そこに眠っていた歴史1「日本にも旧石器時代があった!」
前文1~2頁
このコラムには、逆境にめげず考古学への夢を持ち続けた若者が、ついに学界の常識をくつがえして岩宿遺跡を発見した物語が描かれています。しかも発見者の相澤忠洋氏は小学校しか出ていないため、既成の考古学界からはまったく無視されたというのです。生徒たちの興味を引きそうな読み物ですが、事実はどうだったのでしょうか……。
1 皇国史観が支配した戦前
戦前の国定教科書では、日本の歴史は建国神話から始まり、初代天皇とされる神武天皇から順に歴史を叙述していました。1930年代後半からこうした傾向は強まり、日本は万世一系の天皇が統治する世界に類のない神の国であるという「皇国史観」が歴史学界を支配しました。1940(昭和15)年には、『古事記』や『日本書紀』を史料批判して古代史を研究した津田左右吉氏が、著書を発禁処分にされ大学教授の職も追われました。しかし考古学の研究成果から言えば、神武天皇即位の紀元前660年はまだ縄文時代の晩期です。鏡も剣も無い石器時代で、神話に語られる国家統一とはかけ離れた原始社会でした。考古学者たちは神話が史実で無いことはわかっていましたが、皇国史観と正面から対決することはできない中で、地味な土器形式の研究などを続けていました。
2 脚光を浴びた戦後考古学
敗戦は天皇制のタブーを取り去りました。皇国史観は破棄され、神話に代わって土器や石器を資料に自由な歴史研究ができるようになりました。戦争に疲れた国民の間にも、真実の原始・古代の歴史を知りたいという熱い期待がありました。敗戦から2年後の1947年、静岡県静岡市で登呂遺跡の発掘調査が始まりました。調査をしたのは大学の壁を越えて結成された「登呂調査特別委員会」です。発掘の対象は竪穴住居だけでなく、高床倉庫などを含んだ集落址と水田址を合わせた5万坪におよび、弥生時代の農耕集落の全体像を明らかにするという画期的なものでした。乏しい資金や食料のもと、汗と泥にまみれての調査に市民も大きな関心を寄せ、新聞にも連日のように大きく報道されました。この調査をきっかけに1948年日本考古学協会が設立されました。岩宿遺跡の発掘が行われたのはその翌年のことです。日本が戦争に敗れ文化国家への道を模索していた時代は、戦後考古学の発展期でもあったのです。
3 旧石器時代は無いはずなのに?
その頃相澤忠洋氏は海軍から復員し、行商で生活を立てるとともに群馬県の赤城山麓を丹念に歩き、土器や石器を採集し分類整理していました。教科書では、相澤氏が「日本にも旧石器時代の人間が住んでいたはずだ」と信じて、その石器の発見を夢見ていた、(1頁2段2行目)と書いてあります。しかしこれは事実と違います。相澤氏は縄文時代のもっとも古い段階の状況を明らかにしようとして、遺跡を歩き撚糸文(よりいともん)や押捺文(おしがたもん)の土器の出土地点を5万分の1地形図に記録していたのです。当時大勢としては、日本の旧石器時代の存在は否定されていました。したがって相澤氏も「旧石器時代の人間はいないはずだ」という前提で遺跡を巡っていたのです。ところが1946年赤土の崖から細石器とよく似た黒曜石の剥片を採集し、縄文時代早期の石器との違いや、同じ地層から土器片が全く出てこないことに疑問を持ちました。その謎を解明するために更に熱心に赤土の崖に通って観察に努めた結果、ついに槍先形尖頭器(2頁写真)を発見したのです。ためらいながらも東京の考古学者芹沢長介氏に連絡をとり石器を見せると、芹沢氏は強い関心を示しました。考古学者の間でも縄文文化に先立つ時期の文化解明は大きな課題だったのです。ほどなく明治大学考古学研究室の杉原荘介氏を中心に、芹沢長介氏、岡本勇氏の3名の考古学者が岩宿の予備調査にかけつけました。
4 岩宿遺跡の発掘調査
教科書には、「大学から調査隊が岩宿に送りこまれ、一帯をくわしく調査した結果、『日本にも旧石器時代があった』ということが発表された」(2頁3行目)とあります。この記述では、大学の調査隊がくわしく調査したことの内容がわかりません。1949年9月11日から3日間、大学の調査隊は相澤氏が石器を「採集」した岩宿の赤土の地層を、シャベルを振るって掘り下げ、明らかな旧石器である握り槌状の打製石斧と、石器作製の過程で出来る多数の剥片を「発掘」したのです。10月2日から10日までの第1次本調査では2例目の握り槌状打製石斧と、さらに多数の剥片、石核などを発掘しました。地質学者も参加して、縄文時代早期の地層と旧石器の出土する地層との上下関係も明らかになりました。
こうして縄文文化以前の更新世に、岩宿に人類の文化があったことが確定的になったのです。新聞には「日本に1万年以前人間がいたことが実証された」と大きく報道されました。
この年の10月29日京都大学で開かれた日本考古学協会の第4回総会で、岩宿遺跡の発掘について杉原氏が簡単な報告をしました。教科書には「大学の発表には、その発見が相澤の功績であることは全く紹介されなかった。彼がアマチュアであり、しかも小学校しか卒業していなかったことで、完全に無視されたのだった。」(2頁6行目)と書かれています。まるで相澤氏の研究成果を大学が横取りしたような記述です。しかしこの発表を記載した『考古学年報2』(昭和24年度)には調査のきっかけが相澤氏の岩宿遺跡の発見であることが明記されており、明治大学が1956年に発行した報告書『群馬県岩宿発見の石器文化』でも相澤氏の発見が明記されています。相澤氏が発見した石器の地点や地層などの記述もあり、その石器の実測図も写真も載せられていて、決して無視などしていません。
5 相澤忠洋氏の功績
岩宿遺跡の発掘以降、各地で旧石器時代の遺跡が続々と発見され、日本における旧石器文化の存在は不動のものとなりました。相澤氏はその後も明治大学の芹沢氏と協力しあい、数々の研究成果をあげています。「小学校しか出ていないから無視された」というのは作り話です。むしろ一地域の調査を地道に続けてきたアマチュア研究者と、大学の研究者が連携したことによって、考古学界の常識を覆す発見が行われたことが重要です。
旧石器研究の先駆者、岩宿遺跡の発見者としての相澤忠洋氏の功績は讃えられるべきですが、当時の考古学界と対比させて、彼1人を偉人に仕立て上げるような教科書の記述には問題を感じます。