自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
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平安京と摂関政治(Vol.2)


平安京と摂関政治

「16平安京と摂関政治」54~55頁

ここで学びたいこと

1 律令国家の立て直し 奈良時代には天武天皇の子孫が天皇となりましたが、それが途絶え、天智大王の子孫で母親が渡来系貴族の出身の桓武天皇が即位することになりました。桓武はこのようなこれまでの天皇と異なる出自から新しい王権を作ることを目指します。そのために長岡京ついで平安京へと都を移し、東北地方を制圧する戦争などを行います。この2つは「軍事と造作」といわれ、桓武の2大事業とされますが、いずれも自己の王権を権威づけ、正当化するために行われたと言われています。またこの教科書で「反乱」とされる蝦夷の戦いは桓武による制圧に対する抵抗であった点や蝦夷の抵抗に桓武軍は一時大敗したこと、それくらいの力を蝦夷が持っていたこともあわせて教えたいところです。

2 摂関政治 桓武天皇の後も平安前期には律令制の建て直しが図られましたが、この時期藤原氏(北家)は天皇の秘書的役割を果たすなどして天皇と結びつき勢力を伸ばしました。その藤原氏が天皇と婚姻関係を結び、他の貴族を退けるなどして平安中期に展開したのが摂関政治です。摂政とは天皇が幼少などの時に天皇の権限を代行するもので、関白は天皇の決裁などを補佐する役職のことです。藤原氏は自分の娘を天皇の后として送り込み、生まれた子を天皇とし、外戚(母方の親戚)としてその天皇の摂政や関白となっていったのです。摂関政治の全盛期は11世紀前半、藤原道長・頼通親子の時代です。

3 公領と荘園 律令制で導入した班田収授制は、男子を税負担のない女性として戸籍に偽って登録する偽籍や、税を逃れるため土地を離れる逃亡など、民衆の抵抗が相次いだため行き詰まり、10世紀初頭を最後に行われなくなります。そのため政府は平安時代中期に地方支配や税の取り方を変更します。国司に中央政府への税納入を条件に国内支配の大幅な権限を与えたのです。律令制では戸籍によって一人一人を把握して税をとっていました。しかし国司はそのような方法を変更し、有力農民に土地経営を行わせ、その面積をもとに徴税するように変えたのです。こうすることにより国司は有力農民さえ把握しておけば税が徴収できるようになったのです。このようにして国司が支配する土地を「公領」といいます。平安中期、摂関政治期の土地支配としてはこの点をしっかりと教えましょう。教科書では荘園(貴族や寺社の私有地)の話も出てきます。摂関政治期にも荘園はありましたが、まだこの段階では重要ではありません。荘園については摂関政治に続けて教えるのではなく62頁の「武士の登場」の話をした後に扱うのがよいでしょう。

  さて、その荘園が重要になるのは次の院政期、平安後期です。平安中・後期になると農業技術の進歩もあって土地の開発が進展します。こうした開発地は国司に掌握されて公領に組み込まれていきますが、中には上級貴族や大寺社の庇護下に入って税免除の特権を受けようとするものも現れます。こうして生まれるのが荘園です。荘園が増加しだした頃、後三条天皇による荘園整理政策が行われます。それは一定の効果がありましたが、手続きなどが整った荘園は認める面もあったため、後三条天皇以後も荘園は増えていきます。特に律令制が行き詰まって以来、上級貴族や大寺社の方も独自の財源を得る必要が出てきます。そこで開発地などを探しだし、それらの土地を核に、己の権威によって周辺の大きな領域を囲い込んで荘園を設立するようになります。こうして荘園設立は、平安後期、白河院政期後半から鳥羽院政期にかけてピークを迎えていくのです。


ここが問題

1 54頁8行目「桓武天皇は、強い指導力を示して…政治の改革を進めた」とあり桓武天皇の指導力やその業績などが評価されています。確かにそれ自体はあやまりではありませんが、評価としては一面的です。桓武が遷都や蝦夷との戦いを行ったのも母が渡来系氏族出身という地位の弱さを払拭し、自身の権威を確立するためだと指摘されています。桓武は地方政治のとりしまりや農民の負担軽減などの改革を行いましたが、一方でこの二大事業によって民衆を苦しめたことも見落としてはなりません。なお、この教科書には記述がありませんが、桓武は平城京から長岡京へ遷都し、その後平安京へ遷都したことも押さえておきましょう。

2 55頁1行目「律令国家が立て直され、天皇の権威が確立してくると、天皇が直接、政治の場で意見を示す必要が少なくなった」とあります。摂関政治の項に書かれたこの一文は、“だから藤原氏が代理をする摂関政治になったのだ”と誤解させる恐れがあります。摂関政治が始まったのは「天皇の権威が確立」したからでも「政治の場で意見を示す必要が少なくなった」からでもありません。摂関政治下であっても政策の最終決定者は天皇であり、その天皇が幼少で決裁できないから摂政が必要になったのです。成人天皇が政治的判断をするからこそ補佐する関白が必要なのです。摂関政治期の天皇が政治的発言をしていることは当時の貴族らの日記を見ていただければすぐにわかることです。

3 欄外「ここがポイント」では「桓武天皇の改革のあと、藤原氏はどうやって政治の実権を握ったのか?」の答えとして「財源としての荘園」をあげていますが、事実認識として誤っています。摂関家領荘園が整備されるのは院政期です。道長や頼通時代には一定の荘園を所有していましたが、それのみが財源ではありません。また藤原氏が政治の実権を握って摂関家としての権威を持ったからこそ荘園を所有するようになったのであり、荘園を持っていたから実権を握ったわけではありません。

アドバイス

1 平安時代は400年続く長い時代です。律令制を再編する前期、摂関政治の中期、院政や武士の活躍する後期と3期に分けて教えるとわかりやすくなります。

2 藤原氏が荘園を持ち、摂関政治期に荘園があったことは事実です。しかし荘園が増え、大きな意味を持つようになるのは院政期以降です。その点も教えておきましょう。