自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
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鎌倉幕府の武家政治(Vol.2)


鎌倉幕府の武家政治

 「20鎌倉幕府の武家政治」68~69頁

ここで学びたいこと

1 鎌倉幕府の成立 12世紀後半、関東の武士を従えて鎌倉に本拠地をかまえた源頼朝は、朝廷から自立した政権を築いていきます。これが鎌倉幕府です。頼朝は、家来となることを誓った武士を御家人にして、土地をなかだちとした御恩と奉公の主従関係を結んでいきます。そして、平氏との戦いで手柄を立てた御家人には、敵の武士から没収した所領を与え、それとともに一般の御家人の所領をも保障しました。平氏滅亡後の1185年、頼朝は朝廷に迫り、守護・地頭の設置を認めさせ、守護・地頭には御家人を任命します。さらに、奥州の藤原氏を滅ぼし、1192年、頼朝は征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立します。

2 執権政治と承久の乱 頼朝の死後、幕府は将軍が暗殺されるなど混乱が続きました。後鳥羽上皇はこの混乱に乗じて幕府を倒そうとしました。鎌倉幕府は執権として実権をにぎっていた北条氏と北条政子のもとに結集し勝利します。この承久の乱後、六波羅探題が置かれ、朝廷の監視と西国の御家人に対する監督に当たらせます。また、朝廷側についた貴族・武士の所領は没収され、東国の御家人たちを新たにその地の地頭に任じます。こうして西国に東国の御家人が配置され、幕府の勢力は全国に拡大します。一方、公家の政権である朝廷は院政をつづけ西国を足場に国内の統治を続けました。

3 御成敗式目 東国武士が、西国に地頭として派遣されると、現地の荘園領主や農民などとの間で紛争が起こりました。そこで幕府は、紛争の解決の基準や政治の方針を明確にする必要から、51か条からなる御成敗式目を制定しました。この式目は、律令とは異なる最初の武家独自の法典です。最初の2条は神社・寺院の修理や神事・仏事の保護のことで朝廷の法と同じ内容ですが、律令とは異なる内容のものもあります。3~5条は守護・地頭の職権について定めているなどです。この法律の効力は武家のみに及ぶとされていますが、地頭と荘園領主との争いが幕府の裁判で行われるようになったので、公家にも武家法が次第に及ぶようになります。


ここが問題

1 68頁1~3行目「平氏滅亡ののち、源頼朝は朝廷の承認を受けて、地方の国ごとに守護を、荘園や公領には地頭を置いた」と記述していますが、「平氏の滅亡後、義経が頼朝と対立すると、頼朝は義経をとらえることを口実に朝廷に強くせまり、国ごとに守護を、荘園や公領ごとに地頭を置くことを認めさせ」(東書52頁)という記述の方が事実を的確に表現しています。事実は次の通りです。
1185年、頼朝は北条時政を軍勢1000騎とともに京都に送り、源義経に頼朝追討を命じた後白河法皇の責任を追及します。朝廷はやむなく義経追討の宣旨を出しますが、時政はそれでは不十分として、守護と地頭の設置、1反につき5升の兵糧米を徴収することを認めさせます。

2 69頁9行目「後鳥羽上皇は隠岐(島根県)に移された(承久の乱)」とあります。頼朝は伊豆へ「流された」(70頁)ですが、天皇のみ「移された」としています。なぜわざわざ区別した言葉を使うのでしょうか、「流された」と記述するのが一般的です。

3 69頁12行目「こうして、武家の勢力は大きく拡大したが、朝廷の力はまだ強く、幕府は朝廷をないがしろにすることはできなかった」。これは不正確な記述です。承久の乱後、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇はそれぞれ配流され、乱の直前に即位した天皇は廃されて、後堀河が天皇になります。また、朝廷の軍事指揮権が失われ、幕府に一元化されます。そして朝廷は幕府の意向に考慮しつつ政治を行うようになります。

アドバイス

1 源頼朝は、後白河法皇の病死後に念願の征夷大将軍に任命されたといわれてきましたが、実は頼朝が望んだのは「征夷大将軍」そのものではなく、武士社会で「将軍」よりも勝る権威としての「大将軍」であったということが、近年の研究でわかってきました。結局、この頼朝の申し出を受けた朝廷は、「大将軍」にふさわしい官職としていくつかの候補の中から、坂上田村麻呂の「征夷大将軍」が最も縁起が良いということで、征夷大将軍に任じたのです。

2 後鳥羽上皇が幕府に対して挙兵した時、尼将軍北条政子が鎌倉の武士たちにうったえた次の言葉が、承久の乱の授業で活用できます。御恩と奉公の主従関係を理解する教材にもなります。
「みなの者、よく聞きなさい。これが最後の言葉です。頼朝公が朝廷の敵をたおし、幕府を開いてこのかた、官職といい、土地といい、その恩は山より高く、海より深いものでした。みながそれに報いたいという志はきっと浅くないはずです。名誉を大事にする者は、京都に向かって出陣し、逆臣をうち取り、幕府を守りなさい。」(吾妻鏡、東書53頁から引用)。

3 御成敗式目が御家人の権利・義務をまとめたものであることや、武士の慣習をとりいれたものであることを理解するためには、自由社版69頁の掲載例以外に、以下の条文を補う必要があります(一部を要約したもの。帝国57頁より引用)。
・諸国の守護の職務は、頼朝公の時代に定められたことは、守護の国内の御家人を京都の警備にあたらせること、謀反や殺人などの犯罪人をとりしまることである。それ以外の職務を行うような慣例に外れたことは、行ってはならない(3条)。
・武士が20年をこえる間、実際にその土地を支配していれば、慣例どおりその支配を認める(8条)。
・女性が養子をむかえる事は、律令では許されないが、頼朝公の時代から今日まで、子のいない女性が土地を養子にゆずることは、武家社会のしきたりとしてかぞえ切れない(23条)。