自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
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武士の登場と院政(Vol.2)

武士の登場と院政
 
 「 18 武士の登場と院政」 62~63頁
 
ここで学びたいこと

1 武士と武士団 10・11世紀ごろに、各地の有力農民(田堵)が自ら所有していた領地を保護・防衛するために武装したのが、武士の起源と考えられています。その後、朝廷や貴族社会で武力として重用されました。具体的には、朝廷を警備する滝口の武士、皇族・貴族を警備した侍、地方の武力として活躍した押領使・追捕使などが、それにあたります。武士は、一族を中心に次第に武士団を形成していきました。一族の中核の首長、首長の一族すなわち同じ血縁集団にあたる家子、有力な家臣である郎党、さらに一般的な兵力として下人・所従によって組織されていました。やがてこれらの武士団は、天皇の血筋を引く清和源氏・桓武平氏などの貴族と主従関係を結ぶようになり、大武士団が形成されていきます。関東では、当初は平氏が武士団を組織していましたが、1028年の平忠常の乱で源頼信が、さらに前九年の役・後三年の役で源頼義・義家父子が活躍すると、源氏と主従関係を結ぶ武士が増加しました。

2 院政 11世紀後半、摂関家と外戚関係のない後三条天皇が即位すると天皇が直接政治を行う親政を開始しました。この政権では、延久の荘園整理令が制定され、近年成立したものや成立が不明確な荘園が停止され、一時的に荘園の数は減少し、荘園を重要な経済源としていた有力な貴族・寺社などの荘園領主は打撃を受けました。さらに白河上皇により院政が開始されました。天皇を退位した上皇や法皇(上皇が出家)という規制の少ない立場で政治を行うことを院政といいます。この政権では、独自の役人を組織して(院司)役所を設け(院庁)、さらに武力を持ち(北面の武士、後に西面の武士も加わる)、命令・決定などを伝達する文書(院宣・院庁下文)を発給して効力を示しました。多くの荘園が寄進されるなど豊かな経済力ももちました。なお、院政の開始以後も、摂政・関白という役職は存在しましたが、以後政権を掌握することはほとんどありませんでした。


3 東アジアの変化 10世紀は東アジアに大きな変化が起こりました。中国では唐が滅亡し、960年に宋が建国しました。宋は、11世紀後半までに数度にわたり日本に朝貢をすすめ、また宋の商人も博多などに来航しました。日本側からの貿易が活性化するのは12世紀以降です。また朝鮮半島では、新羅が滅亡して918年に高麗が建国しました。この国号は、高句麗の後継者という意味で、朝鮮半島北部を基盤とする勢力が支配したのです。

ここが問題


1 「武士の登場」の部分と「武士の台頭」の部分で時期的な誤解を招く危険があります。とくに「武士の登場」は「平安時代」としてしか記されていないため、どの時期かよくわかりません。また、「武士の台頭」には、平将門・藤原純友の反乱が記載されているので、「武士の登場」はそれ以前のことのように思えますが、清和源氏・桓武平氏という武士団の形成という11世紀以降の内容を含んでいます。10世紀には滝口の武士などが朝廷・貴族社会において河内源氏などの武士団は組織されていますが、いわゆる大中の武士団は形成されていないので、棟梁・武士団の内容は、「武士の台頭」を含めて考えたほうが生徒は理解しやすいように思えます。東書は「武士の登場」・「武士の成長と院政」と連続で項目をたて、帝国は「武士の役割」の一項目にまとめるなど、連続的に説明している教科書が多くみられます。

2 「白河天皇は、皇位をゆずったのちも、白河上皇として天皇の後ろ楯になり、強力な政治を行った」(62頁17行目)という院政の説明は正しくありません。院政は、「ここで学びたいこと」でも記したように、上皇・法皇という規制が少ない立場で親政を行いますので、天皇の後ろ楯として政治を行ったわけではありません。

3 他の教科書と比べて章だてに不自然さが残ります。自由社は、これらの項目を古代の第4節「律令国家の展開」においています。東書は中世の1、「武士の台頭と鎌倉幕府」、帝国は中世の第1節「武士の世の始まり」が、この節の内容に符合する部分です。武士の誕生の部分については、古代から中世への移行期にあたるという考えが強いため、古代・中世のどちらででも叙述される可能性はありますが、院政は古代に分類されることは、現在ではほとんどありません。中世がいつから始まったという議論に関して、古くは古代は貴族の政治、中世は武士の政治とされ、鎌倉時代から中世と考えられていました。その後、中世を象徴する存在である武士が登場する10・11世紀から中世が始まるという考えも出されました。現在では、諸説ありますが、少なくとも古代国家の制度である律令制が崩壊し、中世的な特質が登場する院政期は中世であると考えられています。したがって、このような章だてはまったくの間違いとまではいえないものの、現在の時代区分とは違う考え方です。

アドバイス
 
* 東書51頁に掲載されている図(僧兵)、武装している集団ですが、武士との違いから質問を始めてみましょう。頭に兜がなく、頭巾をかぶっていることに気づくでしょう。この集団は僧兵であり、院政における天敵ともいえる存在でした。白河法皇の「三不如意」として、つまり権力者の白河法皇でさえ思い通りにならなかった「賀茂川の水、賽の目、山法師」にあげられている山法師とは僧兵のことです。正しくは、山法師とは延暦寺の僧兵であり、興福寺の僧兵は奈良法師と呼ばれました。この2寺が僧兵の中核でした。彼らが院政に敵対できた理由は、延暦寺は日吉神社の神輿、興福寺は春日社の神木という宗教的な権威を持ちだすことで可能になったのです。すなわち、この時代には院政という政治的な力よりも、神仏の力が強く、上皇・法皇にしても対抗策を持てなかったのです。