自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
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神話を教える視点は?Ⅱ〔「神武天皇と東征伝承」〕(Vol.1)

神話を教える視点は?Ⅱ
〔「神武天皇と東征伝承」〕

                                 教科書31


 この「神武天皇と東征伝承」への批判的コメントの前に、「日本の神話」への批判的コメントをお読み下さい。ちょうど「日本の神話」に書いてある話に続く部分ですので。



1   「大和朝廷」のおこりと「神武天皇」


 このコラムは「大和朝廷のおこり」という項目から書き始めています。「朝廷」とは、日本史では、天皇が頂点に立っている政権の庁を指します。この教科書では、単元7で「大和朝廷と古墳時代」と早くも「朝廷」が登場し、次の単元8「東アジアの国々と朝廷」との間にこのコラムが挿入されています。つまり、4世紀を中心とした古墳時代と、46世紀の東アジア世界の動乱のなかで古代国家が形成されてくる、その間をまたぐ話として、神武東征伝説が挿入されているのです。しかし、古代史研究の進んだ今日、この時期の日本列島上の権力のありようを「大和朝廷」の語で説明する学者はほとんどいません。

 市内で使用されている他社の教科書の記述では、「大和政権」〔東書〕、「ヤマト王権」〔帝国〕を採っていますし、高等学校教科書も、「ヤマト政権」〔山川出版・桐原書店〕、「大和政権」〔実教出版〕、「大和王権」〔東京書籍〕とあり、「朝廷」は使用していません。この時期のヤマト王権を担った王家のすべてが、後の天皇家に直線的に繋がるものではないためと、「神武天皇」はあくまでも神話に連なる人物で、歴史上の天皇ではないからです。なお、「ヤマト」と片仮名表記するのは、現在の奈良地方の地名・国名として「大和」の文字が用いられるのは8世紀半ば以降で、それ以前は「大養徳」・「大倭」などだったこと考慮したためです。



2  ここでは何故『日本書紀』?




 ところで、「日本の神話」へのコメントで記したように、「日本の神話」では『日本書紀』を無視していました。が、ここでは「『日本書紀』に収められている神武天皇の物語は」となっています。何故でしょう?  これにもハッキリとした理由があるのです。
 カギは、左下の「神武天皇の東征」という野田(のだ)九浦(きゅうほ)の絵にあります。この絵は東征神話の内、「手ごわい長髄彦(ながすねひこ)」との戦闘中の話として、「どこからか金色に輝く一羽のトビが飛んできて、尊の弓にとまった。トビは稲光のように光って敵軍の目をくらましました」とある、その金色のトビが尊〔神武天皇〕の弭(ゆはず)に止まったところを描いたものです。長髄彦(ながすねひこ)軍を無力化したこの金色のトビ〔漢字は鵄(とび)で「金鵄(きんし)」〕の話は『古事記』には出てこないのです〔もう1つの奇妙な鳥、「巨大なカラス」はどちらにも出てきます〔『日本書紀』「頭八咫烏(やたのからす)」、『古事記』「八咫烏」(やたがらす)〕。ですから『日本書紀』でないとダメなのです。



3  あらすじの下敷きは「尋常小學國史」上巻


 でも、ただ野田(のだ)九浦(きゅうほ)の絵を出したかっただけで『日本書紀』に依拠したのではないでしょう。実は、神武東征神話は、『古事記』よりも遙かに『日本書紀』の方が戦闘場面も多く、「勇ましい」のです。教科書にも、「抵抗する豪族を討ちほろぼし、服従させて」とありますが、原文はもっと生々しく、「軍(みいくさ)〔神武の直属軍〕、名草邑(なくさのむら)に至る。則ち名草戸畔(なくさとべ)といふ者を誅(ころ)す」「〔神武の子の軍は〕因りて丹敷戸畔(にしきとべ)といふ者を誅す」と、次々に諸豪族を殺していくのです。この両場面とも『古事記』にはありません。両書にある話では、敵対して死んだ豪族に対し、『古事記』では、「すなわち控(ひ)き出して斬り散(はふ)りき」と、サラッと書いたのに対し、『日木書紀』では「時に、その屍(かばね)を陳(ひきいだ)して斬る、流るる血躁(つぶなぎ)を没(い)る〔血でくるぶしのところまで埋まった〕」と、おぞましいほどの記述なのです。

 このコラムの筆者は、両書を比較し、わざわざこの生々しくおぞましい『日本書紀』を選んだのでしょうか?  まさかそうではないでしょう。実は、この「あらすじ」も、戦前教科書『尋常小學國史』上巻の、ほとんどそのままの焼き返しなのです。金鵄(きんし)が神武の弭(ゆはず)に止まった場面の絵は、副読本の『尋常小學國史繪圖』下巻(昭和16年版)にあります。なんのことはない、「神武天皇と東征伝承」も戦前教科書を復元しただけだったのです。



4   「金鵄」と戦争


 では、その戦前教科書は、どんな目的で『日本書紀』に則った神武東征神話を、小学生に教えようとしたのでしょうか? それはもう火を見るよりも明らかでしょう。おぞましくも、迷わずに敵を倒し、怯むことなく進む、勇ましい神武東征の話こそが、軍国主義の時代に相応しかったからです。この『日本書紀』神武東征神話にあった「金鵄」の話から、「金鵄勲章」なる勲章が作られ、「軍功」を立てた軍人軍属に与えられました。戦争を拡大する度に金鵄勲章受章者は急増し、日中戦争で約19万人、太平洋戦争では約62万人にも授与されました。そして、敗戦の気配が濃厚となった最終時期には、この神武東征神話に、何度も出てくる敵打倒の歌謡からとった「撃(う)ちてし止(や)まむ」〔討って滅ぼしてやる〕をスローガンに、国民を戦争に駆りたてていったのです。



5  神武天皇は古代日本人の理想像?


 このコラムの結びは、「大和朝廷がつくられるころ〔46世紀の政権呼称として「朝廷」が不適切であることはすでに述べました〕に、すぐれた指導者がいたことは、たしかである」と書き出しています。たしかに、諸豪族が各地に割拠していた状況から、諸豪族を屈服させ、その上に立つ権力が樹立されるには、知恵もあり、壮健にして勇猛な覇者(はしゃ)が存在したに違いありません。しかし、その覇業(はぎょう)には、『日本書紀』にあるように、「則ち誅(ころ)し」を繰り返し、「流るる血で踝(くるぶし)までもが埋まる」ほどに「屍(しかばね)を斬る」ような残虐な行為もあったことでしょう。このコラム筆者は、これをもっても、「古代日本人が理想をこめてえがきあげたのが、神武天皇の物語だった」と主張するつもりでしょうか? 私たちの祖先、古代日本人の理想が、それほどに無慈悲なものであるはずがありません。どうやら、「『日本書紀』に収められている神武天皇の物語は」と書き始めながら、このコラム筆者は、『日本書紀』巻第3 「神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)」を読んだことがないようです。戦前に行われた教育は、歴史を教えようとするものではなく、国策に忠実なだけであったことに、気づいて欲しいものです。