自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
 →横浜教科書研究会のとりくみ
■これまでに発表した声明を掲載します。
 →これまでに発表した声明
■自由社版教科書を使用して授業をしなければならない、現場の先生方、保護者の方、自由社版教科書を使っている中学生を指導される塾の先生方に、お読みいただきたい冊子です。 
 →自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?
■私たちの活動にぜひご協力ください。
 →カンパのお願い
■研究会主催の集会などイベントのご案内です。ぜひご参加ください。
 →イベントのお知らせ
■私たちの活動に関連する有益な書籍をご紹介します。
 →参考書籍

原始・古代を学ぶために(Vol.2)


原始・古代を学ぶために

1 今年話題の平城京は794年まで都だった?
今年2010年は平城京遷都1300年の年です。生徒の中には、平城宮の復元された大極殿などを見に行った人もいるでしょう。<遷都1300年だから、710年に遷都をしたのか。ところで何年まで平城京に都が置かれたのだろう?>と考え、手元の歴史の教科書を調べてみようとする生徒がいても、それは自然なことでしょう。自由社の教科書は遷都について本文はやや曖昧な記述なので、章末の[歴史の豆辞典]というまとめで確認する生徒もいるはずです。そこ(64頁)には「平城京:710~94年:およそ80年間を奈良時代という」と書いてあります。素直に読めば、<794年までの84年間が平城京の時代だ>と生徒は考えるでしょう。先生方は<それは違う>とお気づきでしょう。710年から都となった平城京は、784年に長岡京に遷都され、その10年後の794年に平安京に遷都されます。自由社も巻末の年表には「784都を京都(長岡京)に移す」と書いてありますが、まとめに明らかな間違いがあることは教科書としては問題でしょう。ただ、このような間違いだけならば、一覧表にすれば済むことで、この冊子まで作る必要はないのですが、それだけではない問題が自由社の教科書にはあるのです。


2 日本だけが優れていたのか?
原始古代の本文やまとめには日本の独自性を強調する書き方が多く見られます。たとえば、「1章のまとめ」(64頁)の「縄文土器」を「世界で最古の土器の一つ」とし、「大化の改新」を「日本独自の国家の秩序をつくろうとした…改革」とする書き方などです。そのような多くの記述は具体的に原始古代史の各論で触れていきますので、この総論では「大宝律令」の制定を例にして簡単に述べておきます。
42頁には「唐に朝貢していた新羅が、独自の律令をもたなかったのに対し、日本は、中国に学びながらも、独自の律令をつくる姿勢をつらぬいた」とあります。この文章を読んだ生徒は、律令制定に関しては<日本の方が新羅よりも優れており、律令をもたない新羅の影響はなかった>と考えるでしょう。しかし、日本は唐の律令と異なる独自の体系的法典を作成したわけではありませんし、律令制定期の倭は唐との交流が途絶えており、むしろ新羅と頻繁に交流していました。つまり、自由社の記述は事実関係を軽視した自国中心的な解釈なのです。原始・古代史に関する本文や図は、このように東アジア諸国、なかでも朝鮮半島諸国の影響を存在しないか、ないしは弱く評価し、日本の独自性、優位性をことさら強調しようとしています。日本の歴史と伝統を学ぶことは重要ですが、それは事実を無視して、自国中心・自国優位の歴史を学ぶことではありません。国際理解教育の必要性が認識されている現在、世界史の視点からも「日本」を冷静にとらえ学ぶことこそが、日本の歴史と伝統を学び理解することにつながると私たちは考えます。

3 「大和朝廷」のおこりは神武天皇の物語?
コラムに神話に関するものが2つあります。それらを見て不思議に思いませんでしたか? まず31頁に「神武天皇と東征伝承」があり、次に44~45頁に「日本の神話」が出てきます。これは話の筋としては前後が逆ですので、私たちの会の冊子Vol.1では順番を逆にして検討しています。しかし、なぜ神武天皇のことを先に書いているのでしょうか。それは本文7「大和朝廷と古墳時代」と本文8「東アジアの国々と大和朝廷」の間に神武天皇の話を入れたかったためであると考えます。このように並んでいれば、<大和朝廷が国内を統一し、東アジアの国々とも関係を持ったのだな。そして神武天皇の物語が大和朝廷の成立に関係するのだな>と生徒が思ってしまうのが自然でしょう。「事実ではなかったとしても」と断っていても、「理想をこめてえがきあげた」「古代の人々が国家や天皇についてもっていた思想を知るうえで大切な手がかり」とまで書いてあればなおさらです。つまり、ヤマト政権=倭王権(「大和朝廷」と呼ぶべきでないことについては冊子vol.1参照)の成立を、それまで説明してきた原始社会から断ち切り、無理に神武天皇の物語につなげてしまっているのです。これではいくら原始の部分があっても、戦前の国定教科書と同じ構図です。ヤマト政権(倭王権)の形成は、考古学の研究成果を踏まえ、旧石器、縄文、弥生、古墳と展開してきた原始古代の社会と関わらせてとらえるべきです。

4 聖徳太子は古代国家の設計者?
自由社の教科書では、37頁に「聖徳太子は、内政でも外交でも、日本の古代国家の設計図をえがいた指導者だった」と記されており、他社の教科書に比べて聖徳太子の評価がより高いことが指摘できます。さらにその後も、大化の改新、天武と持統の政治の部分に「聖徳太子以来」と書かれています。他社の教科書では、大化の改新や天武期の部分にまで聖徳太子が登場することはありません。そして天皇号の使用も自由社は推古期からになっています(東書と帝国は天武期)。その説明(36・37頁)は、倭王の称号に戻ることで「中国に自国の支配権を認めてもらう道を選びたくはな」く、「日本が大陸の文明に吸収されて、固有の文化を失うことはさけたかった」と推論し、天皇という称号を使うことで「両国が対等であることを表明した」としています。その上で「日本の自立の姿勢を示す天皇の称号は、その後も使われ続け、とぎれることなく今日にいたっている」とも述べています。自由社で聖徳太子を学んだ生徒は、<聖徳太子が日本の古代国家の基本を形作り、天皇を中国の皇帝と対等とし、固有の文化を守ったのだな>と考えるでしょう。しかし、日本の古代国家は、大化の改新、白村江の敗戦、壬申の乱という国内外の危機、さらには国内の社会の変容に対応しつつ形成されてきたのであり、聖徳太子1人が構想したものではありません(各論参照)。また日本の天皇は、唐の皇帝と対等であると国際的に認められていたわけでもありません。自由社は天皇を高く位置づけたいために、仮説(しかも少数派の)に見てきたような推論を重ねて記述しているのです。歴史を学ぶ際に最も避けなければならないのは、そのような姿勢です。

5 原始・古代を学ぶためには
原始・古代史を学ぶためには、日本だけ、天皇だけを見るのでは不十分です。それではどのようなことに注目すれば良いのでしょうか。以下、各論で述べていくことにします。