神話を教える視点は?Ⅱ
〔「神武天皇と東征伝承」〕
〔「神武天皇と東征伝承」〕
教科書31頁
1 「大和朝廷」のおこりと「神武天皇」
このコラムは「大和朝廷のおこり」という項目から書き始めています。「朝廷」とは、日本史では、天皇が頂点に立っている政権の庁を指します。この教科書では、単元7で「大和朝廷と古墳時代」と早くも「朝廷」が登場し、次の単元8「東アジアの国々と朝廷」との間にこのコラムが挿入されています。つまり、4世紀を中心とした古墳時代と、4~6世紀の東アジア世界の動乱のなかで古代国家が形成されてくる、その間をまたぐ話として、神武東征伝説が挿入されているのです。しかし、古代史研究の進んだ今日、この時期の日本列島上の権力のありようを「大和朝廷」の語で説明する学者はほとんどいません。
市内で使用されている他社の教科書の記述では、「大和政権」〔東書〕、「ヤマト王権」〔帝国〕を採っていますし、高等学校教科書も、「ヤマト政権」〔山川出版・桐原書店〕、「大和政権」〔実教出版〕、「大和王権」〔東京書籍〕とあり、「朝廷」は使用していません。この時期のヤマト王権を担った王家のすべてが、後の天皇家に直線的に繋がるものではないためと、「神武天皇」はあくまでも神話に連なる人物で、歴史上の天皇ではないからです。なお、「ヤマト」と片仮名表記するのは、現在の奈良地方の地名・国名として「大和」の文字が用いられるのは8世紀半ば以降で、それ以前は「大養徳」・「大倭」などだったこと考慮したためです。
2 ここでは何故『日本書紀』?
ところで、「日本の神話」へのコメントで記したように、「日本の神話」では『日本書紀』を無視していました。が、ここでは「『日本書紀』に収められている神武天皇の物語は」となっています。何故でしょう? これにもハッキリとした理由があるのです。
カギは、左下の「神武天皇の東征」という野田(のだ)九浦(きゅうほ)の絵にあります。この絵は東征神話の内、「手ごわい長髄彦(ながすねひこ)」との戦闘中の話として、「どこからか金色に輝く一羽のトビが飛んできて、尊の弓にとまった。トビは稲光のように光って敵軍の目をくらましました」とある、その金色のトビが尊〔神武天皇〕の弭(ゆはず)に止まったところを描いたものです。長髄彦(ながすねひこ)軍を無力化したこの金色のトビ〔漢字は鵄(とび)で「金鵄(きんし)」〕の話は『古事記』には出てこないのです〔もう1つの奇妙な鳥、「巨大なカラス」はどちらにも出てきます〔『日本書紀』「頭八咫烏(やたのからす)」、『古事記』「八咫烏」(やたがらす)〕。ですから『日本書紀』でないとダメなのです。
3 あらすじの下敷きは「尋常小學國史」上巻
でも、ただ野田(のだ)九浦(きゅうほ)の絵を出したかっただけで『日本書紀』に依拠したのではないでしょう。実は、神武東征神話は、『古事記』よりも遙かに『日本書紀』の方が戦闘場面も多く、「勇ましい」のです。教科書にも、「抵抗する豪族を討ちほろぼし、服従させて」とありますが、原文はもっと生々しく、「軍(みいくさ)〔神武の直属軍〕、名草邑(なくさのむら)に至る。則ち名草戸畔(なくさとべ)といふ者を誅(ころ)す」「〔神武の子の軍は〕因りて丹敷戸畔(にしきとべ)といふ者を誅す」と、次々に諸豪族を殺していくのです。この両場面とも『古事記』にはありません。両書にある話では、敵対して死んだ豪族に対し、『古事記』では、「すなわち控(ひ)き出して斬り散(はふ)りき」と、サラッと書いたのに対し、『日木書紀』では「時に、その屍(かばね)を陳(ひきいだ)して斬る、流るる血躁(つぶなぎ)を没(い)る〔血でくるぶしのところまで埋まった〕」と、おぞましいほどの記述なのです。
このコラムの筆者は、両書を比較し、わざわざこの生々しくおぞましい『日本書紀』を選んだのでしょうか? まさかそうではないでしょう。実は、この「あらすじ」も、戦前教科書『尋常小學國史』上巻の、ほとんどそのままの焼き返しなのです。金鵄(きんし)が神武の弭(ゆはず)に止まった場面の絵は、副読本の『尋常小學國史繪圖』下巻(昭和16年版)にあります。なんのことはない、「神武天皇と東征伝承」も戦前教科書を復元しただけだったのです。
4 「金鵄」と戦争
では、その戦前教科書は、どんな目的で『日本書紀』に則った神武東征神話を、小学生に教えようとしたのでしょうか? それはもう火を見るよりも明らかでしょう。おぞましくも、迷わずに敵を倒し、怯むことなく進む、勇ましい神武東征の話こそが、軍国主義の時代に相応しかったからです。この『日本書紀』神武東征神話にあった「金鵄」の話から、「金鵄勲章」なる勲章が作られ、「軍功」を立てた軍人軍属に与えられました。戦争を拡大する度に金鵄勲章受章者は急増し、日中戦争で約19万人、太平洋戦争では約62万人にも授与されました。そして、敗戦の気配が濃厚となった最終時期には、この神武東征神話に、何度も出てくる敵打倒の歌謡からとった「撃(う)ちてし止(や)まむ」〔討って滅ぼしてやる〕をスローガンに、国民を戦争に駆りたてていったのです。
5 神武天皇は古代日本人の理想像?
このコラムの結びは、「大和朝廷がつくられるころ〔4~6世紀の政権呼称として「朝廷」が不適切であることはすでに述べました〕に、すぐれた指導者がいたことは、たしかである」と書き出しています。たしかに、諸豪族が各地に割拠していた状況から、諸豪族を屈服させ、その上に立つ権力が樹立されるには、知恵もあり、壮健にして勇猛な覇者(はしゃ)が存在したに違いありません。しかし、その覇業(はぎょう)には、『日本書紀』にあるように、「則ち誅(ころ)し」を繰り返し、「流るる血で踝(くるぶし)までもが埋まる」ほどに「屍(しかばね)を斬る」ような残虐な行為もあったことでしょう。このコラム筆者は、これをもっても、「古代日本人が理想をこめてえがきあげたのが、神武天皇の物語だった」と主張するつもりでしょうか? 私たちの祖先、古代日本人の理想が、それほどに無慈悲なものであるはずがありません。どうやら、「『日本書紀』に収められている神武天皇の物語は」と書き始めながら、このコラム筆者は、『日本書紀』巻第3 「神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)」を読んだことがないようです。戦前に行われた教育は、歴史を教えようとするものではなく、国策に忠実なだけであったことに、気づいて欲しいものです。