁の乱・下剋上〉→〈戦国大名の出現〉という一連の流れとして再構成し、惣村・土一揆を86頁の山城国一揆・一向一揆と結びつけ、帝国書院版のような観点から一揆全体を整理してみましょう。そうすることで戦国大名の登場までもがダイナミックに理解できます。

2 商品作物については、桑や綿などといった植物の名称だけが羅列されていますが、できれば繭など実際のモノをみせたいものです。難しい場合でも、東書の後見返し「歴史のなかの植物」の写真などで、1種類なりとも目にすることが大切でしょう。