自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
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大化の改新と白村江の戦い・壬申の乱 (Vol.2)


大化の改新と白村江の戦い・壬申の乱 

 「11 遣唐使と大化の改新」,「12 日本という国号の成立」38~41頁

ここで学びたいこと ※天皇号がない時期は天皇を大王、皇子を王子と表記しています。

1 7世紀半ばの東アジア情勢 朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済の対立に唐が介入するという激動の時代の中で、3国がいずれも権力の結集をはかっていきました。この時期、倭も権力を結集し、国力を充実させる政治への気運が高まりました。

2 大化の改新 645年6月、中大兄王子や中臣鎌足らが、宮中で蘇我入鹿を斬殺し、屋敷にこもったその父蝦夷(えみし)も自害して蘇我本家は滅亡しました。皇極大王(女帝)から位を譲られて(初めての譲位です)即位した孝徳大王は、唐から帰国した学者や僧を顧問として改革に乗り出し、翌年正月には、改革の方針が示されたとされています。この改革をその時つくられたという年号から(「大化の改新」)と言います。ただし、その内容が実現するには、大宝律令の成立まで、その後50年ほどかかりました。

3 白村江の敗戦 660年、唐と新羅の連合軍が百済を滅ぼしました。百済復興のため送られた倭国軍は、中央・地方の豪族軍の寄せ集めで統制もなく、663年に朝鮮南西部の白村江で唐の水軍に惨敗しました。中大兄王子は、唐・新羅の侵攻に備えて九州北部などに水(みず)城(き)や山城を築かせ防人を配置して守りを固める一方、国内改革に乗り出していきます。

4 天智朝の改革 中大兄王子は667年に都を近江(今の滋賀県)の大津に移し、翌年、大王に即位し、はじめての全国的な戸籍制度をつくるなどの国内改革を進めました。

5 壬申の乱 671年末に天智大王が亡くなると、その後継ぎをめぐって、天智の息子大友王子と弟大海人(おおあまの)王子(おうじ)が対立しました。672年6月、大海人王子は危険を察して美濃国(今の岐阜県)に脱出し、東国の豪族の兵などを集めて近江朝廷に反乱を起こし、約1ヶ月の激戦の末勝利をおさめました。この乱をその年の干支から壬申の乱と言います。

6 天武朝の改革 大海人王子は即位して天武天皇となり、乱に勝利した実力を背景に、豪族の私有民の廃止、令の編纂、歴史書の編集などを実施し、天皇を中心とする強力な中央集権国家づくりを進めました。



ここが問題

「大化の改新」については、天皇中心の国家をめざした偉大な改革、明治維新の原型をなす歴史的改革であると戦前国定教科書は教えてきました。このイメージは現在でも残っているとも考えられます。そこで以下、この時期に関して、事実に基づく歴史教育をするために、注意すべき問題点をあげてみます。

1 蘇我氏は「横暴」か? 7世紀半ばの東アジア情勢を受けて、倭でも権力結集が模索されます。643年に蘇我入鹿が山背大兄王子一族を滅ぼした事件もその一環といえるでしょう。蘇我入鹿は古人大兄王子を立てて改革を進めようとしていたと考えられ、これを「蘇我氏の横暴」とするのは後に権力を握った側の見方といえます。ただし、山背大兄王子滅亡事件は、前年高句麗で宰相の泉蓋蘇(せんがいそ)文(ぶん)が国王や大臣以下百余人を惨殺して権力結集を実行した事件を連想させ、倭の豪族層の蘇我氏支持を減少させた可能性はあります。

2 乙巳(いつし)の変 蘇我氏本家を滅亡させた事件を乙巳の変といいます。『日本書紀』は中大兄王子と中臣鎌足を主人公に描いていますが、直後に即位した孝徳大王(軽王子)が主人公であるとする異論もあります。いずれにせよ、孝徳や中大兄を中心とする新たな権力結集が行われたと見るべきでしょう。

3 改新の詔(みことのり) 646年元日に出されたという改革の基本方針です。この時期には使われていない「郡」などの表記(7世紀には「評」)があることなどから、『日本書紀』に記されているままの詔がこの時に出されたとは現在では考えられていません。元の詔を8世紀の『日本書紀』編纂者が修飾したとする説と8世紀の支配層が『日本書紀』の中で詔を創作したとする説(「大化の改新」否定説:改革は天武・持統朝以降に実現)などがあり、論争の明白な決着はついていませんが、改革が長期にわたる過程だったことは4のようにわかってきています。なお、自由社の教科書では「大化の改新」のところに「独自の年号を定めて使用し続けた」と書いてありますが、年号が連続して使用されるのは大化からではなく、8世紀の大宝以降のことです。

4 律令体制の形成 改革の中で、孝徳朝に行われたと現在考えられているのは行政区画の評の設定です。しかし、国評(郡)制として機能するのは、早くとも壬申の乱後の天武朝以降になります。他に、全国的戸籍の作成は白村江の戦い後の670年の庚(こう)午(ご)年(ねん)籍(じゃく)、豪族の私有民の廃止は天武朝、宮都の形成は持統朝など、徐々に改革がなされていきます。律令も、白村江の戦い後の天智朝に近江令(不存在説もあります)、壬申の乱後の天武・持統朝に飛鳥浄御原令が制定され、大宝律令で一応の完成をみます。このように、1つの事件だけではなく、乙巳の変、白村江の戦い、壬申の乱という大きな出来事の後に改革が進んでいくのが日本(倭)の律令体制形成の特徴といえます。

5 「日本」の国号と「天皇」号 自由社の教科書では、「日本」の国号使用は天武・持統天皇のころとし、「天皇」号使用は推古朝としています。「日本」については通説ですが、「天皇」号は、669年(天智8年)までの遣唐使で使われた形跡がなく、一方で、飛鳥池遺跡から「丁丑年(677年、天武6年)十二月」の干支を記した木簡とともに「天皇」と記した木簡が発掘されていることから、天武天皇のころとするのが有力です。このように、「日本」号と「天皇」号はほぼ同時期に使用され始めたと考えられます。

アドバイス

1 この時期の改革は、聖徳太子の理想を受けつぐとか、蘇我氏の横暴を抑えるという理由で行われていったのではなく、次々に起こる東アジアの動乱、国内の内乱に対応しつつ行われていったと考えるべきでしょう。

2 改革を進めるためにどのように権力結集をしていったのかを調べ、古代の天皇制の性格について考えてみましょう。また、その改革がいつ実現したかを調べ、そこからその改革の持つ意味を考えてみましょう。