自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
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律令制と人々の暮らし(Vol.2)


律令制と人々の暮らし

「13平城京の造営と奈良時代」42~43頁,「地方の統治」46頁

ここで学びたいこと

1 大宝律令の制定 中国の唐にならった国づくり=律令体制の形成とは、どのようなものだったのでしょうか? ①中央・地方の行政組織がはっきりと体系化され、天皇中心の中央集権国家としての支配の仕組みが法的に完成したことです。つまり、中央に二官八省、地方に国・郡・里(50戸で1里)がおかれ、それぞれ中央から派遣される国司、地方の有力者が任命される郡司・里長によってその地域の人々をおさめさせました。②「公地公民」を基本とし、戸籍・計帳を整備し、班田収授を行い、税をとる体制が確立したことです。

2 律令体制下の人々のくらし 律令体制への移行は人々の暮らしや人間関係をどう変えたのでしょうか? 一般の人々の負担は、朝廷や地方への貢納と労役という形になって、東国の男子が九州まで行かされる防人(さきもり)のような兵役や、庸や調の都への運搬など、モノだけでなく労役が大きな負担になっていきました。この頃編纂された『万葉集』には、防人の歌や貧窮問答歌など当時の民衆の生活や感情をよく表現しているものがあります。当時の社会は、皇族・貴族から一般農民まで含む良民のほか、賤民、わけても奴婢のように売買の対象になる人々もいる身分社会です。良民のなかでも、貴族や役人と一般の農民との間には大きな差がありました。位をもつ者は課役などの義務を免ぜられ、さらに五位以上の貴族には様々な特権がありました。たとえば位田、功田、職田などの土地や、位封(いふう)、職封(しきふう)など税として貢納されたモノ、従者に当たる資人(しじん)まで与えられました。一方、一般の人々には「生活の基礎となる口分田」(43頁)が与えられたとありますが、口分田だけでは生活するには到底足りなかったようです。班田収授の目的は、一般の人々に税や兵役を負担させることにありました。貢納や労役のための旅の途中で、のたれ死にする人々の存在も記録(『続日本紀』)されています。

3 律令体制の矛盾と鎮護国家の仏教 「青(あお)丹(に)よし…」の歌にイメージされる華やかな都の貴族の生活のかげに、庸・調の運搬や雑徭、兵役などの負担に耐えかねた農民の逃亡や偽籍などの抵抗もありました。このような問題が顕著になってくると、国家を仏教の力で鎮護しようと大規模な造寺・造仏があいつぎました。しかし、これは国費を消耗し、人々の生活を圧迫しました。わけても大仏造立は大きな負担だったため、従来弾圧していた行基らの活動を認め、その力をも利用して、少なくとも延べ26万人以上の労働(『詳説日本史史料集』(山川出版社)の42頁の表「労力」を合計)を費やして、詔から9年目にやっと完成させたものでした。



ここが問題

1 本文では、「人々に平等に土地を分ける」(43頁10~11行目)とのみ記し、男女や良民と賤民での班田の給付の違いに触れず、農民の負担の重さ、特に労役・兵役の負担について書かれていません。「律令国家におけるおもな税」の表(43頁)には租が3%とある以外は,庸・調の分量も、都まで自分たちで運ばなければならなかったことも、兵役のうち地方の軍団についても記述がありません。兵役についての説明は何と「生まれた村を一歩も出たことがなかった人びとが…文化や情報の交流の機会にもなった面もある」(43頁)としか書かれていません。これではどんなに大変な負担だったか全く解りません。東書37頁の表には「兵役 男子(21歳以上3~4人に1人)食料、武具を自分で負担し、訓練を受ける。一部は都1年、防人3年」とあり、帝国は39頁に庸・調の運搬の大変さを、調の荷札である木簡や「都までかかる日数」の地図と共に載せています。また、自由社には出挙(すいこ)に関する記述がありません。出挙とは農民に種もみを貸し付ける制度で、高い利息(公で5割の利稲)を課し、事実上、税と同じ重い負担でした(東書37頁・帝国38頁)。自由社は律令制の「恩恵」を強調するのみで、支配者が律令制維持のために人々に負わせた負担や、人々の苦しみについてはほとんど書いていません。

2 「唐に朝貢していた新羅が独自の律令をもたなかったのに対し、日本は、中国に学びながらも,独自の律令をつくる姿勢をつらぬいた」(42頁9~11行目)ことを誇るかのような記述がありますが、新羅は唐の律令の一部を旧来の新羅の法と併用しており、どちらも工夫して取り入れているのです。なお、律令制定期=天武・持統期には遣唐使は派遣されておらず、新羅との交流が盛んでした(668~701年の間の遣新羅使10回、新羅使25回)。新羅からも学んで、律令体制づくりが行われた事実に目を向けましょう。

アドバイス

1 帝国38~39頁、東書36~37頁は共に「庶民の食事」と「貴族の食事」を対比して人々の生活をイメージさせようと工夫しています。帝国には一人ひとりの姓名・年齢などのほか、逃亡を示す「逃」の文字の入った計帳の写真があり、「『逃』って何かな?」と考えさせています。東書には負担の内容が詳しく書かれています。当時の人々の生活がイメージできるこれらを対比して使い、生徒たちで農民はどんな生活か考え、話し合ってみましょう。東書37頁「歴史にアクセス/復元,奈良時代の人々のくらし」や、帝国39頁「都までかかる日数」の地図も活用するとよいでしょう。

2 『万葉集』は、漢字を使って日本語を表す万葉仮名は先人の知恵と努力の結晶でもあり、社会各層の人々の歌を収めていて、歌集としての価値だけではなく、当時の人々の生活や喜怒哀楽の分かる史料としての価値も高いものです。自由社は、人々の生活などが分かる史料として扱わず、後の方(解説は49頁、歌そのものは60頁)に切り離して載せていますが、帝国は39頁に「『防人』をめぐる歌」として、2首:「韓(から)衣(ころも)裾(すそ)に取りつき泣く子らを置きてぞ来ぬや母(おも)なしにして」、「防人に行くは誰(た)が夫(せ)と問う人を見るが羨(とも)しさ物思いもせず」を、東書も37頁「韓(から)衣(ころも)…」の歌を載せています。