自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
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倭寇と東アジア貿易(Vol.2)


倭寇と東アジア貿易

「勘合貿易と倭寇」79頁,「朝鮮と琉球」87頁
 
この項目は、教科書とは異なる構成にしました。学習指導要領にある「東アジアとの関わり」が、教科書では、2ヵ所に離れて書かれているからです。また日本との関係での説明に終始して、国際関係の中での日本の位置をわかりにくくしています。

ここで学びたいこと

1 前期倭寇の活動 14世紀は日本・中国ともに内乱の時代で、海の安全を保障する権力が不在でした。14世紀半ばに前期倭寇が朝鮮半島や中国山東の海岸を襲い、米を人を略奪しました。彼らは対馬・壱岐・北九州の松浦半島を拠点とした海民(海を生活の場にする人々)の集団です。高麗の住民も参加していたという説もあります。当時の人々には、「日本人」「朝鮮人」「中国人」という意識は薄く、目的を同じくする海民という意識で結ばれたようです。

2 明・朝鮮と日本 1368年、明が成立します。明が作った国際秩序を理解しましょう。帝国68頁の「明は東アジアの伝統である中国を中心とした国際関係によって通交と貿易を管理することにしました。それは、中国の皇帝が周辺の国々の支配者を『国王』と認め、かれらがみつぎものを献上(朝貢)すると、皇帝もたくさんの高価な品物を返礼としてあたえるというものでした」という説明がわかりやすいです。日本がこの体制に加わるには、倭寇禁圧が条件でした。幕府は九州平定に努力し、明はその実績を認めて足利義満を日本国王としました。明は民間貿易を厳禁する海禁策をとっていたので、正式な貿易船と証明するため勘合を発給します。応仁の乱で幕府が衰えると、有力守護の大内氏・細川氏がそれぞれ博多・堺の商人に請け負わせて貿易を行い、16世紀には大内氏が独占しました。最後の勘合船は1548年で、大内氏滅亡により途絶えました。
1392年に成立した朝鮮は、海上勢力に通交・通商の権利を認める一方、海賊行為に対しては根拠地と見なす港を直接攻撃するという厳しい対応をとりました。15世紀半ばから、対馬の宗氏が朝鮮と協力し、厳格な管理のもとで日朝貿易を行うようになります。日本・明・朝鮮の交易の安定によって前期倭寇は姿を消しました。


3 琉球とアイヌ  海の平和が実現すると、中継貿易で繁栄する国が生まれます。15世紀前半に成立した琉球王国は、明に朝貢する一方ジャワやマラッカにも船を出し、香辛料などの南方の物産をもたらしました。琉球は東アジアと東南アジアの中継地として発展しました。首里城にあった万(ばん)国(こく)津(しん)梁(りょう)の鐘には「琉球は南海にあり、中国と日本の中間にあって、船をあやつって万国をつなぐ架け橋になる」と刻まれています。
北方では、13世紀にアイヌ文化が築かれ、オホーツク海沿岸や樺太へ進出します。1286年、元は遠征軍を樺太に送り、樺太アイヌの移動を阻止しました。
14世紀に入るとアイヌは元、ついで明に朝貢します。また、津軽地方の十三(とさ)湊(みなと)拠点とし、昆布などの海産物や毛皮などを商いました。アイヌを仲立ちに、日本は北方アジアとも交易したのです。

4 後期倭寇と日本 東アジアの交易が活発になると、海禁策を破って民間貿易を行う人々が中国東南海沿岸で活動します。16世紀に、朝鮮から銀の新しい精錬技術(灰吹法(はいふきほう))を学び、石見(いわみ)(島根)の大森銀山などが開発されました。すると、明の船が生糸を積んで日本の銀を入手しようとやって来ます。しかし、明の政府にとってこれらの船は国法を破る密貿易船でした。密貿易商人たちは、南九州や五島列島にも拠点を築きました。彼らが後期倭寇です。勘合貿易は途絶えた後も、彼らの手で明や東南アジアの物産が日本に運ばれました。一方、琉球王国では、後期倭寇との競合によって、その繁栄にかげりが出てきました。
 
ここが問題

1 79頁9~10行目「この貿易は、倭寇と区別するために合札の証明書(勘合)を使った」勘合は通交・入国の証明書です。その機能は朝貢体制の原則にのっとった帝国・東書のように「正式な貿易船」の証明書と説明すべきでしょう。倭寇との区別が目的だったのではありません。

2 79頁14~15行目「勘合貿易が停止すると、ふたたび倭寇がさかんになった」。勘合貿易の停止が倭寇の活発化の直接原因と誤解されかねない表現です。後期倭寇の活動範囲は、東南アジア・南シナ海にも及び、すでに1530年代から活動のピークに入っています。明が税制を改革して銀納化を進めたこと、同時期に日本の銀の生産が増加したこと、後期倭寇の中国本土や舟山諸島の根拠地が明軍に攻撃され、倭寇の拠点が日本周辺に移ったこと、など多くの要素が活動の背景にあるのです。日本からだけの見方だけでなく、東アジア全体を見ながら考察すべきことです。

アドバイス
『帝国』70~71の図をみましょう。
琉球の輸出品の馬・硫黄はどこから仕入れたものか、考えてみましょう。島津氏の支配する大隅や日向がその産地です。
アムール河口のヌルガンは、北方諸民族と明との交渉の拠点です。琉球の交易範囲の広さを確認しましょう。