自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
 →横浜教科書研究会のとりくみ
■これまでに発表した声明を掲載します。
 →これまでに発表した声明
■自由社版教科書を使用して授業をしなければならない、現場の先生方、保護者の方、自由社版教科書を使っている中学生を指導される塾の先生方に、お読みいただきたい冊子です。 
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『どう教えるか』Vol.2の記事を追加しました!

『自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか ?』Vol.2 前近代編の記事を追加しました!

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東アジアとヤマト王権(倭王権)(Vol.2)


東アジアとヤマト王権(倭王権)

「07 大和朝廷と古墳時代」28~29頁,「08 東アジアの国々と大和朝廷」32~33頁

ここで学びたいこと

1 古墳の時代 3世紀後半~4世紀になると、大和盆地を中心に吉備(きび)、筑紫(つくし)、毛(け)野(の)などに巨大な古墳が出現します。これは大和盆地を中心に小国の王である豪族たちの広域の政治連合が形成され、その共通の墓制としてつくり出されたと考えられています。古墳の形(外形)は前方後円墳をはじめ、円墳・方墳などがありますが、特に巨大なものの多い前方後円墳は、ヤマト王権やそれに関わりのある地域にあります。3世紀~7世紀のことを知るには、この古墳が大きな手がかりになります。その内部の副葬品や時には外部に立て並べられた埴輪などからも当時の社会の様子に接近することができます。巨大古墳を作るには、測量や土木建築など当時の新しい知識・技術が必要でしたが、それらは同時に灌漑(かんがい)技術などの農業技術でもあり、それに基づいた生産力の増大や社会の変化が推測できます。

2 半島情勢の変化とヤマト王権 1世紀末頃から朝鮮北部の部族連合を形成していた高句麗が力を伸ばし、3世紀~4世紀には、東部の新羅、西部の百済もそれぞれの地域を統一しました。ヤマト王権は、南部の加羅(から)(伽耶(かや))諸国とのつながりを強めながら百済と連合して、高句麗・新羅と対立しました。5世紀になると倭の五王が中国南朝の宋に使を送り、中国から称号を得ようとします。国内には中国の権威を背景に持つ大王を印象づけ、外に対しては朝鮮半島での立場を有利にしようとしたのです。

3 多くの渡来人とその役割 5世紀前後から、主に朝鮮半島から多くの渡来人と、そのもたらす新しい文化―前述の測量などのほか、養蚕、機織り、陶器(須恵器(すえき))作り、漢字、医学、仏教などが入ってきました。戦乱をのがれて、あるいは、技術の伝授のためなどにやってきた多くの渡来人を受け入れ、豪族たちにも配分することによって、ヤマト王権は国内諸勢力に対して力を強めていきます。

弥生文化と中国歴史書による古代日本(Vol.2)


弥生文化と中国歴史書による古代日本

「05稲作の広まりと弥生文化」22~23頁,「06中国歴史書が語る古代の日本」26~27頁

ここで学びたいこと

1 朝鮮半島南部から渡来した文化 縄文時代晩期(紀元前10世紀説と紀元前5世紀説がある)に水田で稲作農業をおこなう人々が朝鮮半島南部から九州北部に渡来し、金属器や磨製石器(木工具・石包丁等)をともなう新しい文化を伝えました。この新文化が日本列島の縄文人に受け入れられ、互いの混血もすすんで、紀元前7世紀(または紀元前3世紀)までに西日本一帯に成立したのが弥生文化です。弥生文化は紀元前400年(または紀元前200年)ごろまでに東北地方の日本海側に広まり、やがて北海道と南西諸島を除く日本列島の大部分が弥生文化の時代に入りました。

2 農業の発展と支配者の出現 弥生時代は本格的な農業をおこなう時代です。それにともない耕地や貴重な道具である鉄器をめぐって、集落同士の争いが起こるようになりました。そのため集落は外敵からムラを護るための濠を備えるようになります。また、農業の発展は食料の余裕を生み出し、指導者は集落の富を管理するようになります。さらに、他の集落との抗争に勝ち残った指導者は、地域の支配者になっていきます。副葬品を持った特別に大きな墓が、そうした社会の変化から生まれました。中国の歴史書に見られる小国の「王」もこうした支配者の一部です。

3 小国の分立と中国王朝への朝貢 『漢書地理志』によれば、紀元前1世紀に日本列島には多数の「小国」が分立していました。『後漢書東夷伝』によれば、1世紀半ば北九州にあった「奴国」の王は後漢の皇帝に朝貢し、金印を授けられました。朝貢や交易によって小国の王たちは鉄や青銅器を入手したと思われます。そして『魏志倭人伝』によれば、3世紀には「邪馬台国」の女王卑弥呼が30ほどの小国を統合し、魏に朝貢しました。魏からは「親魏倭王」の称号と金印などを授けられ、それによって邪馬台国は他の小国より優位に立ち、大量の銅鏡などを入手しました。

縄文文化と土偶(Vol.2)


縄文文化と土偶

「03縄文文化の1万年」,「歴史へゴー!長野の尖石縄文遺跡群」16~19頁

ここで学びたいこと

1 狩猟漁労採集を組み合わせた新石器文化 縄文時代は地質学では完新世で、気候は旧石器時代よりずっと温暖になります。海面上昇により日本列島は大陸から離れ、東アジアの文化の直接的な影響は少なくなります。また広葉樹の森で得られる木の実や、鹿・イノシシなどの中型動物、魚貝類が新たに食料となって、生活は前の時代より安定し豊かになります。磨製石器、弓矢、土器という新たな道具を使用することから、縄文時代は新石器文化の時代です。しかし本格的な農業や牧畜はおこなわれず、狩猟漁労と植物の採集・栽培を組み合わせた、日本独特の新石器文化でした。後期には西日本でイネ・ヒエ・アワなどの畑作も始まりました。

2 集落の交流と物資の交換 縄文時代は数十人程度の集団が集落を作って定住生活を送りました。食料をはじめ生活に必要な物は集落の周辺で自給自足をしました。しかし他の地域の集落との間に緩やかな交流もあり、石器の材料の黒曜石など居住する地域で手に入らない品は、遠い産地から物々交換で入手しました。

3 貧富の差のない社会 豊かになったとはいえ、縄文時代は食料のほとんどを自然に依存していました。そのため集落では常に共同で働き、得られた食料は集落内の秩序に従って分配されました。集団には統率者や呪術師は存在しましたが、特別に立派な墓や副葬品の多い墓は無く、貧富や身分の差の明瞭に表れない社会でした。

4 呪術の発達 自然に依存する社会は、獲物が捕れなければただちに飢えに直面します。そのため自然の恵みを祈る呪術が発達しました。縄文土器の複雑な文様や、女性をかたどった土偶はその表れです。

人類のはじまりと日本列島(Vol.2)


人類のはじまりと日本列島
  
「01人類の進化と祖先の登場」,「02日本人はどこから来たか」12~15頁」

 ここで学びたいこと

1 直立二足歩行が人類への第一歩 人類はまず直立によって手が自由に使えるようになり、道具を作製し使用することが出来るようになりました。道具を作製することは脳を発達させ、直立姿勢によって、発達した脳を持つ頭を支えることもできるようになりました。また声帯の位置が変わったことによって言葉が発達し、言葉により協力して、大型の動物を狩ることができるようになりました。火も扱えるようになって、食物の種類も増え、寒さもしのげるようになりました。直立が出発点となって、人類は他の動物と異なる発展をとげるようになったのです。

2 アフリカ単一起源説 直立二足歩行した猿人が現れたのは約450万年前ですが、その後何種類もの直立二足歩行する人類の祖先が現れては絶滅していきました。その一部がアジアに進出してジャワ原人や北京原人、ヨーロッパに進出してネアンデルタール人となりました。そして今から20万年ほど前アフリカに出現したホモサピエンスが、10万年ほど前にアフリカを出て世界に広がり、現代の人類共通の祖先になったということが、遺伝子研究によって明らかになりました。

3 日本列島は大陸と陸続き 今から200万年前から1万年ほど前までの更新世は現在より気候が寒く、100万年ほど前からは特に寒い氷期が間氷期をはさんでおとずれる氷河時代でした。そのため氷期には海面が下がって、大陸と陸続きになりました。この時期に東アジアから渡って来た人々が、縄文時代以降次々と渡来した人々との混血を経て、現在日本列島に住む人々となりました。

4 日本の旧石器時代 日本列島に人が住みついたのは、確実なところでは4万年ほど前です。彼らは打製石器を主な道具とし、移動しながら狩と採集の生活を送っていました。その遺跡は日本列島のほぼ全域から5,000か所も発見されています。

コラム そこに眠っていた歴史 3 出雲大社―巨大空中神殿の謎―(Vol.2)

コラム そこに眠っていた歴史 3

出雲大社―巨大空中神殿の謎―

前文5~6頁 

「空中神殿」という表現自体ふさわしいとは思いませんが、本文で使用されているので、便宜上ここでもこの表現を使います。

1 出雲大社の本殿の大きさはどのくらい?

現在の本殿(1744年造営)の大きさは、床面が約10.9m四方、高さは屋根の千(ち)木(ぎ)(棒状の飾り)先端までで約24m、という巨大なものです。しかし、以前はもっと大きかったと言います。そのことを伝える資料として、教科書は「雲太・和二・京三」という「こども唄」を紹介しています。日本で背の高い建物は、「出雲太郎(大社本殿)が一番、次に大和二郎(大仏殿)・京都三郎(大極殿)である」というのです(6頁)。これだけでは説明が不十分なので補足をしましょう。まず唄の出典です。これは平安時代(970年)に源(みなもと)為(のため)憲(のり)がまとめた、貴族の子弟が受験勉強などのための基本事項を「くちずさみながら暗記する」ための本の一節で「唄」ではありません。本の名を「口遊」(くちずさみ)と言い、文中には「掛け算九九」などもあり、江戸時代に寺子屋の教材にもなりました。では問題の高さはどの程度なのでしょう。48mほど(現在の2倍)あったと言うのです。

コラム そこに眠っていた歴史 2 盗掘穴から1300年前の星空を発見!(Vol.2)

コラム そこに眠っていた歴史 2

盗掘穴から1300年前の星空を発見!

前文3~4頁

※ 3頁にある、北斗・玄武・白虎の写真は「裏焼き」のため、左右が逆になっています。注意してください。

1 高松塚古墳とキトラ古墳とは? 

両古墳とも小さな横穴式古墳で、石室も、棺を入れると人も入れないほどです。被葬者もわかりません。しかし2つの小さな終末期古墳を有名にしたのが、他に類例のない壁画でした。壁画は、漆喰で平らに仕上げられた壁面の上に、筆で丁寧に描かれています。
高松塚発掘の際、一番下の地層から690年前後の須恵器が見つかり、築造時期は7世紀末から8世紀初めと推定されました。キトラ古墳もほぼ同時期とされています。すなわち2つの古墳の壁画は、大陸の政治、文化の影響を受けて、天武天皇や持統天皇により律令国家の枠組みが確立しつつあった時代、白鳳文化に属する文化財です。
  この時代、宮殿や寺院などの建築が増えるにつれ、技術者集団の組織化が進み、701年の大宝律令では中務省の中に画工司(えだくみのつかさ)が置かれ、ばらばらだった画工集団をまとめる部署ができます。「四神図」のうち両古墳に共通する三神は、下図(粉本(ふんぽん))が同じとされています。両古墳の築造・装飾には、共通の技術者集団がかかわったのかも知れません。

「どう教えるか?」Vol.2 各時代の総論を掲載しました。

「どう教えるか?」Vol.2の各時代の総論にあたる記事を掲載しました。
ぜひご覧いただき、学校の授業や家庭での指導にご活用ください!

近世を学ぶために(Vol.2)


近世を学ぶために

1 社会の基本構造を見誤る教科書
―「ゆたかな百姓・町人」と「困窮する武士」―

「武士の生活が借金と物価高で圧迫されるのとうらはらに、現金に余裕ができた町人や百姓」(120頁)という記述のように、この教科書では「ゆたかな百姓・町人」と「困窮する武士」という対比がしばしば登場します。はたして、中学生が江戸時代の社会の基本的な枠組みを学ぶとき、この対比的イメージを柱にしてよいのでしょうか。
武士は農民経営をどうみていたか そもそも、当時の武士は百姓をどのように考えていたのでしょうか。高崎藩の郡奉行大石(おおいし)久(ひさ)敬(たか)が書いた代官所役人などの行政マニュアル『地方(じかた)凡例録(はんれいろく)』(1794(寛政6)年)をみてみましょう。この本は、その一部が未完成であることを残念がった水野忠邦(天保改革の指導者)が完成に力を貸したり、財政通でしられる維新の元勲井上馨(かおる)が、明治のはじめ、大蔵省高官になったとき「地方凡例録の如き一部の書を大成(たいせい)致」したいと述べたりしているように、大変信頼されていた書物です。そこに示されている「作徳凡勘定之事(さくとくおよそかんじょうのこと)」(巻之六)という一般的な農家の経営モデルでは、家族5人暮らし、田畑5.5反をもつ一般的な百姓の家の収穫高、年貢、肥料や借馬代などの必要経費をトータルすると、経営は1両1分余不足の赤字経営になり、農業の合間におこなう蚕やたばこ、薪など土地にあった男女の稼ぎでしのいでいるとされています。作者大石久敬は、これが一般的な形であるが、「病難(びょうなん)等にて不慮(ふりょ)の物入(ものいり)等あれば取り続き難(がた)き者多し(生計を維持できない者が多い)」とのべ、「国政に携わる人は、この大旨を知らずんばあるべからず(知っておくべきだ)」といっています。商品作物生産は、確実に社会の富を上昇させ、豪農もあらわれますが、それにもかかわらず、19世紀の一般の百姓は転落すれすれの状態にあることは為政者として知っておくべきだといっていたのです。



中世を学ぶために(Vol.2)


中世を学ぶために

1 時代区分の仕方について
日本中世の始まりの時期について、研究者によっていろいろな説が出されています。しかし現在、大局的に見れば、11世紀後半から12世紀前半頃とするのが通説となっているといえます。中世の始まりの時期の確定は、中世という時代・社会の構造・特質・体制をどうとらえるかということにかかわるのですが、今日では、以下のような点が指標とされています。まず、この時期に荘園化が全国的に進み、その波に乗って武士がさらに力を得て中央政治をも動かすようになったこと、その結果、政治的には武家の力を活用した院政が成立したことなどです。
このような時代区分の指標は、多くの教科書に反映されています。例えば、帝国版で、中世を扱った第3章「武家政治と東アジア」の第1節「武士の世のはじまり」の最初の項目は、11世紀半ば過ぎからの荘園の寄進のことを記した「増える荘園」となっており、それに「武士の役割」の項目が続いています。
では、自由社版はどうでしょうか。巻末の年表2では、「1016 藤原道長が摂政となる」から「1192 源頼朝が征夷大将軍となる」までが、古代から中世への過渡期として斜線で示されています。しかし、本文では、2章の第1節のはじめが「19平氏の繁栄と滅亡」となっており、その最初の項は12世紀中期の“保元・平治の乱”で、“平氏の政権”がそれに続いています。つまり、荘園に関する記述や武士の登場や成長については1章の古代の末尾に記され、その結果であるはずの武家の政治(平氏政権)から中世が始まったというようになっています。律令制の矛盾から荘園が発生し、武士が登場して、そうした背景の中で中央政治が摂関政治から院政、そして平氏政権へと移り、本格的な武家政権としての鎌倉幕府が開かれるに至るという歴史の流れや因果関係を、この教科書では、 「平氏の繁栄と滅亡」という政変で、前後に断ち切っているのです。


原始・古代を学ぶために(Vol.2)


原始・古代を学ぶために

1 今年話題の平城京は794年まで都だった?
今年2010年は平城京遷都1300年の年です。生徒の中には、平城宮の復元された大極殿などを見に行った人もいるでしょう。<遷都1300年だから、710年に遷都をしたのか。ところで何年まで平城京に都が置かれたのだろう?>と考え、手元の歴史の教科書を調べてみようとする生徒がいても、それは自然なことでしょう。自由社の教科書は遷都について本文はやや曖昧な記述なので、章末の[歴史の豆辞典]というまとめで確認する生徒もいるはずです。そこ(64頁)には「平城京:710~94年:およそ80年間を奈良時代という」と書いてあります。素直に読めば、<794年までの84年間が平城京の時代だ>と生徒は考えるでしょう。先生方は<それは違う>とお気づきでしょう。710年から都となった平城京は、784年に長岡京に遷都され、その10年後の794年に平安京に遷都されます。自由社も巻末の年表には「784都を京都(長岡京)に移す」と書いてありますが、まとめに明らかな間違いがあることは教科書としては問題でしょう。ただ、このような間違いだけならば、一覧表にすれば済むことで、この冊子まで作る必要はないのですが、それだけではない問題が自由社の教科書にはあるのです。


『どう教えるか』Vol.2の掲載を開始します!

『自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?』Vol. 2の「はじめに」を掲載しました。
今後、本文の掲載を進めていきます。

『どう教えるか?』Vol.2は前近代編です。
原始・古代から近世までの内容について検討を加えています。
ぜひご覧いただき、ご活用ください。

はじめに(Vol. 2)


はじめに

 今年4月から、横浜市内の18教科書採択地区中8地区の公立中学校では、自由社版『新編 新しい教科書』の使用がはじまっています。私たち横浜教科書研究会は、この教科書で授業を行うことになる社会科の先生のために、さらに多くの市民の方々に向けて、本書の第1号を4月に刊行しました。そこでは、「歴史を学ぶことの意味」を論じるとともに、いくつかのコラムをとりあげてその記述の誤りや問題点を指摘しました。いかがだったでしょうか。
今回刊行した第2号は、いよいよ本論に入り、原始・古代・中世・近世の前近代編です。「歴史の授業で学びたいこと」、「教科書を使う際に注意すべきこと」、「授業のためのアドバイス」などを提示しています。私たちは、近年の歴史学の成果にもとづいて執筆する努力をいたしました。きっとお役に立つことと思います。

この4月に生徒に渡された教科書(供給本)は、昨年の採択決定後に内容も含めて40箇所も訂正したことが明らかになっています。これは異例なことです。研究者や市民から多くの間違いが指摘されたため、自由社が文部科学省に訂正申請をしたからです。横浜市教育委員会が採択したこの教科書は、私たちの点検で、今なお問題点や間違いの多いことが判明しています。多角的な検証が必要です。

なお、学校教育法第34条の2には、「教科用図書以外の図書その他の教材で、有益なものは、これを使用することができる」とあります。また、新しい中学校学習指導要領(社会 歴史的分野)には「様々な資料を活用して歴史的事象を多面的・多角的に考察し公正に判断するとともに適切に表現する能力と態度を育てる」とあります。個々の教師、授業をする上で教科書を補う教材作りのために、さまざまな参考文献や資料類を使うことは大切です。「教科書を教える」だけではなく「教科書で教える」ことが、広い視野に立ったよい授業を保証するからです。
私たちが刊行している冊子は、先生方が教科書を使用することを前提にした上で、教材活用の参考にするために作成したものです。なんら違法な行為ではありません。大いに活用してください。
次回は、第3号の近現代編の発行を予定しています。

2010年7月10日

横浜教科書研究会