出雲大社―巨大空中神殿の謎―
前文5~6頁
「空中神殿」という表現自体ふさわしいとは思いませんが、本文で使用されているので、便宜上ここでもこの表現を使います。
1 出雲大社の本殿の大きさはどのくらい?
現在の本殿(1744年造営)の大きさは、床面が約10.9m四方、高さは屋根の千(ち)木(ぎ)(棒状の飾り)先端までで約24m、という巨大なものです。しかし、以前はもっと大きかったと言います。そのことを伝える資料として、教科書は「雲太・和二・京三」という「こども唄」を紹介しています。日本で背の高い建物は、「出雲太郎(大社本殿)が一番、次に大和二郎(大仏殿)・京都三郎(大極殿)である」というのです(6頁)。これだけでは説明が不十分なので補足をしましょう。まず唄の出典です。これは平安時代(970年)に源(みなもと)為(のため)憲(のり)がまとめた、貴族の子弟が受験勉強などのための基本事項を「くちずさみながら暗記する」ための本の一節で「唄」ではありません。本の名を「口遊」(くちずさみ)と言い、文中には「掛け算九九」などもあり、江戸時代に寺子屋の教材にもなりました。では問題の高さはどの程度なのでしょう。48mほど(現在の2倍)あったと言うのです。
2 発見された「巨大柱根」の遺構とはどんなものか?
2000年3月に不思議な形をした柱根が、本殿の前から見つかりました。太い所で直径約1.7mの杉材を3本金輪で束ねたもので、残存部は当時の地表面から2mほどの下にあり(6頁の写真参照)、まわりに直径20~30cmの石を詰め、ぐらつくのを防いでいました。法隆寺などの柱は基盤上の礎石の上に立っていますが、出雲大社の柱は、柱を直接地中に立てた「掘っ立て柱」であるため地中にある部分が腐りやすく、また地盤自身に弱いところもあって建物の重量に耐えられなくなり、何回も「転倒」したのです。しかし、教科書には、肝心の発掘された柱根遺構がいつ頃のものか、何も書いてありません。コラムは、「柱の太さから計算すれば」空中神殿は建てられることになり、「言い伝えはまるごと作り話ではなかったのかもしれない」で実質終わっています。ですから、読んだ生徒は、古代からこのような建物が建っていた、と思ってしまいます。「まるごと作り話ではなかった」とはしていますが、「発見によってどこまでが事実だとわかったか、ということを確認する」という学問の基本原則に反した記述です。
3 「巨大柱根」はいつの頃のものか?
教科書の、柱の太さから計算すれば空中神殿は建てられる、という記述(6頁)は、建築会社の大林組が建築の専門家の協力を得て、コンピューター上で行った復元シミュレーションの結果(1988年発表)にもとづく記述です。そうした検討が事前にあったため、「巨大柱根」の発見は空中神殿の実在を示すものとして、マスコミに大々的に紹介されました。では現在の時点でどこまで明らかになったのでしょうか。発見された柱根は地層面から判断し、平安末期から鎌倉にかけてのものとされました。さて、この時期の「転倒」については4回の記録が残っています。また、百人一首に歌を残す寂蓮法師が1190年頃出雲大社を訪れ、「本殿の裏の、八雲山(標高約100m)の半ばにたなびく霧が、本殿の千木にかかる様は、この世のものとも思えない(意訳)」と書き残していて、本殿が現在より背の高いものであったことがわかっています。そして、本殿が現在の高さとなるのは、1248年の建設からです。さて、その後大きな発見がありました。「巨大柱根」を調査するために引き抜いたところ、その下から礎板と呼ばれる板が見つかったのです。その板は年輪年代測定法を用いて調べた結果、1227年に伐採された木であることがわかったのです。記録上1227年から1248年の造営の間に、「転倒」や再建の記録はありません。したがって、この間での再建を示す新資料が発見されない限り、「巨大柱根」は1248年、現在の規模で建てられた本殿のものと考えざるをえないのです。
4 発掘・復元など行う際の学問的姿勢とは?
では、教科書5頁の写真の復元模型については、どう考えればよいのでしょうか。「巨大柱根」の発掘を担当した島根県埋蔵文化財調査センターは、発掘調査結果と大社側から提供された宮司家に伝わる設計図の断片、鎌倉時代の境内の絵図、この3つの資料を元にして、5人の建築史の専門家にこの建物の復元案の作成を依頼しました。その結果、5種類の復元案が示され、それを元に5つの模型が作られ、島根県立古代出雲博物館に展示されました。5頁の写真、奥の方のガラスケースの中にあるのがその模型です。ケースの右にある2つの復元模型は、高さを48mにとった復元模型です。その左の2つは少し高さを低く見積もって復元したものです。そして、ケースの柱の陰に隠れて一部しか見えませんが、一番左にあるのが、現在の高さにもとづいた復元模型です。結果的には、一番左のものが現実に近いものということになりますが、この復元案作成の時には「巨大柱根」が1248年の時のものということが確定していなかったわけですから、それぞれの復元案作成者の、その時点での案だったのです。島根県立古代出雲歴史博物館の学芸部長は、復元模型作成の段階で「同じ資料にもとづいても、これだけの考え方が存在する。その事を見学者の方に知ってもらい、どれが正しいかと考えてもらいたかった」と語っています(『朝日新聞』2007/4/24より)。ですから、高さ48m復元案も決して無駄ではなく、今後の研究のきっかけやヒントに役立つものなのです。こうした、遺跡研究・復元作業の姿勢こそ、このコラムで学ぶべき事ではないでしょうか。ちなみに、出雲歴史博物館の現在の展示には、「巨大柱根」が1248年のものであることがはっきりと説明されています。
このコラムの問題点は、調査研究上の到達点を無視し、発見された事象を安易に伝説や伝承と結びつけている点にあります。この教科書は、2008年4月に検定申請をしていますが、その時点で以上述べてきたような発掘結果は、明らかになっているはずです。まだ定説とはなっていなかったとしても、そうした点もしっかりと調査した上で記述するのが、教科書執筆者としての当然のつとめではないでしょうか。