自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
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大衆や武家の仏教と鎌倉文化(Vol.2)


大衆や武家の仏教と鎌倉文化

「21大衆や武家の仏教と鎌倉文化」72~73頁

ここで学びたいこと

鎌倉文化の誕生 戦乱が起こり、時代が激しく変化するなかで、政権の担い手となった武士、王朝文化を深めていく貴族、無常を感じて遁世した僧、鎌倉新仏教の開祖、共同作業で新しい様式の仏像を造り出した運慶(うんけい)ら仏師など、それぞれが作り出す、新しい文化とその特徴について、時代背景と関連づけて学びます。

ここが問題

「大衆(たいしゅう)」という語はこの時代にはそぐわないものです。歴史教科書では一般に、教育・マスメディアの普及、都市サラリーマン層の出現によって、市民一般が文化のにない手となった大正デモクラシー期に用いられています(東書180頁「大衆文化の登場」)。鎌倉時代に「大衆(だいしゅ)」と言えば僧兵のことで、ここでは「民衆」とすべきでしょう。

「新しい仏教」(72頁)7行目以降の文章では、鎌倉新仏教が広まった要因を、武士たちが京や鎌倉の動向に気を配っていたことに求めていますが、聞いたことがない、無理のある論旨です。一般的には「戦乱やききんを乗りこえて、たくましく成長してきた民衆や、自分の運命を切りひらいてきた武士などの、心のよりどころとして、新しい仏教の教えが広まりました。これらは簡単でわかりやすく、実行しやすかったので、多くの人々の心をとらえました」(東書56頁)という説明がなされています。

3 鎌倉新仏教は、すぐさま民衆に広まったわけではありません。「そのわかりやすい教えや修行方法はたちまちに民衆に受け入れられ、仏教はやっと庶民全体のものとなった」(72頁、11~13行目)というのは正しくなく、日蓮宗も浄土真宗も、普及したのは室町後期(戦国時代)になってからのことです。次の説明が正しいものです。「…浄土宗の法然や、…日蓮の教え(日蓮宗)が、武士たちの心をとらえました。その後日蓮宗は、京都などの都市を中心に、商人や手工業者たちにも熱狂的に受け入れられました。」(帝国62頁),「鎌倉時代に現れた新しい仏教は、しだいに庶民の心もとらえていきました。…のちに各教団は布教を活発に行うようになり、とくに法然の弟子の親鸞を教祖とする浄土真宗(一向宗)は、室町時代になると蓮如のたくみな布教活動によって、各地に信仰を同じくする集団をつくりあげました。」(帝国62~63頁)


鎌倉時代の仏教は新仏教だけではなく、基本は真言宗・天台宗の旧仏教にありました。「天台宗や真言宗などの旧仏教の力もまだ強く、朝廷や幕府の祈とうを行って、保護されていました」(東書56頁),「新しい仏教だけでなく、天台宗や真言宗などの平安時代から続く伝統的な仏教も、庶民の間で根強く信仰されていました。」(帝国63頁)

5 72頁20行目~73頁1行目「鎌倉時代には、華美を抑えて洗練を好む宋の文化に影響され、簡素ななかにたくましさがあふれる寺院建築がもてはやされた」として、東大寺南大門と並べて三十三間堂を挙げていますが、三十三間堂は和様の建築であって、ここに入れるのは間違いです。

6 運慶(うんけい)、快慶(かいけい)と並べて定慶(じょうけい)を挙げていますが、あまり有名ではなく、覚えさせる必要はありません。また、大きな写真が載せられている摩(ま)和(わ)羅(ら)女(にょ)像は、リアルな女性像として稀有なものですが、他の中学歴史・高校日本史教科書、副教材にも全く出ていない作品で、美術史ではこの時代を代表する美術作品とはされていません。無著(むちゃく)・世親(せしん)像の写真を見せるのが一般的です。また、「平安時代の仏教」の頁(57頁)にある六(ろく)波(は)羅(ら)蜜(みつ)寺(じ)の空(くう)也(や)上(しょう)人(にん)像(ぞう)も鎌倉時代を代表する作品の一つなので、こちらを見せましょう。

7 鎌倉時代に「無常観(むじょうかん)」が広まったのは、単に平家が滅びたせいではありません。『方丈記』は、1177年「安元(あんげん)の大火」、1180年「治承(じしょう)の辻風」、1181~2年の「養和(ようわ)の飢饉」、さらに大地震の被害を挙げています。打ち続く戦乱と天災、人々の運命の有為転変、浮沈の激しさ…無常観の広まりは大きな時代のうねりの中で捉えるべきでしょう。そして、無常ということが鎌倉文学のテーマとなったのです。

8 73頁12~15行目「役人や武士の身分を捨てた人びとの中から、鴨長明(かものちょうめい)の『方丈記(ほうじょうき)』や吉田(よしだ)兼好(けんこう)の『徒然草(つれづれぐさ)』という、あきらめの境地をつづった随筆(ずいひつ)の名作が生まれた」とありますが、2人とも神社の社家の出身で、武士ではありません。吉田兼好(本名は卜部(うらべの)兼好(かねよし))は蔵人(くろうど)だったことがあるので役人だったと言えましょうが、鴨長明は神官でした。彼らの文学には無常という主題が濃厚にありますが、無常を悟ることは「あきらめの境地」とは違います。

アドバイス

1 摩和羅女像は、この教科書が特別な思い入れをもって載せているもののようです。優れた日本美術の作品は星の数ほどあるし、見る人の気持ちによって感動も異なりますが、教科書に載せるべき作品は、評価が定まったもので、個人の好みで選ぶのではないでしょう。しかし、摩和羅女像で学べることもあります。鎌倉彫刻の特徴はリアリズムにあります。目に玉眼(水晶)を入れるのは、鎌倉時代に生み出された技法です。顔のしわ、頬骨、肋骨、指の節など、高齢の女性をリアルに表しています。これは、リアルな女性像としては随一のものです。なお、摩和羅女とは仏法を守る二十八部衆の一人です。

2 西行、鴨長明、吉田(卜部)兼好は、遁世者です。家を捨てて「出家」した人が、さらに寺も捨てて隠者となることを「遁世(とんせい)」と言い、当時はこれがブームとなり、多くの文学がここから生まれました。もと北面の武士だった西行は遁世して旅に生きました。その美的世界の背景には、鎌倉で頼朝からもらった銀の猫を道端で遊ぶ子どもにポイと与えて去って行ったというエピソードに象徴されるような、既に世俗の権力に関心を払わない精神がありました。一方、長明や兼好は都の近郊の小さい庵で隠者の生活をしました。生徒たちは国語で『徒然草』を読み、鼎(かなえ)をかぶって取れなくなった話や、稚児が空寝をする話、堀池の僧正の話など、俗っぽい滑稽な世界を味わっていると思います。彼らには、世捨て人でありつつも、深山幽谷ならぬ都のそばに住んで、興味津々として、諧謔(かいぎゃく)に富んだ眼で人の世を見つめる眼があったのです。