自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
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弥生文化と中国歴史書による古代日本(Vol.2)


弥生文化と中国歴史書による古代日本

「05稲作の広まりと弥生文化」22~23頁,「06中国歴史書が語る古代の日本」26~27頁

ここで学びたいこと

1 朝鮮半島南部から渡来した文化 縄文時代晩期(紀元前10世紀説と紀元前5世紀説がある)に水田で稲作農業をおこなう人々が朝鮮半島南部から九州北部に渡来し、金属器や磨製石器(木工具・石包丁等)をともなう新しい文化を伝えました。この新文化が日本列島の縄文人に受け入れられ、互いの混血もすすんで、紀元前7世紀(または紀元前3世紀)までに西日本一帯に成立したのが弥生文化です。弥生文化は紀元前400年(または紀元前200年)ごろまでに東北地方の日本海側に広まり、やがて北海道と南西諸島を除く日本列島の大部分が弥生文化の時代に入りました。

2 農業の発展と支配者の出現 弥生時代は本格的な農業をおこなう時代です。それにともない耕地や貴重な道具である鉄器をめぐって、集落同士の争いが起こるようになりました。そのため集落は外敵からムラを護るための濠を備えるようになります。また、農業の発展は食料の余裕を生み出し、指導者は集落の富を管理するようになります。さらに、他の集落との抗争に勝ち残った指導者は、地域の支配者になっていきます。副葬品を持った特別に大きな墓が、そうした社会の変化から生まれました。中国の歴史書に見られる小国の「王」もこうした支配者の一部です。

3 小国の分立と中国王朝への朝貢 『漢書地理志』によれば、紀元前1世紀に日本列島には多数の「小国」が分立していました。『後漢書東夷伝』によれば、1世紀半ば北九州にあった「奴国」の王は後漢の皇帝に朝貢し、金印を授けられました。朝貢や交易によって小国の王たちは鉄や青銅器を入手したと思われます。そして『魏志倭人伝』によれば、3世紀には「邪馬台国」の女王卑弥呼が30ほどの小国を統合し、魏に朝貢しました。魏からは「親魏倭王」の称号と金印などを授けられ、それによって邪馬台国は他の小国より優位に立ち、大量の銅鏡などを入手しました。


ここが問題

1 (22頁4行目)「…稲作の技術が九州北部に伝わった」とありますが、どこから伝わったかという大事な事が書いてありません。同じ頁の「水田稲作の伝来ルート」図でも、なぜか朝鮮南部からの矢印よりも、中国江南地方から直接海を渡って九州に至る矢印が太く大きく書いてあります。しかし朝鮮半島南部から伝わったことは、共に伝わった磨製石器や支石墓(墓の上に碁盤(ごばん)状に石で支えた大石を乗せる墓、朝鮮半島南部と九州北部の弥生時代早・前期にのみ築造)の分布から明らかです。

2 弥生土器の説明で「つぼやかめ、食器などさまざまな用途に使われ・・・」(22頁20行目)とあります。しかし弥生土器は一つの土器がさまざまな用途に使われたわけではなく、貯蔵用のつぼ、煮炊き用のかめ、盛りつけ用の高坏(たかつき)と、用途によって器形が分かれていることが特徴です。また弥生土器の写真(23頁)は、弥生時代中期に北関東で使われていた岩(いわ)櫃山(びつやま)式の弥生土器と思われます。縄文土器の伝統を色濃く残し、表面には縄文や幾何学的な文様が描かれており、説明文4行目にあるような「つるりとした側面」ではありません。

3 (23頁「弥生時代後期の吉野ヶ里遺跡」想像図)この図は三重の濠をめぐらした、40ヘクタールもある大規模な集落遺跡のうち、ごく一部である北内郭のみを描いています。従って「ムラを守るためにまわりに濠や柵がめぐらされている」という説明とは合っていません。

4 (26頁8行目)「倭の国の・・・」という記述がありますが、この時代にはまだ倭は一つの国にまとまってはいません。「倭」とは「倭人」あるいは「倭人が居住している地域」を指しています。従って「奴国王」は倭人が居住している地域の、小国の一つである奴国の王を意味します。また「皇帝が金印を授けた」(同9行目)とありますが、後漢書には「印綬(いんじゅ)」(印と組ひも)とあり、金印とは書いてありません。のちに志賀島でこれが発見されたので、金印と分かったのです。

アドバイス

1 横浜の子どもなら、横浜市歴史博物館の外部施設として保存してある大塚遺跡(本冊子表紙)を見学した経験のある生徒も多いと思います。あのような大規模な環濠が何のために造られたのか、また隣接した歳(さい)勝土(かちど)遺跡にある方形周溝墓にはどんな人が埋葬されたのか、縄文時代の墓地との違いは何かを、考えさせましょう。その中から階級の発生や、抗争による政治的な地域の統合などが理解されると思います。

2 教科書26頁の地図の左側にある金印の写真は中国雲南省の晋(しん)寧(ねい)県から出土した「■(てん)王之印」で、紀元前109年にこの地域の王が漢に朝貢し、武帝から■(てん)国の王と認められて与えられたものです。教科書の地図上に晋寧県の位置が記されていないのは残念ですが、倭の奴国も■国と同じように辺境の地にある王として朝貢が受け入れられ、印が与えられたのです。

3 邪馬台国の位置については、2009年の発掘調査で奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡から宮殿跡とも思われる大型建物跡が発見され、纒向遺跡付近がその有力な候補地として注目をあびています。同遺跡は三輪山の西側山麓にある弥生時代末の集落遺跡で、付近に最古の本格的前方後円墳である箸墓古墳(全長280m)や、弥生時代墳丘墓としては最終段階でずば抜けて大きい纒向石塚(全長93m)、ホケノ山(全長80m)などがあります。

(■はさんずいに眞)