中世を学ぶために
1 時代区分の仕方について
日本中世の始まりの時期について、研究者によっていろいろな説が出されています。しかし現在、大局的に見れば、11世紀後半から12世紀前半頃とするのが通説となっているといえます。中世の始まりの時期の確定は、中世という時代・社会の構造・特質・体制をどうとらえるかということにかかわるのですが、今日では、以下のような点が指標とされています。まず、この時期に荘園化が全国的に進み、その波に乗って武士がさらに力を得て中央政治をも動かすようになったこと、その結果、政治的には武家の力を活用した院政が成立したことなどです。
このような時代区分の指標は、多くの教科書に反映されています。例えば、帝国版で、中世を扱った第3章「武家政治と東アジア」の第1節「武士の世のはじまり」の最初の項目は、11世紀半ば過ぎからの荘園の寄進のことを記した「増える荘園」となっており、それに「武士の役割」の項目が続いています。
では、自由社版はどうでしょうか。巻末の年表2では、「1016 藤原道長が摂政となる」から「1192 源頼朝が征夷大将軍となる」までが、古代から中世への過渡期として斜線で示されています。しかし、本文では、2章の第1節のはじめが「19平氏の繁栄と滅亡」となっており、その最初の項は12世紀中期の“保元・平治の乱”で、“平氏の政権”がそれに続いています。つまり、荘園に関する記述や武士の登場や成長については1章の古代の末尾に記され、その結果であるはずの武家の政治(平氏政権)から中世が始まったというようになっています。律令制の矛盾から荘園が発生し、武士が登場して、そうした背景の中で中央政治が摂関政治から院政、そして平氏政権へと移り、本格的な武家政権としての鎌倉幕府が開かれるに至るという歴史の流れや因果関係を、この教科書では、 「平氏の繁栄と滅亡」という政変で、前後に断ち切っているのです。
中世の終わりについてはどうでしょうか。2章中世の最後の「27 応仁の乱が生んだ戦国大名」は、“応仁の乱”“戦国大名の出現”“朝鮮と琉球”の3つの項で終わっています。他方、3章近世の第1節は「戦国時代から天下統一」で、その中の小節「29 ヨーロッパ人の日本来航」に“南蛮貿易とキリシタン大名”の項が入り、次の「30 信長と秀吉の全国統一」では、「各地で実力を養った戦国大名が勢力をのばし、たがいにはげしく争った。この時代を戦国時代という」(94頁)という記述があります。つまり、戦国時代・戦国大名についての記述が、中世と近世にまたがっており、それを中世の事象としてとらえるのか近世の事象ととらえるのか、記述に混乱がおきています。時代区分の重要性はほとんど認識されていないのです。
「歴史を考えることは、これを時代区分することである」というのは、著名な歴史家B・クローチェの名言です(『歴史の理論と歴史』)。現行の中学校学習指導要領でも、「歴史の大きな流れと各時代の特色」を理解させることを要請しています。こうしたことを考えたとき、自由社版の時代区分は、極めて安易で問題あるものといわざるを得ません。
2 荘園公領制の記述について―中世社会の基盤はなにか?
中世社会の体制的基盤となった荘園制についての記述は、自由社版では、1章の古代の終わりの第4節「律令国家の展開」で表われます。同節の「16 平安京と摂関政治」の“摂関政治”で登場し、次の“公領と荘園”の項で一応の説明がなされています。その後、古代の最後の「18 武士の登場と院政」中の“院政”の項で荘園整理令のことが触れられます。こうした記述は、荘園が古代の産物で、古代の終焉とともに消えて行くかのような印象をあたえます。
中世では、第1節の冒頭「19 平氏の繁栄と滅亡」に平氏が一族で「多くの荘園を手に入れ」(66頁)とあり、また「20 鎌倉幕府の武家政治」では、「荘園や公領に地頭を置いた」(68頁)と記述されています。さらに第2節の「24 室町幕府と守護大名」では、「守護は、荘園や公領を自分の領地に組み入れ」(78頁)とあり、その後の「25 中世の都市、農村の変化」では、「荘園のわくをこえた村のまとまりが生まれた」(81頁)と記述されています。そして、最後の「27 応仁の乱が生んだ戦国大名」で、「戦国大名は荘園や公領を自分の領地とし」(86頁)という記述となっています。
以上のように、中世の記述においては、「荘園」「公領」ともに言葉だけが、一切の説明抜きで使われているのです。またその内容は、中世の政治変動において、荘園や公領が所与の前提として存在し、政治権力がそれをいかに取り込んだかという、きわめて一方通行的な記述となっています。荘園や公領における動向が政治の変動にいかに影響を与えて来たか、といった双方向的視点はまったく見られません。
3 一揆について
中世後期は「一揆の時代」ともいわれています。自由社版の記述はどうなっているでしょうか。本文で中世社会における民衆の主体的な動きを記した記述は、第2節中の「25中世の都市、農村の変化」が、ほとんど唯一といってよいものです。その中では、「徳政令の発布や、武士の地元からの追放、関所を取り払うことなどを求め、武器を取って立ち上が(った)」(81頁)のが土一揆である、といった記述がなされています。武士の追放や関所の撤廃のことを記すならば、何より支配の基軸である年貢減免の闘いのことを記さなければなりません。
山城の国一揆や加賀の一向一揆のことは、中世最後の「27 応仁の乱が生んだ戦国大名」の“応仁の乱”の中で触れられています。しかし、それぞれの惹起した期間を記しているものの、「下剋上の風潮」の中で、山城の国一揆は「地侍らが」、加賀一向一揆は「浄土真宗の信徒らが」起こしたと記されています。つまり、こうした一揆の主体は特定の人々によるものであることが強調され、広範な農民を中心とした民衆の闘争という側面は、まったく見過ごされているのです。しかも、土一揆の記述と国一揆・一向一揆の記述との間には、「26 和風を完成した室町の文化」と「歴史へゴー!鎌倉文化と室町文化」という写真頁が挟まれており、一連の動き・流れであるということの理解を難しくさせているといえます。
このように、いわゆる「一揆の時代」は、自由社版ではごく狭くとらえられ分断されており、そこから時代・社会の実相をとらえることはできません。
4 戦国大名について
まず、戦国大名の出自についての記述をみてみましょう。「戦国大名には、守護大名やその家臣、そして地方の有力な武士など、さまざまな出身の者がいました」(帝国73頁)という記述が妥当といえます。しかし、自由社版は、「下剋上の風潮に乗って、実力のある家臣や地侍は独自の力で守護大名を倒し、一国の支配を行う領主となった」(86頁)と記しています。すなわち、戦国大名は、守護大名と敵対しているという図式となっていますが、歴史的事実からいえばこれは不適切なものです。この点に関し、戦国大名の分布図(87頁)には、出自の中に「古くからの大名」をあげ守護大名もそうであったという記載となっており、本文と不整合といえるでしょう。
次に、戦国大名の行った領国経営については、築城、城下町建設、治水工事、耕地開発、商工業の保護、鉱山開発、交通制度の整備などを指摘しています。しかし、戦国大名の多くが郷村に対して検地を実施し、年貢増徴をはかり、いわゆる貫高制を指向したという記述が見られないのは、次章の太閤検地や石高制との関連を考えさせるうえで不親切なことといえます。
三番目に分国法の制定について、自由社版は、「家臣の取りしまりや、農民の支配のために、独自の法律である分国法を定めた例もあった」(87頁)と書くだけで、制定の事実のみを記し条文も例示していません。戦国大名が、分国法を通じていかなる領国を構築しようとしていたのか、ということはまったく明らかにされていません。
なお、自由社版は、おもな戦国大名のうち分国法を制定した大名を地図上に示していますが(87頁)、そこに大きな誤りが見られます。すなわち、北条氏や朝倉氏も分国法を制定したようになっていますが、家訓でなく分国法を制定した事実はありません。また、「力をたくわえた戦国大名の中から、京都にのぼり、天皇の権威をかりて天下を統一しようとする者があらわれた」(87頁)と記していますが、将軍の権威というならばまだしも、「天皇の権威をかりて」という記述は事実と異なります。
以上示した4点の問題はいずれも、中世社会がいかなる仕組みであり、どのような特質を有するのかを全体として理解するには、自由社版教科書では不十分であることを示しているといってよいでしょう。