自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
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今日、二宮尊徳を取り上げるならば(Vol.1)

今日、二宮尊徳を取り上げるならば

                                  教科書115


 3章「近世日本の歴史」の第3節「産業の発達と三都の繁栄」には、「歴史のこの人」の欄で二宮尊徳が取り上げられています。この節は元禄時代を扱っているので、尊徳の生きた時代(17871856)には合致しておらず、特定の人物を通して当該の時代を理解させようとするなら、適切な人物選定ではありません。のみならず、「金次郎が生まれた天明年間」と記しながら、その前段では「幕末の頃に、今の神奈川県の小田原近くの農家に生まれた人物」としており、これでは生徒は天明年間以降を「幕末」と理解してしまいます。歴史教科書の記述としてはあまりにもお粗末です。以上の点からすると、尊徳を通して彼が生きた時代の特質を理解させようとする意図からではなく、多分にイデオロギー的な意図から、節が扱う時代との整合性を無視して尊徳をむりやり押し込んだものと推察されます。




 さて、二宮尊徳は一般的には「二宮金次郎」の名で知られていますが、「金次郎」は幼名で、通常は前近代の男子は成人すると成人名に改めましたが、彼は成人後も金次郎を通称として用いました。一方の「尊徳」は実名(じつみょう)であり、1842(天保13)年に幕府の役人に登用されて翌年から使用しています。正式には「たかのり」と読むのですが、後世の人々に「そんとく」と号のような感じで読み習わされ、語感的にも彼が唱えた「報徳」に対応していることもあって、それが定着してしまいました。


 少年金次郎は、1903(明治36)年に始まる国定教科書では明治天皇に次いで多く登場し、極貧のなかにあって勤倹力行し家を立て直した模範的人物として称揚され、国民教化に利用されました。日露戦争後、軍事大国化が進められ、軍事費の膨張による国家の福祉機能の減退を補うために国民に勤倹自助努力が説かれましたが、少年金次郎はそれを実践した人物として取り上げられたのです。しかも彼は貧農の子として全国いたるところに見られる一般性を備えており、国民に親近感を抱かせやすい人物でした。本教科書でも少年時代の金次郎に主眼を置いて記述されており、昨今の新自由主義が鼓吹する自助努力・自己責任論に合致した人物とみなされたのでしょう。彼が少年時代、刻苦勉励して家を立て直し、その過程で教科書にも記述してある「積小為大」の原理を体得したことは事実です。しかし彼は後年、自家の立て直しに努めた自身の勤行を、安楽に暮らせるようになりたいという私欲しか念頭になかった、と反省をこめて述懐しており、少年時代の行為がもっぱら取り上げられ、国民教化に利用されることは本意ではないでしょう。


 幕藩体制が揺らいだ近世後期には、民間の有能な人材が幕府や藩の役人に登用されることは珍しくありませんでした。金次郎も小田原藩家老服部家に奉公中、その財政再建に敏腕を振るったことなどが小田原藩主大久保忠真(ただざね)に評価され、1822(文政5)年、数え36歳の時に、分家の旗本字津(うづ)家の領地である下野国(しもつけのくに)芳賀郡(はがぐん)桜町(さくらまち)領(栃木県真岡市)の復興を命じられました。これを機に彼は「一家を廃して万家を興す」決意をし、苦労して立て直した自家の田畑・家屋・家財を売り払い、それを資金の足しとして、後半生を荒廃に瀕した農村を復興し「富国安民」を実現することに捧げました。

 18世紀半ば以降、関東と周辺の農村では人口が激減し、田畑は荒れ地と化して荒廃化が進行し、年貢収納量が大幅に低下して領主の財政は危機的な状態に陥っていました。農村荒廃は、①この地域では土地生産力が低かった上に領主から過重な年貢が課されていたこと、②商品貨幣経済の進展によって農民層の階層分化が進み、貧窮化した農民が都市に流出したこと、③気候が全地球的に小氷期に当たっていたため冷害にたびたび見舞われ、飢僅で餓死者や病死者が大量発生したこと、などが複合的に作用して現象したものです。金次郎の指導した桜町領の復興事業は1830年代には一応の成果をあげるに至り、その過程で彼の思想は社会化され、「富国安民」の学として結実する一方、それを実現する方策も体系化されていきました。それを報徳仕法(しほう)とか報徳趣法(しゅほう)といいます。天保の大飢饉を機に金次郎のもとには領主や農民・商人から仕法の依頼が相次ぎ、急速に広まりました。1842(天保13)年には幕府の役人にも登用され、翌年から実名として尊徳を名乗ります。


 仕法の原理をなすのは分度(ぶんど)と推譲(すいじょう)です。尊徳は、各々が自己の分限(ぶんげん)(経済力)に応じて支出に限度を設け、分度を超える収入を相互に推譲して、万民の福利と社会・国家の繁栄、彼の言葉でいえば「富国安民」の実現に寄与すべきことを説きました。彼は富国の基礎は安民にあるという考えから為政者の責任をとりわけ重視し、領主が自らの財政に分度を設け、それを超える収入を窮民救済、荒れ地開発などの農村復興事業に推譲することを強く求めました。一方、農民には自発的な勤労意欲を促し、富裕な農民・商人には「私欲を抑え公利公益をはかる」べきことを説き、余剰を仕法の資金に推譲させました。


 尊徳は、民衆がいくら自助努力しても、国家が福祉機能を果たさなくては民衆の生活は成り立たないと考えており、それ故、国家公権を担う領主の行財政を自ら指導して民の生活安定のための政策を施そうとしたのです。しかし領主は分度を守らず、農村復興に伴う分度を超える年貢増収分を繰り返し安民のために推譲することをしなくなり、財政再建を急ぎ、それに抗議する尊徳を忌避するようになります。尊徳の指導した仕法は多くの場合、領主との対立・確執を招き、途中で撤廃されています。しかし、尊徳の教えを受容した民衆は報徳社を組織し、それを基盤に明治以降、広範な民衆運動として発展していきました。一方、政府も、急激な資本主義化の踏み台とされて疲弊した農村を自力で更生する精神として報徳主義に注目し奨励しました。尊徳自身は国家の福祉機能を最も重視していたのですが、政府の鼓吹する報徳主義はもっぱら国民に勤倹自助努力を説くものに変質させられ、少年二宮金次郎はそれを実践した模範的人物として国定教科書に取り上げられたのです。


 今日、尊徳を歴史教育の教材とするなら、彼の思想と実践の真意と意義を時代背景を踏まえて教え、近代において少年金次郎が国民教化に利用された理由を説明しなくてはならないでしょう。