自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
 →横浜教科書研究会のとりくみ
■これまでに発表した声明を掲載します。
 →これまでに発表した声明
■自由社版教科書を使用して授業をしなければならない、現場の先生方、保護者の方、自由社版教科書を使っている中学生を指導される塾の先生方に、お読みいただきたい冊子です。 
 →自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?
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目次(Vol.2)


目次

はじめに
 コラム 〔そこに眠っていた歴史 2 「盗掘穴から1300年前の星空を発見!」〕
 コラム 〔そこに眠っていた歴史 3 「出雲大社 巨大空中神殿の謎」〕

原始古代を学ぶために
 人類のはじまりと日本列島
 縄文文化と土偶
 弥生文化と中国歴史書による古代日本
 東アジアとヤマト王権(倭王権)
 蘇我氏と厩戸王子の政治
 大化の改新と白村江の戦い・壬申の乱
 律令制と人々の暮らし
 飛鳥・白鳳・天平の文化
 平安京と摂関政治
 密教の伝来と国風文化

中世を学ぶために
 武士の登場と院政
 コラム 荘園をどう教えるか?
 平氏の繁栄と滅亡
 鎌倉幕府の武家政治
 コラム 人物コラムに潜むもの「源頼朝と鎌倉武士」を解体する
 大衆や武家の仏教と鎌倉文化
 コラム 「ミヽヲキリ、ハナヲソキ」―『阿弖河荘上村百姓等言上状』の世界―
 元の来襲とその後の鎌倉幕府
 鎌倉幕府の滅亡と南北朝の動乱
 倭寇と東アジア貿易
 中世の産業の発達
 中世の都市、農村の変化
 和風を完成した室町の文化
 応仁の乱が生んだ戦国大名

近世を学ぶために
 ヨーロッパ人の来航
 信長・秀吉による全国統一
 秀吉の朝鮮侵略
 朱印船貿易から鎖国へ
 鎖国下日本の4つの窓口
 コラム 「鎖国」から「4つの口」へ―近世日本の国際関係をどうとらえるか―
 近世の身分制度
 農業・産業・交通の発達
 幕藩体制の動揺と改革
 コラム 江戸時代の飢饉の記述について
 江戸の町人と化政文化
 コラム 貨幣経済と米経済の攻防って何?
 コラム 「江戸の下町へタイム・スリップ」は幻想だらけ
 新しい学問・思想の動き
 欧米諸国の新たな接近
 コラム 教科書の中の間宮林蔵と間宮海峡

コラム 教科書の中の間宮林蔵と間宮海峡(Vol.2)

コラム 教科書の中の間宮林蔵と間宮海峡

日本では韃靼(タタール)海峡とよばれた? 間宮林蔵について、自由社の教科書では、樺太を含む蝦夷地の大がかりな実地調査を行い、樺太が島であることを発見した人物と説明し、「樺太と大陸をへだてる海峡は間宮海峡と名づけられた」(132頁)ことを紹介しています。「間宮海峡」という名称は、いつ頃から使われたのでしょうか。
 間宮林蔵は、常陸(ひたち)国(のくに)筑波(つくば)郡(現在の茨城県)の農家の家に生まれますが、幼い頃から数学的才能に秀で、伊能忠敬の教えも受けて測量術を学び、幕府役人に随行したり幕命を受けたりして幾度も蝦夷地の調査に携わった人物です。彼はシーボルト事件の発端となった人物ともいわれていますが、皮肉なことに、カラフト―大陸間の海峡を間宮海峡と名付けたのはそのシーボルトでした。シーボルトは、カラフトと大陸の間の広い範囲をタタール(韃靼(だったん))海峡と表記。その最狭部をマミヤノセト(間宮海峡)と名づけ、これによって間宮の名前は世界に知られるようになったのです。
 しかし、間宮海峡の名称が世界に紹介されたにもかかわらず、日本では、カラフト―大陸間の海峡は、ながく韃靼海峡と呼ばれていました。近代以降、海図作成は海軍水路部(現在の海上保安庁海洋情報部)が行っていますが、その作成海図をみると、1895(明治28)年には韃靼海峡(STRAIT OF TARTARY)と記され、間宮海峡の名はなく、最も狭い部分の以北は黒龍海湾となっています。この表記は1901(明治34)年版・1904(明治37)年版でも踏襲されていました。日露戦争時に出版された『日露戦争地図』、『征露最新早見地図』なども韃靼海峡と書かれています。では、この海峡はいつから間宮海峡とよばれるようになったのでしょうか。

 
国定教科書に描かれる林蔵 海峡名の変遷をみるまえに、近代以降、間宮林蔵という人物がどのように評価されていったかを少し見ておきましょう。間宮の「海峡発見」の業績が知られ始めると、1893(明治26)年には、東京地学協会が林蔵への贈位を宮内大臣に申請しているように、間宮は次第に注目され始めます。ただし、実際に林蔵に正五位が贈られたのは、日露戦争直前の1904(明治37)年4月22日、すなわち日露戦争開戦2ヶ月後というタイミングでした。
 一方、同年4月からは、全国の小学校で国定教科書の使用が始まります。国定教科書の中で林蔵は、「樺太は大陸の地続きなりや、又は離れ島なりや、…その実際を調査して此の疑問を解決したる人、遂に我が日本人の中より現れぬ。間宮林蔵これなり。…」(1918(大正7)年刊の第三期及び第四期国定教科書・尋常小学国語読本第十七課)と、苦難を乗り越えカラフトが離れ島であったことを見極めた国民的ヒーローとして描かれます。
 ところが1943(昭和18)年になると、「『ロシヤの国境まで、奥地を探検するのが、風雲急なこの時勢に、自分に与えられた使命ではないか』そう思うと…。途中の苦しみはこれまでにも増して、たとえようのないものでした。しかし林蔵は生死をこえて、ただ国をおもうのまごころから、外敵におかされようとしていた北辺の守りのために、身を投げ出したのでした」(第五期国定教科書・修身)と変わります。教科書が発行された1943年は、まさにアジア太平洋戦争の真っ最中。林蔵は、少国民である子どもに、北方での戦争のために命を投げ出すように教化する格好の教材とされたのです。日本が南方で苦戦する一方、対ソ防衛も意識している事情を反映しているのでしょう。

 
間宮海峡と呼ぶようになったのはいつ? では、海峡の名前はどうなったのでしょうか。日露戦争時までの海図や一般の地図では韃靼海峡だったのですが(前述)、1907(明治40)年になると、間宮海峡(Strait of Mamiya)となり、これが1915(大正4)年版以降も受け継がれます。つまり、韃靼海峡から間宮海峡への転換は1904~07(明治37~40)年に起こり、同じ変化は、小学校で使われる地理図にも起きています。
 もともとカラフトは明治維新期には日本とロシアの雑居地でした。1875(明治8)年、樺太・千島交換条約により日本は樺太を手放しましたが、1905年、日露戦争の勝利によって、日本は樺太の南半分の領有権を手に入れました。多大な犠牲を払った代償として南樺太領有を当然とする意識が高まるのと同時に、地図上でも、韃靼海峡ではなく間宮海峡の名を使うことになったのです。日本の帝国主義的進出が間宮海峡の名称を生んだともいえるでしょう。一見古く見えますが、自由社教科書の林蔵の肖像画も、実は1910年に描かれた図です。

間宮林蔵から学ぶこと では、現在の私たちが間宮林蔵の足跡から学ぶべきことはいったい何でしょうか。林蔵の功績は、当時ロシアの勢力圏であると考えられていた樺太北部の先住民が清に朝貢し、その役人として山丹貿易(中世以来のアムール川流域と樺太・蝦夷地との交易。1809年からは江戸幕府が直轄した)を先住民が進めていたことを確認し、アムール下流から樺太までの地図(樺太の北・東部は未踏のため不正確)を完成させ、樺太島を確認したことなどでしょう。そして、この仕事は樺太アイヌのサポートやノテトのギリヤークの長コーニらが行っていた山丹交易なしには考えられませんでした。林蔵の歩いた道そのものが山丹交易ルートなのです。国定教科書も自由社も林蔵を取り上げながら、日本とロシアの関係のみに注目し、そこに住むアイヌをはじめとする先住民の人びとは目に入っていません。また、間宮海峡という地名一つをみても、そこには近代日本の「国民」形成のしくみが透けて見えます。自由社教科書が無自覚に露わしている問題は、同時に私たちにも大切な問題をなげかけているといえるでしょう。

欧米諸国の新たな接近(Vol.2)

欧米諸国の新たな接近

「44欧米諸国の新たな接近」132~133頁

ここで学びたいこと

1 外国船の接近 18世紀後半、イギリスで産業革命がはじまり、欧米諸国は工業化の歩みを始めました。18世紀末には、鯨の脂を工場の照明や機械の潤滑油とするために、世界各地で捕鯨漁がさかんになり、日本近海にも捕鯨船や測量船などが現れるようになりました。一方、ロシアはシベリア進出によって得た毛皮などを中国などに売って食糧を獲得し、日本に対しても通商・交易を求めるようになりました(ラックスマンの来航)。また、19世紀にはいると、欧米諸国の国際的対立の影響で、長崎に突然イギリス船が入港する事件もおこりました(フェートン号事件)。

2 幕府の対応と国内の批判 幕府はロシアの交易要求を断り、外国船に対する警戒などから異国船打払令を打ち出しました。この法令にしたがって、漂流民を送り届けたアメリカのモリソン号を打ち払った事件にたいしては、国内からも批判がおこり、幕府は批判した蘭学者らを厳しく弾圧しました(蛮社の獄)。世界の動きと幕府の対応について、国内でもさまざまな意見があらわれ、幕府も、対外政策の見直しを迫られるようになってきたことを学びましょう。

3 アイヌの人びと この教科書では、日本と欧米の関係からこのころの動きを説明しています。しかし、蝦夷地、カラフト、千島は、アイヌなど先住民の人びとが生活し交易をおこなっていた地域です。カムチャッカ半島を押さえたロシア人も、クナシリ島にまで進出した松前藩や日本の商人も、アイヌとの交易地を広げ、働き手としますが、アイヌからみると、ロシア人が南下し、和人が北上してきたのです。幕府が派遣した近藤重蔵や間宮林蔵が、これらの先住民と関係をもちながら調査をすすめたことも理解しておきたいことです(本冊子100頁コラム「教科書のなかの間宮林蔵と間宮海峡」参照)。

ここが問題

1 危機感をあおる図「欧米諸国の船が目撃された数」(132頁) この図は、一見して外国船に日本列島が包囲されているような印象を与えます。ところが、同図の右下グラフを見ると、急激に来航が増加するのはアヘン戦争後の1840年代です。この単元の年代には全く関係ありません。また、この図は『再現日本史』の江戸Ⅲ③35頁の図を参照したもののようですが、同書が依拠している『黒船来航譜』によれば、接近の理由も、漂着・接近・通過・渡来出没・上陸・薪水要求・通商を求めるなど様々です。しかも、18世紀末から19世紀はじめにかけて日本に接近した外国船は捕鯨船が中心であり、異国船=脅威とはいえない時期なのです。このようなずさんな図の掲載目的は何なのでしょうか? この図は、時期の違いを無視し、ことさら船の絵を大きく書き込み、一貫して「日本」がロシアなどの侵略の脅威にさらされてきたと強調しているようです。また、他社の教科書はすべて、この単元を寛政改革などとつなげて近世で扱うのに比べ、無理に近代の日露関係に入れ込むため、幕政との関係もわかりにくくなっています。

2 132頁「ラックスマンを日本に派遣し、…鎖国下の幕府がこれを拒絶すると、ロシアは樺太(サハリン)や択捉島にある日本の拠点を襲撃した」と書いてありますが、これでは、ラックスマンが襲撃したかのように誤解されかねません。武力行使は、1804年のレザノフ来航の時です。ラックスマン来航の折、老中の松平定信は、「外国と新たな関係を持たないのが国法である」と回答しましたが、紛争が起きるのを恐れ、通商を許可する可能性をほのめかしながら、長崎入港許可証(信(しん)牌(ぱい))を与えて帰国させました。ところが、12年後、ラックスマンが持ち帰った入港許可証を携えたレザノフが長崎に来航すると、幕府は、1年余りレザノフを待たせた上、「鎖国は昔からの法である」と交易を拒否します。怒ったレザノフの無責任な指示で部下のフヴォストフが武力で襲撃し、一連の紛争が起きたのです。その後、襲撃はロシア政府の命令によるものではないと公式文書で釈明が行われ、事件は決着をみました。以後40年間、日露関係は平穏が続き、幕府も貴重な外交経験をしました。

3 132頁15行目「近藤重蔵や間宮林蔵に、樺太もふくむ蝦夷地の大がかりな実地調査を命じた」という部分は、基本的な認識に間違いがあります。ロシアの襲撃の恐怖感から東蝦夷を直轄地にしたかのように記述されていますが、実際は襲撃事件のおこる5年前に直轄化しています。近藤重蔵は幕命により蝦夷地調査をし、クナシリ・エトロフへも渡っていますが、この調査の結果で東蝦夷直轄化が決まるのです。直轄化後に近藤重蔵の調査が始まるのではありません。あり得ないミスです。

4 小林一茶の句(132頁) ロシアの襲撃に対する恐怖が高まって読まれたように書いてありますが、間違いです。襲撃事件は1806年からですが、この一茶の句は1804年(文化元年)12月10・11日に他の3句とともに読まれています。

アドバイス 

1 133頁「アメリカの捕鯨船」図の鯨の油が何に使われたのかを考えさせ、産業革命のころの日本と世界のつながりの背景を理解させるのもよいでしょう。

2 幕府の対応については、東書113頁「鎖国が祖法とされる」が参考になります。高野長英の鎖国批判の理由と異国船打払令を比べさせてみるのもよいでしょう。

3 19世紀初めの外国船の接近を、人びとはどのように受けとめたのでしょうか。「松前藩家老がロシアに寝返った」とか、「ロシアの軍艦は数百艘、津軽海峡は封鎖されている」など、異人を恐れる噂が飛ぶこともありましたが、一方では一般の人びとと外国人との交流もあったのです。1811年、北方のクナシリ島を測量にきていたロシア艦長ゴローニンが捕縛され、2年以上幽閉されたとき、ゴローニンの世話をしていた人達は、別れを惜しんで泣いたといい、異人を恐れてはいません。1824年、常陸大津浜(現在の茨城県)では、沿岸漁民たち300人とイギリスの捕鯨船員との長期にわたる交流が行われていました。かれらは、ともに酒宴まで開いていました。しかし、幕府はこれを警戒し、百姓・町人身分の者が異国人に恐れをいだき、敵愾心を持たせるべきと考え、さらに、翌1825年には、異国船打払令を出しました。

新しい学問・思想の動き(Vol.2)

新しい学問・思想の動き

                                          「42新しい学問・思想の動き」124~125頁

ここで学びたいこと

       
1 寺子屋の普及 江戸時代後期には、新しい学問といわれた国学や蘭学などが成立、発展し、武家だけでなく、上層の農民や町人にも国学や蘭学が浸透していきました。一方、庶民の子どもが通った寺子屋では、男女をとわず、生活に必要な基本的な読み、書き、算盤を学び、読み書きの出来る人びとが増えました。寺子屋では、和歌や儒学の手ほどきを行うこともありました。寺子屋が普及し、百姓や町人のなかからも知識や学問への関心をもつ人たちも現れるようになり、新しい学問の発展の背景にもなったのです。

2 国学の成立と内容 儒学の主流をなした朱子学は、幕府の官学的な地位を占めていましたが、17世紀半ば以降になると、不安が増していく現実社会に対応できない朱子学の内容に反発する動きが次々とおこってきました。国学も儒学を批判して成立しますが、寛政の改革では、朱子学以外の学問が禁止されました。
 国学を大成させた本居宣長は、日本人の素朴な心情を明らかにするために、古典を30年以上研究し、当時読まれることの少なかった『古事記』の研究をおこないました。宣長は、理想とする政治が行われず、一揆や打ちこわしなどがおこる現実の政治への批判も述べています。一方、朝廷崇拝すなわち尊皇の考え方が政治の基本であることを説きました。そして「日本の神話が世界で最も優れている」、「日本は世界を政治的支配のもとに置くのが当然」といった自国の優越性も主張しています。その後の国学は、次第に排外主義、国粋主義の傾向を強め、幕末の尊王攘夷論に大きな影響を与えました。

3 蘭学(洋学)と新しい学問の成果 蘭学(洋学)は、おもにオランダ語によって学ぶ西洋の学問のことです。8代将軍吉宗の実学奨励が糸口となって発展しましたが、これまでの学問では解決できなかったことが究明できたことで、科学的探求心が育ち、学問研究発展の基本となりました。芸術、科学などいろいろな分野で活躍した平賀源内が出たほか、杉田玄白等の『解体新書』の出版、伊能忠敬らの日本地図作製など、蘭学はめざましい発展を遂げました。蘭学者や医学者を数多く育てたシーボルトの功績もあります。
 新しい学問といわれた蘭学(洋学)は、それぞれの学者の地道な研究や努力もあって発展してゆきました。オランダ語の解剖書を翻訳した『解体新書』は、ただの翻訳ではなく、神経、骨髄、筋肉、盲腸…などそれまでの日本語にない新しい医学用語を作る努力もしています。東書114頁の2つの図を見れば、オランダの解剖図が、それまでの医学書との違いが明らかに理解できるでしょう。
 伊能忠敬の偉業は、56歳という当時としてはかなりの高齢から研究を始めたこと、海岸線を地道に歩いて3年間で9千キロも測量して驚くほど正確な地図を作ったことです。これは伊能個人の業績だけでなく、伊能に協力する人びとと幕府の援助がなくてはできない事業でした。幕府も各地の実情を探りたいため、各藩に測量への協力を命じました。さらに現在の数値と比べても誤差は1000分の1という正確さで、地球の大きさも測定しました。

ここが問題

1 天皇家とのつながりの強調  「万世一系」(124頁13行目)の用語は、幕末に藤田東湖、会沢正志斎が主張したとされていますので、宣長が使っているわけではありません。また、天皇の権限が時代によって異なるのに、同じ皇室という用語を使うことは誤解を生じます。他の教科書には出てこない「皇室」「万世一系」を使うことは、無理に天皇を印象づけてしまうと思われます。

2 125頁9行目「海防の必要」という記述。外国船の接近については、時期や内容をていねいにみてゆく必要があります(「欧米諸国の新たな接近」の項参照)。

3 125頁11~16行目 会沢正志斎と頼山陽の説明。漢文で書かれた彼らの著作を幕末に読んでいたのは、主に武士階級と一部の上層の町人、農民だけです。尊皇的歴史観が評価されたのは戦前の昭和期になってからであり、幕末に彼らの著作が広く読まれたことで、「国民としての自覚をつちかった」とまでいうのは問題です。

4 124,125頁 この2ページに出てくる文化の担い手が11人という多さ。中学生の発達段階や説明に要する時間を考えると、会沢正志斎、頼山陽、林子平、石田梅岩などは、難解すぎるので他の教科書には出てきません。ほかの教科書では3~4人(本居宣長、杉田玄白、伊能忠敬、シーボルト)だけです。 

5 124頁上の寺子屋の説明 寺子屋の数。寺子屋の数を全国で約1万としていますが、寺子屋が増えるのは18世紀後半以降で、数も幕末には約1万6千(『日本教育史資料』)といわれています。さらに、この数の2~4倍もあったという説まであります(『江戸の寺子屋入門』など)。

アドバイス

 この授業では、寺子屋が普及したこと、新しい学問が成立したきっかけ、内容、研究方法、成果について具体的な説明をして、生徒がイメージしやすくし、それぞれの学問がどんな社会背景でおこったのかを学ぶことが、重要です。

コラム 「江戸の下町へタイム・スリップ」は幻想だらけ(Vol.2)

コラム 「江戸の下町へタイム・スリップ」は幻想だらけ

                              「江戸の下町へタイム・スリップ」122~123頁

1 「両国橋のにぎわい」は
 最初の「江戸両国橋のにぎわい」と「三井越後屋」は、江戸東京博物館の展示の紹介です。これが繁栄する江戸下町の姿だ、と印象づけるための仕掛けです。
 江戸の下町とは、高台の山の手に対し、江戸の低地の部分を下町と呼ぶという説が有力で、山の手には武家屋敷が多く、下町に町屋が多かったことから、下町は町人の町というイメージが定着しました。そして江戸中期までの下町は、神田・日本橋・京橋周辺の呼称で、後期に下谷や浅草までを加えるようになりました。
 「両国橋のにぎわい」は、江戸東京博物館の常設展示場の中心的展示で、実物大の両国橋を再現したものです。そして橋の東西に設けられた広小路の賑わいを見せることで、江戸の繁栄を実感させようとしたものです。時代設定は江戸後期、下谷や浅草も下町と呼ばれだした文化文政期の光景を想定し、再現したものです。
 たしかに下町の日本橋周辺には、呉服の越後屋をはじめ大店が建ち並んでおりました。彼らは株仲間を組織し、江戸の経済を牛耳ってきました。遊里吉原では、「粋」と呼ばれる美的な感覚で遊女と上手に遊び、「通」と呼ばれるお大尽(だいじん)の多くは大店(おおだな)の旦那衆でした。「葛蒔絵(くずまきえ)提(さげ)重箱(じゅうばこ)」のような豪華な衣類や家具や装飾品を所持できたのは、大店と呼ばれるほんの一握りの上層町人だけでした。

2 江戸後期に経済の主役は野暮な中小商人へ
 しかし江戸後期になると、株仲間以外の中小の新興商人が江戸経済の中で大きな位置を占めだし、まもなく江戸のメーンストリートに進出するのです。
 村を離れた貧しい農民が各地から大量に江戸に流入してきて裏長屋に住む。こんな「店(たな)借(がり)」といわれた住民は、手に職(技術)もなく、元手(資本)もないので、仕事は日雇いや行商などによる日銭(ひぜに)稼(かせ)ぎのため、「その日暮らし」の者と呼ばれました。しかしそんな人間でも、毎日食べ、着物を着て生きています。それが10万人以上にもなると、消費量は膨大なものになります。彼らは安い物しか買えません。こんな層を相手に商売し、経済的に成長しだしたのが神田周辺に店を持つ中小商人でした。扱う商品は江戸地廻(じまわ)り産の安物ばかりです。彼らの生活はまだ質素なものでしたから、暮らしに潤いをもたらす民芸風の家具や装飾品を大切に使いました。彼らは江戸っ子であることを誇りにして、生活信条として「意気」や「心意気」という言葉を大切にするようになりました。
 一方「その日暮らし」の者たちは裏長屋(うらながや)暮らしでもなんとか暮らしていけるから、「人返し令」の甘い誘いには乗らない。彼らも人間で、花見にも花火見物にも出かける。だから行楽地が賑わったのは当然です。また裏長屋を舞台にした怪談物が大変な人気を呼びだしたように、裏長屋の住民を主人公にした小説や芝居が江戸文化の主役に躍り出たのです。

 
3 闘う江戸の下層民にも焦点を当てよう
 江戸後期、江戸の住人の大半は、「その日暮らし」の者で占められだしました。下町の神田周辺や下谷のほか、「場末(ばすえ)町」と呼ばれる本所・深川などの裏長屋に住み、日銭稼(ひぜにかせ)ぎの仕事に出ました。でも、江戸ではお米が食べられる。すごい!
 主食はお米しかなく。江戸では将軍も裏長屋の熊さんも米を食べて生きています。そんな消費人口が100万人も住んでいたのです。そこへ大凶作が起こり、稲が不作で米価が暴騰したら江戸市中は一挙にパニックに陥ります。そして安い米を求めて「その日暮らし」の者たちが米屋を打ちこわしに出ます。1787(天明7)年、天明の飢饉のさい、約1,000軒も米屋などを襲い、自分たちの命を守ろうとしました。老中田沼意次を失脚させる原動力となったのです。
 そのころ、100万都市への産物供給など商品生産が盛んになり、村にも田畑を手放して機織などで働く貧農が増えていました。彼らもまたお米を買って食べだしましたので、村にも消費人口が増大していたのです。だからちょっとした不作でも各地で打ちこわしが起こりました。そんな闘いが全国的に頻発しだしていたのです。その最大の闘いが天保の飢饉のとき、全国で起こった打ちこわしでした。
 そんな各地での打ちこわしは、すぐ江戸の米価に反映しました。そこで幕府は貧民救済のための七部積金の法で積み立てた資金を運用して、打ちこわしへの発展を未然に食い止めたのでした。
 これが「下町へタイム・スリップ」の華やかな江戸の実態なのです。事実を隠蔽し、繁栄の一部分を拡大してみせるのでは、史実は見えてきません。

4 輸出陶器用に浮世絵の古紙は使われたか?
 123頁の下に「ヨーロッパに輸出された絵皿」という題で伊万里焼の皿が紹介されています。これはオランダへ輸出されるさいに梱包用に浮世絵の古紙が使われ、それがヨーロッパでの浮世絵の流行、さらに「ジャポニスム」という日本ブームのきっかけとなったという説明を裏付けるために紹介されたのでしょう。
 浮世絵が錦絵と呼ばれるのは、浮世絵師鈴木春信が創始してからです。そのころ、もう伊万里焼の輸出は中止され、VOCという商標を持つオランダ東インド会社も解散し、伊万里焼のヨーロッパ市場への道は途絶えていたはずです。密貿易で輸出されたと想定しても、それはゴッホやロートレックが影響された錦絵ではなく、単色か2色の浮世絵でしかなかったはずです。このVOCのマーク入りの皿は、17世紀産の伊万里焼で、明の景徳鎮が復活し、伊万里焼の輸出が衰退する以前のものでしょう。
 浮世絵が、ヨーロッパ、とくにフランスで大きな反響を呼ぶのは1867年のパリ万国博覧会に、浮世絵が大量出品されてからです。もしそれ以前だとしても、横浜港から輸出される生糸の荷崩れ防止のパッキング用に詰め込まれた可能性があるくらいで、いずれにせよ幕末のことです。それが常識だと思います。