自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
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平氏の繁栄と滅亡(Vol.2)


平氏の繁栄と滅亡

「19 平氏の繁栄と滅亡」 66~67頁

ここで学びたいこと

1 保元の乱・平治の乱 前節で学習したように、院政は、一度権力をもった上皇・法皇(「治天の君」と呼びます)が、生涯に渡って政権を掌握することが通例です。そのため、院政を行っていた上皇・法皇の死が政権交代の数少ない機会となります。政権交代の機会に複数の候補者が存在した場合には、政争に発展する可能性が高くなります。鳥羽上皇の死の前年、1155年の後白河天皇即位以後続いていた後白河と崇徳上皇の対立が保元(ほうげん)の乱の直接の原因となります。これに加えて、この政権闘争とも関わっていた摂関家内の藤原忠通(ただみち)と忠実(ただざね)(忠通の父)・頼長(よりなが)(忠通の弟)の対立も絡んで乱が勃発しました。保元の乱の勝利で治天の君となった後白河院政下で起こった院司(いんし)・北面(ほくめん)の武士の主導権争いが「平治の乱」の要因です。この乱で勝利した平清盛が政治的な発言力を高めていきました。

2 戦乱と武士 平安時代までの政争の解決方法としては、長屋王の変のように相手に謀反の疑いをかけて自害に追い込む、または菅原道真の事件のように左遷させるという方法が用いられていました。しかし、保元の乱においては、武力により決着がついた点に注目しましょう。強力な武力を抱えた勢力が、政権を獲得できるようになり、皇族・貴族社会においてそれだけ武士の重要性が高まりました。このことが、後に武家政権が築かれた理由なのです。


3 平氏政権 平清盛により最初の武家政権である平氏政権が樹立されました。平氏政権では、幕府のような新しい独自の組織は形成されませんでした。清盛が太政大臣という朝廷の役職に就くことで権力を高め、また摂関政治のように天皇の外戚となることで天皇の権威を利用したのです。500ヶ所以上の荘園などを領地とすることで、経済的にも繁栄しました。これは院政で行われていた経済力を高める方法と同様です。その他、福原(現在の神戸市)の別荘に近い大輪田泊や瀬戸内海航路を整備して日宋貿易を積極的に行い、経済源としました。軍事面では、西日本では武士団を組織していましたが、全国的な組織作りには及びませんでした。なお、平清盛政権については、議論が重ねられ、その成立時期や評価が明確には定まっていません。

4 治承・寿永の内乱 平清盛が対立した後白河法皇を幽閉したため、後白河の子供の以仁王が蜂起し、源頼朝・源義仲・延暦寺・園城寺などの反平氏勢力が各地で挙兵しました。頼朝は石橋山の合戦での敗戦後に、関東の武士団と主従関係を結び、戦力を整えました。以後の平氏との合戦時には、戦闘は弟の源範頼・源義経に任せ、頼朝は鎌倉で政権の整備をはかっていたことは、次節との関係で押さえておきましょう。なお、中学校教科書では用いられていませんが、戦乱の名称としては、「治承(じしょう)・寿(じゅ)永(えい)の内乱」が多く使用されています。

ここが問題

1 平治の乱の原因として、「貴族の間の勢力争いから」(66頁11行目)とありますが、この評価は一面的です。後白河院政下において、院近臣として権力を握っていた藤原信西、彼に優遇されていた平清盛に、藤原信頼が源義朝と結んで起こしたのが平治の乱です。すなわち、貴族に武士の勢力争いも絡んで起こった事件なのです。この乱では、最初信西が討たれたのですが、帰京した平清盛によって、信頼は処刑され、義朝は東国へ逃れる途中に尾張国で殺害されました。

2 「朝廷の命を受けて弟の源義経らを派遣し、平氏の討伐に向かわせた」(67頁13行目)とあります。この「朝廷の命」がなにを指すかが曖昧ですが、派遣の直前の1183年10月に出された寿永2年10月の宣旨がその候補として考えられます。この宣旨は、後白河法皇が、これまでは朝廷への反乱軍という位置付けであった頼朝に東国支配権を認めたものと評価されています。宣旨の内容を実行するために、頼朝は義経らを派遣しました。しかしこの宣旨は、頼朝が要求した結果発行されたものですから、朝廷の命令とは言えません。また「朝廷の命」を、頼朝が最初の挙兵の契機といわれている1180年4月の以仁王(もちひとおう)の令旨と考えられるでしょうか。以仁王は後白河法皇の第三皇子で、後白河法皇が平清盛によって幽閉されて安徳天皇が即位したため、全国の反平氏勢力に挙兵を呼び掛ける以仁王の令旨を発し、また自らも源頼政とともに挙兵しましたが、失敗に終わりました。頼朝のもとに以仁王の令旨が到着したのが、鎌倉幕府の公用記録である『吾妻鏡』によると4月27日、頼朝が挙兵するのが8月17日です。軍勢を整えるまでに時間がかかったとの解釈もありますが、以仁王の挙兵を鎮圧した平氏が、ついで東国の反平氏勢力の追討を計画したため、それに対抗して自らの命を守るために挙兵したと考えられています。すなわち、どちらにしても頼朝の挙兵・出兵は朝廷の命とは関係なく行われたのでした。

アドバイス

1 帝国55頁には、「奥州藤原氏」のコラムがあります。奥州藤原氏は院政期に東北に独自の勢力を築いた一族で、院・平氏なども簡単に手を出せず、実質的に東北の支配が認められていました。彼らが一定の勢力をもっていた理由の一つとして、交易により経済的に豊かだったことがあげられます。金・鷹の羽・馬などの当時の高級品を扱うとともに、独自のルートで中国と交易をしていました。平清盛同様に、東アジアとの関係を見ることができます。

2 多くの教科書に「平氏政権」という言葉はありますが、武士としての最初の政権という部分では議論が多いのも事実です。武家政権というよりも、後白河院政の院司として権力をもっていたということで、院政を基盤とおいた政権という考えが強いようです。その理由としては、①太政大臣という従来の朝廷の官職に拠り所であった、②外戚関係を結ぶなど天皇の権威に基づくもので独自の政治体制を作ることがなかった、③全国の武士と主従関係を持つにいたらなかったため、軍事的にも強固なものではなかった、などの理由があげられています。