自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
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コラム 教科書の中の間宮林蔵と間宮海峡(Vol.2)

コラム 教科書の中の間宮林蔵と間宮海峡

日本では韃靼(タタール)海峡とよばれた? 間宮林蔵について、自由社の教科書では、樺太を含む蝦夷地の大がかりな実地調査を行い、樺太が島であることを発見した人物と説明し、「樺太と大陸をへだてる海峡は間宮海峡と名づけられた」(132頁)ことを紹介しています。「間宮海峡」という名称は、いつ頃から使われたのでしょうか。
 間宮林蔵は、常陸(ひたち)国(のくに)筑波(つくば)郡(現在の茨城県)の農家の家に生まれますが、幼い頃から数学的才能に秀で、伊能忠敬の教えも受けて測量術を学び、幕府役人に随行したり幕命を受けたりして幾度も蝦夷地の調査に携わった人物です。彼はシーボルト事件の発端となった人物ともいわれていますが、皮肉なことに、カラフト―大陸間の海峡を間宮海峡と名付けたのはそのシーボルトでした。シーボルトは、カラフトと大陸の間の広い範囲をタタール(韃靼(だったん))海峡と表記。その最狭部をマミヤノセト(間宮海峡)と名づけ、これによって間宮の名前は世界に知られるようになったのです。
 しかし、間宮海峡の名称が世界に紹介されたにもかかわらず、日本では、カラフト―大陸間の海峡は、ながく韃靼海峡と呼ばれていました。近代以降、海図作成は海軍水路部(現在の海上保安庁海洋情報部)が行っていますが、その作成海図をみると、1895(明治28)年には韃靼海峡(STRAIT OF TARTARY)と記され、間宮海峡の名はなく、最も狭い部分の以北は黒龍海湾となっています。この表記は1901(明治34)年版・1904(明治37)年版でも踏襲されていました。日露戦争時に出版された『日露戦争地図』、『征露最新早見地図』なども韃靼海峡と書かれています。では、この海峡はいつから間宮海峡とよばれるようになったのでしょうか。

 
国定教科書に描かれる林蔵 海峡名の変遷をみるまえに、近代以降、間宮林蔵という人物がどのように評価されていったかを少し見ておきましょう。間宮の「海峡発見」の業績が知られ始めると、1893(明治26)年には、東京地学協会が林蔵への贈位を宮内大臣に申請しているように、間宮は次第に注目され始めます。ただし、実際に林蔵に正五位が贈られたのは、日露戦争直前の1904(明治37)年4月22日、すなわち日露戦争開戦2ヶ月後というタイミングでした。
 一方、同年4月からは、全国の小学校で国定教科書の使用が始まります。国定教科書の中で林蔵は、「樺太は大陸の地続きなりや、又は離れ島なりや、…その実際を調査して此の疑問を解決したる人、遂に我が日本人の中より現れぬ。間宮林蔵これなり。…」(1918(大正7)年刊の第三期及び第四期国定教科書・尋常小学国語読本第十七課)と、苦難を乗り越えカラフトが離れ島であったことを見極めた国民的ヒーローとして描かれます。
 ところが1943(昭和18)年になると、「『ロシヤの国境まで、奥地を探検するのが、風雲急なこの時勢に、自分に与えられた使命ではないか』そう思うと…。途中の苦しみはこれまでにも増して、たとえようのないものでした。しかし林蔵は生死をこえて、ただ国をおもうのまごころから、外敵におかされようとしていた北辺の守りのために、身を投げ出したのでした」(第五期国定教科書・修身)と変わります。教科書が発行された1943年は、まさにアジア太平洋戦争の真っ最中。林蔵は、少国民である子どもに、北方での戦争のために命を投げ出すように教化する格好の教材とされたのです。日本が南方で苦戦する一方、対ソ防衛も意識している事情を反映しているのでしょう。

 
間宮海峡と呼ぶようになったのはいつ? では、海峡の名前はどうなったのでしょうか。日露戦争時までの海図や一般の地図では韃靼海峡だったのですが(前述)、1907(明治40)年になると、間宮海峡(Strait of Mamiya)となり、これが1915(大正4)年版以降も受け継がれます。つまり、韃靼海峡から間宮海峡への転換は1904~07(明治37~40)年に起こり、同じ変化は、小学校で使われる地理図にも起きています。
 もともとカラフトは明治維新期には日本とロシアの雑居地でした。1875(明治8)年、樺太・千島交換条約により日本は樺太を手放しましたが、1905年、日露戦争の勝利によって、日本は樺太の南半分の領有権を手に入れました。多大な犠牲を払った代償として南樺太領有を当然とする意識が高まるのと同時に、地図上でも、韃靼海峡ではなく間宮海峡の名を使うことになったのです。日本の帝国主義的進出が間宮海峡の名称を生んだともいえるでしょう。一見古く見えますが、自由社教科書の林蔵の肖像画も、実は1910年に描かれた図です。

間宮林蔵から学ぶこと では、現在の私たちが間宮林蔵の足跡から学ぶべきことはいったい何でしょうか。林蔵の功績は、当時ロシアの勢力圏であると考えられていた樺太北部の先住民が清に朝貢し、その役人として山丹貿易(中世以来のアムール川流域と樺太・蝦夷地との交易。1809年からは江戸幕府が直轄した)を先住民が進めていたことを確認し、アムール下流から樺太までの地図(樺太の北・東部は未踏のため不正確)を完成させ、樺太島を確認したことなどでしょう。そして、この仕事は樺太アイヌのサポートやノテトのギリヤークの長コーニらが行っていた山丹交易なしには考えられませんでした。林蔵の歩いた道そのものが山丹交易ルートなのです。国定教科書も自由社も林蔵を取り上げながら、日本とロシアの関係のみに注目し、そこに住むアイヌをはじめとする先住民の人びとは目に入っていません。また、間宮海峡という地名一つをみても、そこには近代日本の「国民」形成のしくみが透けて見えます。自由社教科書が無自覚に露わしている問題は、同時に私たちにも大切な問題をなげかけているといえるでしょう。