自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
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蘇我氏と厩(うまや)戸(との)王子(おうじ)の政治(Vol.2)


蘇我氏と厩(うまや)戸(との)王子(おうじ)の政治

「09聖徳太子の新しい政治」,「10遣隋使と「天皇」号の始まり」34~37頁

ここで学びたいこと ※天皇号はまだ使われていないため、後の天皇は大王、皇子は王子と表記しています。

1 隋・唐帝国の成立と東アジア 6世紀末から7世紀にかけ中国で隋・唐帝国が成立し、律令制度や税制を整えて強大な国家を建設したことは東アジア諸国に強い影響を与えました。朝鮮では百済や新羅が力を強め、倭国も新しい東アジア世界に対応するとともに、中国の進んだ制度や文化を吸収して、改革を進めようという気運が高まりました。

2 蘇我氏・厩戸王子・推古大王 蘇我氏は中国や朝鮮からの渡来人の知識と技術を活用して勢力を強め、馬子の時代に対立する物部氏を倒して権力を拡大しました。馬子と対立した崇(す)峻(しゅん)大王(おおきみ)※が殺害され、その後に即位した推古大王(女帝)のもとで、厩戸王子(聖徳太子)、大臣の馬子が政治改革を行いました。

3 国内政治の改革 国内政治では、「冠位十二階」の制度を始め、家柄にとらわれず、能力や実績に応じて役人を登用しようとつとめたといわれます。また、仏教や儒教などの精神を取り入れた「十七条の憲法」を定めて、政治の理想を示し、役人の心得を説いたとされています。

4 遣隋使 外交では、小野妹子らを遣隋使として中国に派遣し、隋との対等な国交をめざしたとされています。607年の遣隋使では、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」という倭王の国書が、唯一の「天子」を自認する隋の皇帝煬(よう)帝(だい)をおこらせましたが、東方の高句麗と対立していた隋は、翌年小野妹子に隋の使節をつけて倭に帰国させました。


ここが問題

「聖徳太子」について、自由社の教科書は、戦前からの伝説的な聖徳太子像、つまり天皇中心の政治をめざし、「大化の改新」の出発点となる様々な改革を行い、中国との対等外交を実現した偉大な政治家であるということを4ページにわたって描いています(他社の教科書は1,2ページです)。 しかし、「聖徳太子」については研究がすすみ、宗教と政治の両面にわたって実在の「厩戸王子」の姿はしだいに明らかになってきています。以下、「伝説」ではなく事実に基づいて歴史を教えるために注意するべき点をあげてみます。

1 聖徳太子より厩(うまや)戸(との)王子(おうじ) 「聖徳太子」という呼び名の初出は、751年成立の漢詩集『懐風藻』です。それは信仰の対象としての評価をともなった名前で、彼は日本仏教の開祖であり守護者であるとされています。「聖徳太子」の史実としての名は、厩(うまや)戸(との)豊(とよ)聡(と)耳(みみの)皇子(おうじ)の名からさまざまな美称を取り除くと、厩戸王子が妥当だといわれます。「厩戸」は「うまやど(・)」ともいわれます。

2 厩戸王子と蘇我氏の関係 皇室と蘇我氏の系図(34頁)をもとに確認してみましょう。厩戸王子は蘇我馬子の甥の用明大王と姪の穴(あな)穂部間人(ほべのはしひと)王女(おうじょ)との間の子です。蘇我馬子は572年から627年まで大臣(おおおみ)を務めた実力者で、587年にはライバルの物部守屋一族を激戦の末に倒しました。そのとき数え年14歳の厩戸王子は蘇我氏の軍勢の一員として戦っています。両者の親族関係、年齢差からいって、推古朝に厩戸王子が政治を主導できたかどうかは疑わしく、『日本書紀』ではすべての業績を厩戸王子のものにまとめてしまった可能性もあります。近年は、推古大王(女王)の政治力も高く評価し、馬子と厩戸王子との3者による共同統治という見方も強まっています。

3 「冠位十二階」の実態 実は、『日本書紀』もこの制度を厩戸王子が実施したとは書いていません。その内容も、冠位が出身氏族に関わりなく個人に与えられ、実績によって昇進していくという点で画期的であり、当時の中央集権化への第一歩と言えますが、この冠位(官位)は後の律令制では正四位以下の中下級官位にあたることがわかっていますし、授与されたと確認できるのは、畿内とそのごく周辺に住む数十名にすぎません。一方「有力な豪族」である蘇我氏には冠位は授与されませんでしたが、上位の「役職をしめ」ていました。このことから蘇我氏は冠位を授与する側にいたと考えられます。また、近年の古代服飾史研究によると、当時紫冠は大臣位の冠であり、それより下位の大徳の冠色が紫であるという従来の説は成り立たず(35頁左上図)、帝国や東書は色については書いていません。さらに、冠位には外交関係の中で身分・序列を明示するという機能があったことも注目しておく必要があるでしょう。

4 「十七条の憲法」の成立の経過と内容 どの教科書も『日本書紀』にしたがって、厩戸王子がこれを定めたとしています。しかし、「国司」など後世の用語が使われていることから、推古朝の原史料を潤色・加筆したという説や『日本書紀』編纂の過程で儒教・仏教・道教などの外来思想を咀嚼して作られたという説などの論争が続いてきました。『日本書紀』本文の語句や文章の漢文としての誤用が「十七条の憲法」と共通することから、その編纂が開始された天武朝以降に書かれたという説も出されています。推古朝原史料説では、対外的な必要性から、冠位や宮と合わせて国内体制の整備が迫られたものと考えます。以上のような考えからいって、自由社の教科書が「和を重視する考え方は、その後の日本社会の伝統となった」と書くことには飛躍があります。

5 遣隋使は「天皇」号を名乗ったのか 自由社の教科書は、第3回の遣隋使が推古大王の「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」(『日本書紀』)という手紙を隋の皇帝に渡したのが「天皇」号使用の始まりで、「皇帝」に対して対等な立場を表明したとしています。しかし、中国側(『隋書』)に裏付ける史料がなく、1,2回の遣隋使については「倭王」と表記し、男性と認識している点も『日本書紀』と一致しません。この時点での「天皇」号使用には確実な証拠が乏しいと思われます。むしろ、倭は朝貢しつつ臣下にならないことを望み、隋もそれを認めたという点が、当時の国際関係を考える上で重要だといえるでしょう。

アドバイス

1 推古朝の改革は、中国・朝鮮などの東アジア諸国を意識して行われたものが多いことが指摘できます。当時の倭国を東アジア世界の中に位置づける視点を重視しましょう。

2 「聖徳太子虚構説」を知らなくとも、万能の聖徳太子像に疑問を持つ生徒はいます。中学生の発達段階にふさわしく、事実を確かめる科学的態度で、厩戸王子の具体的な事績を調べ、当時の時代的背景の中で考えさせましょう。