自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
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■自由社版教科書を使用して授業をしなければならない、現場の先生方、保護者の方、自由社版教科書を使っている中学生を指導される塾の先生方に、お読みいただきたい冊子です。 
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鎌倉幕府の滅亡と南北朝の動乱(Vol.2)

鎌倉幕府の滅亡と南北朝の動乱

「23建武の新政と南北朝時代」,「24室町幕府と守護大名」76~79頁

ここで学びたいこと

1 変革の時代 13世紀末から、人や物の交通が飛躍的に発展し貨幣経済が広く浸透するようになります。この大きな経済変動によって、今までの秩序は破れ、分裂と対立がはじまります。鎌倉幕府を支えてきた御家人制が、彼らの生活の窮乏などでゆらぎはじめます。朝廷も天皇家が分裂し、貴族内の抗争がはげしくなります。支配者たちの動揺は、権威や秩序を維持する規範を弱め、束縛されていた底辺の人々に上昇の機会を与えました。こうした人々の動きを原動力として、時代は大きく変革していくことになります。

2 鎌倉幕府はなぜ滅亡したのか 鎌倉幕府の政治が行きづまっていく中で、悪党と呼ばれる武士が、近畿地方を中心に荘園の年貢を奪ったりしました。また、金融や商品流通にたずさわって力を蓄える悪党もいました。このような動きに対し、幕府は有効な対策を出せずにいました。幕府は北条氏に権力を集中させ、専制政治によってこの危機を乗り越えようとしました。悪党と北条氏の専制に反発する御家人を味方に引き入れ、倒幕を行ったのが後醍醐天皇でした。悪党の楠木正成や、有力御家人の足利尊氏が天皇側につき、鎌倉幕府は滅亡しました(1333年)。


3 南北朝の内乱はなぜ60年以上も続いたのか  後醍醐天皇の政治がわずか2年で破綻し、南北朝の内乱がおこります。南北朝の内乱は単なる中央政界の権力闘争にとどまるものではなく、社会的広がりをともないながら、全国的な規模と長期にわたる内乱になりました。それまで、問題をはらみながらも協調していた諸勢力の矛盾がいっきに吹き出しました。荘園領主と地頭の対立、一族の分裂、在地領主間の争いが日本列島の様々なところで起きました。対立するものは互いに相手を打倒するために南朝や北朝を名目的にいただいて戦いを行いました。武家政権を再興した足利尊氏ですら弟と対立すると自分のたてた北朝をすてて、一時南朝に降伏したこともありました。

4 内乱はどのようにして終息したのか 長い南北朝の内乱は幕府・北朝の手によって南朝を吸収する形で1392年、足利義満の時に終息します。地方の武士たちは互いに北朝方、南朝方を名のって荘園に侵略し、領地を拡大しました。これらの地方武士を押さえて秩序を回復するために守護に大幅な権限を与えました。守護はその権限を利用して地方武士たちを家臣にすることで、戦いは終息していきました。勢力を強めた守護の中には、幕府の統制に従わないものもいましたが、義満は公武の権力を統一して、世の中は安定しました。


ここが問題

1 76頁3~9行目「14世紀の初めに即位した後醍醐天皇は、天皇みずからが政治を行う天皇親政を理想とし、その実現のために倒幕の計画を進めた。(中略)後醍醐天皇の皇子の護良親王や河内(大阪府)の豪族だった楠木正成らは、近畿地方の新興武士などを結集して、幕府とねばり強く戦った」とありますが、これでは楠木正成がどのような武士で、どのような人々が後醍醐天皇に味方したのかわかりません。天皇は朝廷の貴族たちだけでなく、幕府に反感を持っていた御家人を味方にしました。それだけでなく悪党と呼ばれる社会秩序の外側にいる人々をも、天皇は味方に引き入れたことをしっかりと教えるべきです。そして、正成ら悪党の戦いは、通常の戦法によらない、ゲリラ戦による悪党的戦法で、幕府軍を持久戦に持ち込み、それが最有力御家人である足利尊氏の幕府への反乱となっていくのです。

2 76~77頁「建武の新政は公家を重んじた改革で、武家の実力をいかす仕組みがなかった。また、討幕をめぐる戦乱でうばわれた領地をもとの持ち主に返すこととしたが、はるか昔に失った領地まで取り返そうとする動きが出て混乱を招き、その方針を後退せざるをえなかった。そのため、早くも政治への不満を多く生み出すことになった」とありますが、帝国書院の教科書が指摘しているように「これまでの武家政治の慣習を無視し、新しい政策を次々にうち出す天皇の独裁的な政治は、武士や農民だけでなく、貴族からも批判をあび」る中で(帝国66頁)、建武の新政が崩壊したのです。一つの土地政策が武士たちの不満をまねき、失敗したと言うよりは、後醍醐の独裁的政治に武士・公家・農民が不満をいだいたことの方が大きいのです。

3 78頁16~17行目「将軍が天皇から任命されてその地位につくという原則に、変更はなかった」と、朝廷の権限が幕府に吸収されたが、幕府の長たる将軍は天皇によって任命されることを強調していると考えられますが、天皇に将軍を誰にするか決めることはできません。また、義満のように将軍職に関係なく政治権力を握っていた事実を忘れてはなりません。

アドバイス

戦争は、いつの時代でも庶民に多くの惨禍をもたらします。この時代を描いた『太平記』にも、たくさんの悲劇が語られています。是非、教材として活用してほしい作品です。また、直接戦闘に従事した中小の武士にとっても南北朝の内乱は、悲哀あふれるものでした。武蔵国の武士山内経之の書状が東京日野の高幡不動の胎内に残されていました(『高幡不動内文書』日野市史編さん委員会1993)。書状には残された家族への心配、所領経営のこと、戦場の出来ごとなどが書かれ、自分を心配する家族への痛々しい思いが伝わってきます。当時の等身大の武士像と、現代にもつながる「戦争に行く」という意味を考えさせる上で貴重な資料ですので、ぜひ参考にして下さい。