自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
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コラム そこに眠っていた歴史 2 盗掘穴から1300年前の星空を発見!(Vol.2)

コラム そこに眠っていた歴史 2

盗掘穴から1300年前の星空を発見!

前文3~4頁

※ 3頁にある、北斗・玄武・白虎の写真は「裏焼き」のため、左右が逆になっています。注意してください。

1 高松塚古墳とキトラ古墳とは? 

両古墳とも小さな横穴式古墳で、石室も、棺を入れると人も入れないほどです。被葬者もわかりません。しかし2つの小さな終末期古墳を有名にしたのが、他に類例のない壁画でした。壁画は、漆喰で平らに仕上げられた壁面の上に、筆で丁寧に描かれています。
高松塚発掘の際、一番下の地層から690年前後の須恵器が見つかり、築造時期は7世紀末から8世紀初めと推定されました。キトラ古墳もほぼ同時期とされています。すなわち2つの古墳の壁画は、大陸の政治、文化の影響を受けて、天武天皇や持統天皇により律令国家の枠組みが確立しつつあった時代、白鳳文化に属する文化財です。
  この時代、宮殿や寺院などの建築が増えるにつれ、技術者集団の組織化が進み、701年の大宝律令では中務省の中に画工司(えだくみのつかさ)が置かれ、ばらばらだった画工集団をまとめる部署ができます。「四神図」のうち両古墳に共通する三神は、下図(粉本(ふんぽん))が同じとされています。両古墳の築造・装飾には、共通の技術者集団がかかわったのかも知れません。


2 両古墳壁画の間の違いとは?

2つの古墳の天井には「星宿図」と「四神図」がありますが、このように2つの図をセットにして墓室に描くのは、中国の華北から高句麗一帯に広がる地域の習慣です。しかし実は、2つの古墳の「星宿図」の形式は、まったく違っているのです。

①「星宿図」  高松塚の星宿図は、東西南北の天井に7つずつ星宿(星座)を長方形になるようにならべ、中央に天帝の一族を示す星を描いたものです。これは、中央の天帝が中国全土を治めていることを示しており、天文図というより政治的意味を持った図です。28の星宿の観測から国内の安寧や混乱を占い、その結果を記録するものです。
一方キトラの場合は、一見我々が用いる星図盤に似た円形星宿図です。図には、黄道や星座の位置などに間違いはありますが、暦などを作るもととなる星宿図の基本にはかなっており、壁画製作時には別に原図があったと思われます。
 実はこのキトラ古墳の星宿図の原図の系統を引くとされるものが高句麗に伝わっています。その図を刻んだ石碑の実物は、668年、高句麗が唐と新羅の連合軍に敗れた際なくなりますが、1395年にその拓本なるものが見つかり、拓本を刻んだ石碑「天(てん)象(しょう)列(れつ)次(じ)分(ぶん)野(や)之(の)図(ず)」(韓国国宝228号)から原図が推定できるというのです。ではなぜ高句麗が出てくるのでしょう。キトラの星宿図が示す見える星の範囲から、図が北緯38度付近の高句麗の地で使われたとされるからです。

②「四神図」から臣下像へ 「四(し)神(じん)」とは、東西南北の方角を守る四種の動物・神獣のことで、697年の造立という奈良薬師寺本尊台座にも例があります。ただし、618年の唐建国から、墓室の守り神としてよりもむしろ単なる装飾デザインの様に扱われ始め、「四神」のまわりに日常生活の様子が描かれるようになります。高松塚の臣下群像がこれにあたります。ただし高松塚の場合、服装は東漢(やまとのあやの)末(ま)賢(けん)・高麗(こまの)加西■(かせい)・漢(あや)奴(のぬ)加(か)己(こ)利(り)という3人の朝鮮系渡来人が下絵を書いた、天寿国曼荼羅繍帳のものと似ており、風俗的には朝鮮系の影響があるとされます。四神と日常生活がともに描かれているからといって、唐の墓室装飾法にならったとは単純には言い切れないようです。
これらの壁画は、「白鳳文化」と呼ばれる当時の日本の文化が、中国の文化や高句麗の文化と複雑に入り交じることによって形作られていたことを表わす貴重な遺産なのです。

3 築造にかかわった渡来人は誰か?

  660年百済滅亡、663年白村江の敗戦、668年高句麗滅亡、と激動が続くこの時代、多くの亡命者が渡来したはずです。中には新しい技術や意匠を持った者も多かったでしょう。この時代活躍した画工である黄文本(きぶみのほん)実(じつ)は、高句麗系渡来人の子孫で、669年の遣唐使で帰国し先進文化・技術を伝えました。彼が持ち帰った下図(粉本(ふんぽん))をもとに薬師寺蔵の仏足石が作られ、671年には天智に水準器を献上しています。持統と文武の葬儀の際には責任者の一人となっています。このように彼は様々のプロジェクトに関わり、指示を行った人物です。両古墳の築造とも関係するのかもしれません。キトラの被葬者が高句麗系の高位の亡命者の場合、彼なら天井にあえて高句麗式の円形星宿図を描かせることもできたのではないでしょうか。このことはあくまでも想像の一例に過ぎませんが、いずれにせよ両古墳の装飾からは、当時の日本と関係のあった国や地域の影響を見ることができるのです。
日本古代史を語る際、渡来人の役割を無視するわけにはいきません。以上のような背景にも配慮することによって、キトラ古墳や高松塚古墳の話はよりふくらみが出ると思います。

(■は手偏に縊の旁)