自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
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近世を学ぶために(Vol.2)


近世を学ぶために

1 社会の基本構造を見誤る教科書
―「ゆたかな百姓・町人」と「困窮する武士」―

「武士の生活が借金と物価高で圧迫されるのとうらはらに、現金に余裕ができた町人や百姓」(120頁)という記述のように、この教科書では「ゆたかな百姓・町人」と「困窮する武士」という対比がしばしば登場します。はたして、中学生が江戸時代の社会の基本的な枠組みを学ぶとき、この対比的イメージを柱にしてよいのでしょうか。
武士は農民経営をどうみていたか そもそも、当時の武士は百姓をどのように考えていたのでしょうか。高崎藩の郡奉行大石(おおいし)久(ひさ)敬(たか)が書いた代官所役人などの行政マニュアル『地方(じかた)凡例録(はんれいろく)』(1794(寛政6)年)をみてみましょう。この本は、その一部が未完成であることを残念がった水野忠邦(天保改革の指導者)が完成に力を貸したり、財政通でしられる維新の元勲井上馨(かおる)が、明治のはじめ、大蔵省高官になったとき「地方凡例録の如き一部の書を大成(たいせい)致」したいと述べたりしているように、大変信頼されていた書物です。そこに示されている「作徳凡勘定之事(さくとくおよそかんじょうのこと)」(巻之六)という一般的な農家の経営モデルでは、家族5人暮らし、田畑5.5反をもつ一般的な百姓の家の収穫高、年貢、肥料や借馬代などの必要経費をトータルすると、経営は1両1分余不足の赤字経営になり、農業の合間におこなう蚕やたばこ、薪など土地にあった男女の稼ぎでしのいでいるとされています。作者大石久敬は、これが一般的な形であるが、「病難(びょうなん)等にて不慮(ふりょ)の物入(ものいり)等あれば取り続き難(がた)き者多し(生計を維持できない者が多い)」とのべ、「国政に携わる人は、この大旨を知らずんばあるべからず(知っておくべきだ)」といっています。商品作物生産は、確実に社会の富を上昇させ、豪農もあらわれますが、それにもかかわらず、19世紀の一般の百姓は転落すれすれの状態にあることは為政者として知っておくべきだといっていたのです。




渋沢栄一の体験 では、肝心の百姓自身は、武士と百姓の関係についてどう考えていたのでしょうか。たとえば、この教科書の代表執筆者藤岡信勝氏らが称賛する明治の実業家渋沢栄一は、榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県)の裕福な百姓の生まれですが、同村を支配する小さな大名安部氏が、若様の初登城だ、姫君の嫁入りだなどといっては、有無をいわさず御用金を押しつけてくるのを経験し、はじめて「幕府の政治がよくないという考えが心にうかんできました」と述べています。これは、渋沢が家業の農業をすてて攘夷・討幕の運動に身を投じる一因にもなったできごとですが、この大名が特別に悪辣なわけではありません。構造的な財政難のなかで、領主は18世紀以来倹約を唱え続け、国産と呼ばれる藩の専売商品の生産をすすめるなどさまざまな打開策を試みますが、最終的には、年貢増徴や御用金賦課など、百姓・町人への収奪をすすめるしか対策はないのです。幕末の薩摩藩が、商人に申しつけた500万両の借金を無利子250年賦返済とし、事実上踏み倒したことは有名な事例です。このような武士と百姓・町人との基本的な関係を踏まえない記述には、大きな問題があります。

2 政治・経済と社会の関係がつかめない教科書
―百姓一揆・打ちこわしは迷惑行為か―

仁政の考え方 「そうはいっても、江戸時代は、仁政は領主の責務だったし、百姓も領主に仁政を要求し、聞き入れられたこともあったのではないですか?」という疑問もあるでしょう。たしかに、18世紀後半になると、名奉行・名代官が登場し、仁政という考え方も唱えられるようになります。しかし、江戸時代の社会が、「異なる身分の者どうしが依存しあいながら、戦乱のない江戸時代の安定した社会を支えていた」(108頁)とするのは、領主の百姓・町人への支配を視野に入れない書き方といえるでしょう。
年貢増徴政策と百姓一揆 幕府や大名の民衆統治の転換の最初は、17世紀半ば、天草・島原一揆と寛永の大飢饉によって強圧的な幕府政治が根底から揺さぶられ、農村の安定がなくては政治も安定しないことがはっきりした時期でした。この最初の転換を経て、農業生産力の向上と技術の進歩により商品生産と流通が活発に展開しますが、一方で幕府・大名は次第に財政難に陥り、積極的な年貢増徴が行われました。幕府勘定奉行神尾(かんお)春(はる)央(ひで)の「胡麻(ごま)の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり」という言葉はこの時期のものです。しかし、18世紀前半の享保期には増徴反対の一揆が多発し、18世紀半ばには、助郷の負担増加に反対する伝馬(てんま)騒動(そうどう)(1764年)のように、参加者20万人ともいわれる大規模な百姓一揆がおこるようになりました。
農村再建と都市対策・・・杉田玄白の感想 このような百姓の動きにたいして、幕府の政策は再び変化をみせます。すなわち、一方では、伝馬騒動の鎮圧のために鉄砲を用いたり、百姓一揆の禁令(1770年ほか)を出したりして百姓の強訴を押さえる一方、備荒作物・貯穀制度などによって農村の再建と、農村から都市に流れ込んだ下層民対策をすすめるようになったのです。名代官が輩出し、仁政が注目されるのもこの頃です。寛政改革を断行した松平定信が登場したのも、江戸全域に広がった打ちこわしで事実上江戸の政治・経済機能がマヒするという、前代未聞の事態をうけてのことでした。『解体新書』を翻訳出版した蘭学者杉田玄白は、「もし今度の騒動なくば、御政治は改まるまじき」(『後見(のちみ)草(ぐさ)』)と述べています。
一揆・打ちこわしは迷惑行為? この教科書では「不当に重い年貢を課せられた場合などには、百姓一揆をおこしてその非を訴えた」(109頁)、「気候不順でおきた大きな飢饉(天明の飢饉)で、多数の人々が餓死し、一揆や打ちこわしが多発した」(117頁)と書きますが、具体的に政治や経済の変化との関連を考える視点は希薄です。それどころか、「(二宮)金次郎が生まれた天明年間、飢饉や打ちこわしなどで人々が苦しんでいた時代だった」(115頁)と、打ちこわしが、多くの人々に迷惑をかけ、いやがられていたような書き方をしています。いったい、この「人々」とは誰をさすのでしょうか。天明の江戸打ちこわしについて、町役人経験者といわれる亀谷老夫は、「江戸中こぞって打ちこわしをよき気味と思い、誰一人として打ちこわし勢を憎む者がいない」といっています。なぜなら、江戸の町人の70~80%は“その日(ひ)稼(かせ)ぎの者”と呼ばれ、異変の際には御救いを受けなければ、たちまち飢えてしまう人びとだったからです。
一揆や打ちこわしをきちんと取り上げることは、江戸時代の政治、経済の変化、町や村のあり方を理解するためにも必要なことなのです。

3 実態を無視して天皇と朝廷にこだわる記述
自由社の教科書と他社の教科書の大きく違う点は、「江戸幕府の全国統治のよりどころは、徳川家が朝廷から得た征夷大将軍という称号にあった。」(101頁)とし、江戸時代の天皇や朝廷の力を実態以上に一面的に強調する記述が多いことです。
幕府と天皇 はたして、徳川氏は、「征夷大将軍」の称号をもらったから全国支配が可能になったのでしょうか。征夷大将軍の称号は、武家の第一人者が得ることが鎌倉時代以来の伝統であり、徳川氏もその伝統にしたがいました。しかし、徳川氏の全国支配を可能にしたのは、全石高の4分の1におよぶ700万石を領有し圧倒的な力によって諸大名を屈服・臣従させるだけの実力を備えていたからであり、全国支配の根本的なよりどころは、なんといってもその実力にあったからです。朝廷の力についてみても、大名や一部の旗本は、武家官位といって、官職(中納言のような職名)と位階(従(じゅう)五位(ごい)上(じょう)等の律令国家の官人の序列)を朝廷から授与されましたが、朝廷が自由に官位を与えたわけではなく、官位授与も改元も実際の決定権は将軍にあったのです。このような幕府と朝廷の関係は、幕府がよりどころとしたというよりは、幕府の全国支配にとって有用で役立つからこそ、その維持をはかったとみるのが通説でしょう。
民衆からみた天皇 一方、江戸時代の民衆が天皇をどうみていたかについても、最近研究がすすんできました。幕末に多数現れた、尊皇攘夷に荒れ狂う世相を諷刺する狂歌や都々逸(どどいつ)、落書、なぞなぞ、ちょぼくれ(乞食坊主が物乞いをするときの現在のラップのような歌)などのなかには、「天子と尊び乞食と賤(いや)しみ、隔(へだ)てみれば月とすっぽん、沓(くつ)と冠(かんむり)の違いはあれども、ギャッと産まれたその時は、皇子皇女もまるはだか、・・・楽屋をいえば、天子も乞食も、自ら耕し食うにあらず、精々(せいぜい)辛苦(しんく)民の汗を貰(もら)いて食うのはお仲間にて・・」(芝居口上「人間万事裏表」)といった天皇の神権的権威を笑い飛ばすものまで現れます。天皇や朝廷は幕末期には広く注目されますが、天皇を尊ぶ強烈な尊皇思想が力をもつ一方、天皇も人間だと言い放つ文芸がうまれるように、一色にまとめることは不可能な混沌とした時代でした。
中学校の授業で江戸時代を学ぶとき、天皇や朝廷についてどこまで触れる必要があるのについてはさまざまな考え方があるでしょう。中学校学習指導要領では、「国家・社会及び文化の発展や人々の生活の向上に尽くした歴史上の人物」を理解させるとされているに過ぎず、天皇についてはふれられていません。しかしどのような側面についても一面的な過度の強調は避けるべきでしょう。また、そういう複雑な時代であることをみないと、幕府政治から天皇を中心とする国家体制を構築していくときの葛藤にみちた政治や社会の動きも理解しにくいのではないでしょうか。

4 “創られた伝統”を教えることのむずかしさと問題点
日清・日露戦争以降の歴史像? 現代の子どもたちが歴史や伝統に学ぶことは、きわめて大切です。しかし、その内容が、その時代の実態を明らかにした研究から離れてしまうことは問題です。また、後世につくられた特定の歴史イメージを、そのまま歴史的事実として教え込んでしまうことも危ういことです。その点で、二宮尊徳や、「武士道」、間宮林蔵など、この教科書では、日清・日露戦争以降の時期にイメージが作られ、今日明らかになっている江戸時代の姿とは異なる時代イメージをそのまま記述する箇所が散見され、注意を要します(尊徳と武士道は本書vol.1、林蔵はvol.2のコラム参照)。
「武士道」の宣揚 日清戦争以降、欧米向けに日本道徳の価値を宣揚したり、兵士となる明治国家の国民に教える道徳思想として、「武士道」が脚光を浴びるようになりました。唱えたのは、キリスト教徒、国家主義者、旧幕臣などさまざまでした。「武士道」というキーワードをつなぎのことばとして、赤穂浪士と、実際は赤穂浪士を徒党とさえ見なした徳川武士とが、ともに「武士道」を体現した人びととして語られはじめたように、「武士道」は近代になってから国民的道徳思想となったものです。
“創られた伝統” 近代になってから新たに“創られた伝統”を、この教科書のように、現実の歴史だと思いこむことは危険ですが、授業で取り上げるかどうかは別として、伝統が創られていくという事実は知っておいてよいことです。
同時に、“創られた伝統”を取り上げるのであれば、著者の気に入った“伝統”だけを取り上げるのも配慮に欠けることです。たとえば、佐倉宗(さくらそう)吾(ご)という人物は、将軍に越訴した義民として知られ、赤穂浪士と同じく、宗吾を主人公にした歌舞伎「東山桜(ひがしやまさくら)荘子(ぞうし)」が今日もたびたび上演されていますが、実は、佐倉宗吾や一揆の実像については、惣五郎という百姓がいて刑死し、祟り神(たた がみ)として祀られたということ以外、ほとんどわかっていません。しかし、自由民権運動が高揚した1882~3年に出版された『東洋民権百家伝』によって、宗吾は一気に日本第一の義民・民権家として知られるようになります。これも“創られた伝統”の一つだといえるでしょう。
“創られた伝統”を中学校の授業で取り上げるのは、大変難しいことです。しかし、あえて教科書で取り上げるのであれば、どんな時代に、どのような背景のもとで“伝統”が創られ、歴史が再評価されていくのかを公平にみていくべきです。そうでなければ、後の時代のメディアや文芸、政策的な誘導によってうまれた歴史イメージを受け入れるだけとなり、もはやそれを歴史学習ということはできません。


江戸時代の記述には、以上述べてきたような問題点がたくさんあり、子どもたちが使用する場合、よくよく注意を要する教科書だというべきでしょう。