自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
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コラム 荘園をどう教えるか?(Vol.2)


コラム  荘園をどう教えるか?

荘園は教えにくい 「荘園は教えにくい」といわれてからどれくらい経つでしょうか。これまで、この課題を解決するために多くの努力がされてきました(たとえば、永原慶二著『荘園』吉川弘文館など)。しかし、依然その声はおさまっていません。
荘園の理解を難しくしているのは、古代の「公地」制は荘園=「私(有)地」の成立・拡大によって崩壊する、という古い考え方に大きな要因があります。違った言い方をすれば、公地と荘園を対立的に捉え、荘園が公地を侵食・拡大することによって中世社会が成立するという考え方です。三世一身法(723年)、墾田永年私財法(743年)を契機に成立した荘園は徐々に拡大し、院政期に体制的に確立すると習った直後、鎌倉時代になると荘園・公領ごとに地頭が置かれ、かつ鎌倉幕府の財政的基盤は荘園と公領である、と習います。とすると、「えっ!公領はまだあったんだ。」という疑問が湧き、混乱してしまうのです。

墾田とはなにか? では、どのように理解したらよいでしょうか。まず、三世一身法、墾田永年私財法で成立する「墾田」ですが、墾田が「私有地」であるという記述はどの教科書にもみられますが、正確ではありません。墾田は実は「輸租田」(「租」を納める田)でした。したがって、墾田が増えると国家に納入される「租」も増大したのです。すなわち、墾田は口分田とならんで、国家にとっては税を生み出す重要な田地だったのです。
ではなぜ二つの墾田法で墾田の所有を認めることになったのでしょうか。これも実はですが、律令には国司の墾田を除いて、寺院や庶民が所有する墾田に関する規定はなかったのです。したがって、公田(班田対象の田地)以外の荒地を開墾してできた耕地をどのように扱うのか、決まっていませんでした。それで、三世一身法では墾田の所有権を認めると同時にその期限(三世と一身)を決めたのですが、それでも墾田の開発が進まなかったので、所有の期限を外して「永年私財」としたのです。ここで重要なのは、墾田が「永年私財」として班田対象外の田地として認定されたこととともに、墾田が公田とならんで国家的な税(租)が賦課される田地として正式に認定されたことです。したがって、古代国家の基本的な土地制度は公田と墾田とによって成り立っていたといえるのです。


古代荘園の特徴 具体的な例を示しましょう。墾田永年私財法に基づき東大寺などに多くの荘園が認められました。これを「初期荘園」とか「古代荘園」といいますが、この荘園の性格は院政期・鎌倉期の荘園とは相当違いました。まず、東大寺などに認められた荘園は墾田の集合体でしたから、当然「輸租田」でした。そして、これらの荘園の管理・運営は「造東大寺司」といって、東大寺を造営し維持するために設置された「司」=官の役所が行ったことです。すなわち「荘園」といっても、まず「租」を国家に収め、租を出した後の残った収益によって東大寺の造営・維持を実現するという官営の荘園だったのです。
このように、東大寺などに墾田の所有が認められたものの、「租」の納入が最優先されたこと、そして、平安時代に入り律令制支配が徐々に弱体化したこともあって、古代荘園の多くは経営を継続することができず、10世紀には多くが消滅してしまったのです。
とはいえ、墾田=荘園が寺社の造営・維持の費用に充てるために設置されたことは、これ以後の荘園の性格を考える上で重要な点です。

免田の成立 律令には、貴族や寺社に不輸租田(租が免除される田)として職田や位田(官職や官位に応じて支給される田)、寺田・神田(寺社を維持・経営するための田)を給付することが決められていました。しかし、先にも指摘したように、平安時代に入ると律令制支配の動揺は明確になり10世紀初頭にはほぼ崩壊してしまいます。そうすると当然、職田・位田、寺田・神田なども有名無実化しました。古代荘園が消滅したうえに国家的給付もなくなり、経営・維持の財源を失った寺社(便宜上寺社に代表させる)はそれに代わる新たな給付を朝廷に求めざるを得ませんでした。朝廷もそれを無視することはできなかったので、公田の一部を割いて不輸租の権利をもった「免田」とし、その所有を認めることにしたのです。このようにして、10世紀前後から免田の集合体を基本とした寺社領荘園が次々と現れてくることになりました。輸租の墾田の集合体であった古代荘園から不輸租権をもった免田の荘園への転換は、荘園の歴史のなかで大きな転換でした。
しかし、免田の認可権は国司が持っていたため、国司の交代ごとに申請しなくてはならず、必ずしも安定的な所有とはいえませんでした。そこで、寺社などはこれまでの権益と権威を盾に維持・経営のため費用の安定的な確保を主張して、不輸権に加えて不入権も獲得しました。さらには有力貴族との縁故などを利用して太政官符による認可を獲得するなどして、免田の集合体の荘園から、内部に村落や山野などを含んだ一円的で私有性の強い荘園に作り上げていきました。こうして、院政期に中世的な荘園制が出来上がったのです。

まとめ 中世的な荘園を説明する際、所領の開発やその寄進などが重要視されることが多いです。それは中世的な社会構造を理解するうえでは重要ですが、荘園の歴史にとって不可欠な要素ではありません。何度も指摘したように、荘園は墾田の集合体であれ免田の集合体であれ、寺社の維持・運営のための国家的な給付の「代替」として成立してきたのです。例えば、院政期に入り院領荘園が爆発的に増大しますが、それも院や天皇の御願寺(菩提を弔う寺)の造営と仏事の費用として、国家給付の代替を名目に立荘されたのでした。
現行の教科書などでは、荘園はその私有性が強調されることが多いですが、それは公田と荘園を対立的に扱おうという古い考え方によるものであって、実際は、国家による公田支配に基づいて、国家が責任を負わなければならなかった給付の代替として、公田の一部を免田として領有することを認めたものであったのです。
以上から、自由社版の荘園理解の間違いは明白でしょう。まず、「墾田」を「私有地」と理解していますし(47頁)、それを集積した有力農民が税を逃れるために「荘園」として藤原氏らに寄進した(55頁)とも記しています。藤原氏の財政基盤が荘園だったことはありませんし、有力農民が荘園をもつなどということはあり得ない事実です。
このような間違った記述にとらわれず、中学校では、寺社や貴族に対する国家的給付として公田の一部が荘園として認定された、とわかりやすく教えた方がよいと思われます。