「赤穂浪士の討ち入り」は、
今も賞賛すべきこと?
今も賞賛すべきこと?
教科書114頁
赤穂浪士の討ち入りは、他の市内採用2社教科書にはありません。他社になくても、歴史学的に正確な記述であれば、先駆的と評価もできますが、果たしてどうでしょうか。
1 赤穂浪士討ち入り事件と「忠臣蔵」
冒頭、「1702(元禄15)年12月14日、赤穂藩(あこうはん)の浪士が江戸の吉良邸(きらてい)に討ち入りし」と記し、いきなり「江戸の庶民の喝采をあびた」と続けたのは、いくら何でも無茶です。これは、事件から半世紀近くたった1748(寛延元)年に、竹田出雲(たけだいずも)作の人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」が初演され、翌年に歌舞伎上演されて大好評を得たことを、事件そのものに対する当時の評価と勘違いしてしまった記述です。あるいは、討ち入り後の泉岳寺(せんがくじ)までの浪士行進に、「庶民が拍手で送る」映画シーンを事実と思って書いたのかも知れません。赤穂事件を教材として扱うには、まずは、虚構と史実とを混同しないことが求められます。
2 史実の展開
朝廷からの勅使(ちょくし)を江戸城に向かえた儀礼の3日目、勅使馳走役(ちょくしちそうやく)の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が指南役(しなんやく)の吉良上野介(きらこうずけのすけ)に突然斬りかかった事件がそもそもの発端ですが、それについて、ただ「吉良にはおとがめなしだった」と書いたために、内匠頭が殿中で斬りつけたことの異常性が伝わりません。叙述順はともかく、まず①城内刃傷(にんじょう)事件の異常性、次に②事件に対する幕府の裁定を伝えなければなりませんが、大切なことは、内匠頭を即日切腹とし、浅野家を断絶とした幕府裁定について、当時は疑義がまったくなかった、ということです。
次に③として、浪士の討ち入りになる訳ですが、この事件が起きたことで、討ち入り行為と、浪士に切腹を命じた幕府裁定とについて、武家や儒学者の間で多くの論争があった事実を掴んでおく必要があります。なぜ論争があったのでしょうか。それは、主君が不当に殺されながら犯人に処罰がなされていない場合に、殺された者の遺臣(いしん)が犯人を討ったのであれば、封建的な倫理にかなった「忠義」な仇討ちと評価されたのですが、この場合はまったく該当しなかったのです。内匠頭が吉良上野介を斬りつけたから切腹となったのに、その吉良を殺害したのですから。しかも47(1人不明で46)人もの集団で、1人の老人を殺害するために屋敷に乱入したわけですから、厳禁の「徒党」にあたるとして、浪士を切腹ではなく処刑にすべし、との論があったのも当然なわけです。
3 歌舞伎「忠臣蔵」の中身
浪士に厳しい意見があったことには目を瞑ったまま、「赤穂浪士に人気があつまったのは」と、「忠臣蔵」の評判で叙述を続けていますので、虚構としての「忠臣蔵」がどのように造られているか、その中身について、少しだけ確かめておく必要があります。
まず、初めから高師直(こうのもろなお)(擬、吉良上野介)はいかにも意地悪そうに、塩冶判官(えんやはんがん)(擬、浅野内匠頭)・国家老(くにがろう)大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)(擬、大石内蔵助)はいかにも善人そうに、解りやすい勧善懲悪調で描かれています。そして大星力弥(りきや)(擬、大石主税(ちから))・小浪(こなみ)・石堂右馬之丞(いしどううまのじょう)・お軽(かる)・勘平(かんべい)などのキャラクターを巧みに配置し、工夫に工夫を重ねた結果、その見事な虚構の世界が、「赤穂浪土の討ち入り」となって史実のように一一人歩きしはじめたのです。
例えば、「忠臣蔵」四段目は、塩谷判官が赤穂藩江戸藩邸を想起させる鎌倉屋敷(鎌倉時代に設定しているため)で切腹する段ですが、由良之助はまだかまだかと待ちかねて腹を切り、突っ伏したところに由良之助が駆け付け、自分の腹を掻き切った小刀を由良之助に渡し、「我が鬱憤(うっぷん)を晴らせよ」と言い遺して息絶える、という大きな見せ場をつくっています。しかし実際の内匠頭は、赤穂にいた内蔵助が駆け付ける筈もない時と場所、刃傷事件の当日に、身柄を預けられていた一関藩(いちのせきはん)江戸藩邸田村屋敷で切腹するだけなのです。
4 元禄時代の風潮と「昔ながらの武士道」
また、評判だった(のは実は歌舞伎ですが)理由を、「金銭万能と思えた元禄時代に、昔ながらの武士道を人々に思い出させたから」と説明していますが、無理解が2つあります。1つは元禄時代を「金銭万能と思えた」時代とする無理解。米納年貢制(べいのうねんぐせい)という社会で、米穀(べいこく)を貴び金銭を賤しむ武士的な価値観が、井原西鶴(さいかく)らによって克服され始めたのが元禄時代で、その後、石田梅岩(ばいがん)らによって、商いの道も道徳に反するものではないといった価値観がやっと市民権を得るのです(1740年代)。金銭万能的思考が社会に蔓延しているといった批判は、もっとずっと後、いわゆる化政期(かせいき)頃(1800~20年代)以降に出てくるものです。
もう1つの無理解は、「昔ながらの武士道を人々に思い出させた」との評価です。「昔ながらの武士道」とは、後の記述をみると、元禄時代には既に廃れていた戦国時代の武士道、主君のためには死を厭(いと)わず死によって主君の家を守る、といった価値観を指しているようです。しかし、元禄文化を代表する近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)らは、義理と人情の板挟みとなった人間の悲劇を描くことで、そうした「主君のために命を捨てる」ような戦国的武士道を批判し、統治責任を担う武士であるべく、町人の立場から注文を付けていたのです。
5 「忠義」と「公」論:「赤穂浪士美談観」の辿ってきた道
このコラム欄に無理な記述が多いのは、赤穂浪士の討ち入りを、「今にいたるまで、日本人の心に深い感銘を与える物語となっている」と、完壁に美談としてしまったためですが、それはまた、人間を君・臣といった身分差別に編成した封建制度においてこそ「美しい」倫理であり得た「忠義」の観念を、今なお肯定的に描いた結果でもあります。
浪士討ち入りを、「主君のためには死を厭わない」美しい行為だと礼賛する動きは、日露戦争後に福本日南(ふくもとにちなん)が『元禄快挙録(げんろくかいきょろく)』を刊行して以後、国民が「公」という国家のために進んで命を捧げるべく、度々繰り返されてきました。戦前昭和12年版の『尋常小學國史』下巻も、「吉良義央(よしなか)は性質の悪い欲深い人」と、忠臣蔵の視点で記し、「赤穂義士の譽はいよいよ高くなり、この後もながく世人の義心をはげましました」と結んでいたのです。敗戦後65年の今日、虚構としてこそ面白い「忠臣蔵」をもって、当時の仇討ち基準にさえ合わない集団報復事件を、戦前教科書のままに評価する意図に、危険なものを感じます。