密教の伝来と国風文化
「17密教の伝来と国風文化」56~57頁
ここで学びたいこと
1 唐風文化 平安時代前期は律令制を再編する時代だったことは前単元で学習しましたが、唐から導入した律令制が影響力を持ったこの時代、文化の上でも唐の影響は強く、平安前期は唐風の文化が花開いた時代でありました。後で触れる空海や最澄もこの平安前期の人物です。だからこそ唐で学び、新しい仏教を日本にもたらすわけです。貴族らは漢詩を読み、漢文学が盛んな時代でした。
2 国風文化 平安中期の文化を「国風文化」といい、日本風の文化が生まれた時代といいます。但しこの時代に至っても、貴族らは唐や大陸の文化にあこがれを持ち続けていました。遣唐使派遣が途絶えた後も、民間商船によってもたらされる大陸の文物(たとえば沈(じん)や丁子(ちょうじ)などの香料、虎の皮、瑠璃壺と呼ばれたガラス壺など)は唐物として珍重されていました。こうした中国文化の強い影響を受けながらも、それらを基礎に日本の風土や生活、習慣にあった文化が生まれたのです。このような文化を国風文化といいます。
3 平安前期の仏教 平安前期には唐で学んだ最澄と空海によって新しい仏教がもたらされました。最澄は天台教学を学んで帰国し、帰国後比叡山延暦寺を拠点に天台宗を開きます。空海は2年間にわたって密教を修行し、帰国後真言宗を開きます。
空海の伝えた真言宗は秘密の呪法によって悟りを得るというもので密教と呼ばれました。密教は祈りやまじないによって国家の平和や人々の願いをかなえるものでした。そのため天皇や貴族らに広まっていきます。最澄も唐で密教を学んでいましたが本格的なものではありませんでした。天台宗が密教を本格的に取り入れるのは最澄の弟子の時のことです。こうして天台宗も密教を取り入れ、真言宗とともにその後大きく勢力を伸ばしていくのです。
4 平安中期の仏教 平安中期にも依然天台・真言二宗は大きな勢力をもっていましたが、この時代に登場し、注目されるのが浄土教です。浄土教は阿弥陀仏を信じることによって死後に極楽浄土に生まれ変わることを願う信仰です。京の市井の中に入り布教を行い「市聖」と呼ばれた空也や極楽へ生まれ変わるための具体的な方法を著書に著した源信などによって浄土教は広められていきます。藤原頼通が建てた宇治の平等院鳳凰堂は浄土教信仰によるもので、阿弥陀仏をまつり、現世に極楽浄土を再現したものといわれています。
ここが問題
1 「国風文化」の冒頭に「894(寛平6)年に遣唐使が廃止された。」(56頁1行目)という一文があります。直接、そのために国風文化が生まれたとは述べていませんが、ややもすると遣唐使が廃止されたために国風文化が生まれたとの誤解を生んでしまうおそれがあります。事実、かつてはそのような理解が一般的でした。しかし遣唐使は平安時代に入るとほとんど派遣されておらず、遣唐使廃止が国風文化誕生の原因だとすれば、894年の廃止以前に国風文化が生まれていてもおかしくないはずなのです。また逆に、遣唐使廃止後も民間商船によって大陸の文化・文物はもたらされており、貴族らから珍重されています。このように894年の遣唐使廃止と国風文化の誕生は
無関係である点に気をつけておきましょう。
2 「平安時代の仏教」の項には「二人は唐で密教という、いままでの日本の仏教と異なる体系の仏教が盛んになってきていることを知り、その経典や資料、そして法具などを持ちかえった」(57頁4行目)、「朝廷は二人のもちかえった密教をさっそく広めるよう援助した」(57頁10行目)とあります。最澄も空海も密教を学んだことは事実です。しかしこの記述だと彼らが開いた天台宗、真言宗とも当初から密教化したものだったという誤解を与えてしまいそうです。最澄の開いた天台宗は法華経を根本経典としており、顕教としての性格ももつものでした。最澄は天台宗に密教を取り入れようとしますが、本格的に密教を取り入れるのは最澄の死後、最澄の弟子たちの手によって、のことでした。
アドバイス
1 学習指導要領との関連で、平安初期の文化は取り上げる必要はなくなっています。しかし空海や最澄を取り上げるのであれば、その背景にある平安初期の唐風文化に簡単に触れるか、あるいは教科書の記載順とは異なり国風文化を取り上げる前に平安時代の仏教を扱った方が、前の単元との整合性がとれるでしょう。
2 藤原氏は自身の娘を天皇の后とすると、さらに天皇に娘のもとに通ってもらうため才能のある女房を娘のもとに仕えさせています。そして娘に教養をつけさせ、いっそう魅力的な女性にしようとしたのです。こうして集められた女房らが『源氏物語』や『枕草子』など優れた文学作品を生み出したのです。
さて紫式部は『紫式部日記』の中で清少納言を「賢ぶって漢字を書き散らしているけれどまだまだ不足な点がある。こういう人は将来ろくなことがない」などときつく批評しています。この二人はライバル関係にあった藤原道長の娘彰子と藤原道隆の娘定子にそれぞれ仕えていたため(彰子も定子も一条天皇という同じ天皇の后となっていました)、こうしたきつい一言になったのかもしれません。このエピソードから女房の生活について考えさせるのもよいのではないでしょうか。
3 帝国書院版49頁には「女房装束(十二単)を着てみよう」という体験リポートがある。この頁を紹介して紙上で追体験させた上で、枚数調整が可能な十二単は夏暑く冬寒い平安京の暮らしに適したものだったこと(暑い場合には単と袴だけで過ごすこともあったし、寒いときには20枚も重ね着した例もある)、現在の重さで10㎏から15㎏、二重織物など豪華なものの場合20㎏もあったことなども紹介してみましょう。