自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
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■自由社版教科書を使用して授業をしなければならない、現場の先生方、保護者の方、自由社版教科書を使っている中学生を指導される塾の先生方に、お読みいただきたい冊子です。 
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飛鳥・白鳳・天平の文化(Vol.2)


飛鳥・白鳳・天平の文化

「15飛鳥白鳳天平の文化」48~49頁,「歴史へゴー!シルクロードと仏教美術」52~53頁

ここで学びたいこと

1 飛鳥文化は日本初の仏教文化 6世紀半ばに百済から公式に仏教が伝来した時、ヤマト王権の主導権は蘇我氏、物部氏など少数の豪族が握っていました。蘇我氏はいち早く仏教を受容し、6世紀末に蘇我氏が物部氏を滅ぼすと、仏教受容はヤマト王権の方針となりました。そして本格的な伽藍を持つ寺院として飛鳥寺や法隆寺が建立されたのです。当時中国南北朝時代の仏教文化が朝鮮諸国に伝来しており、それらが百済や高句麗からの渡来人僧侶や技術者によって伝えられました。基壇上に礎石を置いた建物や瓦葺き屋根、青銅で鋳造し金メッキをほどこした仏像は最先端の文化でした。王家も豪族たちも、一族の力を示すものとして寺院を建立しはじめました。この頃から7世紀前半までの、日本初の仏教文化を「飛鳥文化」と言います。

2 白鳳文化は中央集権国家とともに発展 645年に蘇我氏本宗家が滅ぼされると、政治の主導権は豪族から大王家に移ります。宮の所在地は難波、飛鳥、近江と遷(うつ)りますが、7世紀末の天武・持統朝には飛鳥に戻り、ここで唐をモデルとした律令体制が整えられていきます。飛鳥淨(きよ)御原(みはら)宮付近には律令制度に支えられ、国家の権力を示す薬師寺(本(もと)薬師寺)などの官寺が建立されました。この時期の文化を白鳳文化と言います。仏像の様式は新羅を通して伝えられた、中国唐初期の文化の影響を受けたものになって行きます。また地方の豪族によっても寺院が建立されるようになり、千葉県龍角寺や東京都深大寺などに白鳳時代の仏像が残されています。

3 天平文化は古代国家の到達点 律令国家の成立の後、都も710年奈良の平城京に遷されます。それから都が長岡京、平安京に遷るまでの時期の文化が「天平文化」です。国家により東大寺、大安寺、西大寺などの大規模な官寺が建立され、僧侶は国家の保護を受けて、鎮護国家のための法会を盛大に営みます。聖武天皇は国ごとに七重の塔を持つ国分寺や、国分尼寺を建立させ、都には盧舎那仏(大仏)を建立させました。国家の由来を記述する歴史書『古事記』『日本書紀』や、国家の支配領域の地誌である『風土記』が編纂されました。また天皇賛美の歌を多く含む『万葉集』が大伴家持などによって編纂されました。莫大な費用や人材を惜しみなく注ぎ込んだ寺院建築や仏像彫刻は、世界的に見ても水準の高いものでした。しかし一方で民衆への負担は重く、社会の疲弊を招きました。

4 遣唐使が運んだ国際的な文化 天平文化の時代には遣唐使を通じて中国唐の文化が直接伝えられるようになりました。唐の文化にはシルクロードを通じて、インドやペルシャなどの文化が影響を与えています。また7世紀後半に朝鮮半島を統一した新羅、7世紀末に中国東北部に建国した渤海とも、使節の往来が行われました。天平文化には国際的な奥行きがあり、聖武天皇が愛好し光明皇太后によって東大寺に寄進された工芸品の一部は、シルクロードから唐を経由して運ばれてきたものです。


ここが問題

1 48頁6行目「この時代に建てられたとされる寺院としては四天王寺、法起寺、法輪寺、…の名前が知られている」と書かれています。聖徳太子ゆかりの寺院を選んで挙げているようですが、法起寺の三重塔は8世紀の創立で、法輪寺は7世紀末の創建と推定され、飛鳥時代とは言えません。帝国、東書ともに飛鳥文化の例として挙げているのは法隆寺と広隆寺のみです。また9行目の「帰化人」という用語は「渡来人」とすべきです。

2 52頁の法隆寺回廊の柱の写真には、「この様式をエンタシスといい、ギリシャ建築の神殿の柱などにつながるものではないか、といわれている」という説明があります。明治時代から唱えられている古い説ですが、未だに実証されておらず、エンタシスには無関係という説が建築学界では主流です。

3 53頁29~32行目「奈良という時代、まさに当時の世界の先進文明のすべてがそこに大集合していたのだ」とあります。しかし王権とは高い文明を集めようとするものであり、唐文化の影響を受けた新羅に比べて、決して特別なものではありません。「大集合」してきたのではなく、熱心に摂取した結果として、先進文明が到達したのです。

4 53頁阿修羅像の写真説明として、「そのきりりとした表情が女子修学旅行生の人気を集めている天平ボーイ」とあります。確かに人気のある像ですが、「女子」とか「修学旅行生」とかに限定するのは根拠がありません。若々しい像ではありますが、仏像に対し「天平ボーイ」という表現はいかがなものでしょうか。

アドバイス

1 飛鳥・白鳳の文化を理解する時、古墳築造の衰退と関連付けると分かりやすいと思います。飛鳥時代、蘇我氏などの中央豪族は、寺院建立と同じ様に古墳の築造も続けました。当時の寺院建立は、古墳築造と同じく一族の権威を示すシンボルでもありました。しかし天皇の権威が確立する白鳳文化の時代、豪族による古墳築造は制限され、古墳はほとんど天皇と皇族の独占物となります。そして墳丘が小さくなる代わりに、内部に華麗な壁画を描いたものなどが現れます。(前3~4頁参照)そして律令国家の政治システムが完成した天平時代に、天皇も巨大寺院の建立に自らの威信を示し、墓としては仏教思想に基づく小さな火葬墓を用いるようになるのです。

2 49頁6行目以降には、不空羂索(ふくうけんじゃく)観音像、日光・月光菩薩像、戒壇院の四天王像などが「美術的にきわめてすぐれた仏像」と紹介されています。

ではなぜこの時期にすぐれたものが現れたのでしょうか。塑(そ)像や乾漆(かんしつ)像という新しい技法が導入されたこと、その特徴として、彫像や鋳造像と比べ、自由で変化に富んだポーズや写実的な表現がしやすかったということが、挙げられると思います。また中国・朝鮮などとの文化交流が盛んだったこと、国家仏教の発展に伴い、優れた人材が投入されたことも挙げて、考えさせたいところです。