横浜教科書研究会
自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?
2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
→横浜教科書研究会のとりくみ
■これまでに発表した声明を掲載します。
→これまでに発表した声明
■自由社版教科書を使用して授業をしなければならない、現場の先生方、保護者の方、自由社版教科書を使っている中学生を指導される塾の先生方に、お読みいただきたい冊子です。
→自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?
■私たちの活動にぜひご協力ください。
→カンパのお願い
■研究会主催の集会などイベントのご案内です。ぜひご参加ください。
→イベントのお知らせ
■私たちの活動に関連する有益な書籍をご紹介します。
→参考書籍
東北地方太平洋沖地震について
2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震による震災のために亡くなられた方々に哀悼の意を表し、また被災され、避難を余儀なくされている方々、ご家族、ご友人の安否を気遣われている方々に対し、心よりお見舞いを申し上げます。
『どう教えるか?』Vol.2 中世編の掲載を完了しました!
前回の更新では鎌倉幕府の成立の部分までを掲載しました。
今回は鎌倉時代の文化から応仁の乱まで、中世に関する記事のすべてを掲載しました!
ここもたいへん間違いが多く問題ある部分です。
ぜひみなさまご覧いただき、学習に活用してください!
『どう教えるか?』Vol.2の内容はこちらから
今回は鎌倉時代の文化から応仁の乱まで、中世に関する記事のすべてを掲載しました!
ここもたいへん間違いが多く問題ある部分です。
ぜひみなさまご覧いただき、学習に活用してください!
『どう教えるか?』Vol.2の内容はこちらから
応仁の乱が生んだ戦国大名(Vol.2)
応仁の乱が生んだ戦国大名
「27応仁の乱が生んだ戦国大名」86~87頁
ここで学びたいこと
1 応仁の乱 1441(嘉吉元)年に播磨の守護赤松(あかまつ)満祐(みつすけ)によって室町幕府6代将軍足利(あしかが)義教(よしのり)が殺害されたことにより(嘉(か)吉(きつ)の乱)、将軍の権力・権威は弱まり、有力守護大名による幕府の実権をめぐる対立が激しくなります。とくに8代将軍足利義政のとき、幕府の実権は細川勝元(かつもと)と山名持(もち)豊(とよ)に握られました。義政ははじめ、弟の義視を後継ぎとしていましたが、妻の日野富子が義(よし)尚(ひさ)を生んだために、次期将軍をめぐる家督争いがおこりました。細川勝元が義視を支持し、一方山名持豊は日野富子と結んで義尚を支持しました。そこに、有力守護大名の斯波家、畠山家の後継者争いが加わり、全国の守護大名を二分する戦争となったのが1467(応仁元)年の応仁の乱です。こうした家督争いの背景には、相続者の決定に際し家臣の意向を無視できなくなってきた、という事実があります。下剋上の風潮を示唆していると言えるでしょう。
2 下剋上の動き 11年におよぶ京都を主戦場とした戦争は、京都の荒廃をまねき公家や文化人の地方下向をもたらしたことで、地方文化が成熟しました。また、守護大名が本国を留守にしていた間、守護代や有力な国人たちが力をつけ、守護大名の領国支配は大きく動揺し、こうした情勢に国人たちも一揆を組織して自らの権益を守るために対応していきます。山城南部では、応仁の乱後も畠山氏の対立が続きますが、国人たちは農民らも巻き込んで、山城の国一揆を形成し、畠山氏の国外追放を実現させます。下剋上の代表的な一例であると言えましょう。
3 戦国大名の領国支配 戦国大名は、隣国の戦国大名と激しい領土獲得紛争を行いながら、分国支配をすすめていきます。とくに貫高制の採用はおさえておきたいところです。戦国大名は検地を実施することによって分国内の把握をすすめ収入増をはかり経済的な基盤を整備します。検地の結果、耕地面積を銭で換算した貫高であらわし、家臣団の軍役や農民の年貢などの役負担の基準としました。また分国法を制定する戦国大名もあらわれ、年貢を確保するために百姓の逃亡を禁じたりしています。とくに喧嘩両成敗についての規定は、家臣同士の紛争を自らの実力によって解決(自力救済)させるのではなく、戦国大名の法廷に訴えさせ、裁判権を確立させようとした点で、領国支配に関わる重要なポイントです。
和風を完成した室町の文化(Vol.2)
和風を完成した室町の文化
「26和風を完成した室町の文化」82~83頁
1 公武文化の融合 室町幕府の足利義満が、武家と公家の頂点に位置して政治を行ったことを背景にして、公家の文化と武家の文化が融合した文化が成立しました。足利義満が政治の拠点とした北(きた)山(やま)殿(どの)の舎利(しゃり)殿(でん)(金閣)は、公家文化の寝殿造と武家が保護した禅宗の仏堂を兼ね備えており、公武文化の融合を象徴しています。
2 禅宗の文化 中国大陸からもたらされた禅宗が、武家の保護を受けたため、禅宗の文化が広まりました。室町幕府によって保護された禅宗の僧は、外交や貿易で活躍するとともに、水墨画や漢詩文などの中国大陸の文化を紹介しました。また、禅僧によってもたらされた喫茶の習慣から、茶の湯が流行しました。
3 民衆の文化
田植えの時に行われた田楽や寺院の祭礼で行われた猿楽が、民衆に流行しました。田楽や猿楽は、観阿弥・世阿弥父子によって、能へと発展していきました。狂言は、能の合間に演じられた寸劇で、民衆の視点から武士や僧を風刺しました。また、絵入りの物語であるお伽草子が読まれ、現在に伝わる「浦島太郎」や「一寸法師」などの説話の原型が成立しました。
中世の都市、農村の変化(Vol.2)
中世の都市、農村の変化
「25中世の都市、農村の変化」80~81頁
ここで学びたいこと
1 惣村・都市の展開 本冊子「中世の産業の発達」(54~55頁)で詳しく述べたような諸産業の発展をも背景とし、農村では惣(惣村)とよばれる自治的な村落が、14世紀ごろから特に近畿地方を中心に広くみられるようになりました。また京都・奈良・鎌倉のほか、港・宿などに都市が生まれました。戦国時代になると、戦国大名によって城下町も作られたほか、京都・堺・博多などでは、豊かな商工業者らによる自治もおこなわれるようになりました。
2 惣村のしくみ 惣村は、有力な農民が指導者となり、寄合とよばれる村民の会議で運営される自治村落でした。村民は山野の利用やかんがい用水、領主に対する年貢の負担などをめぐる自らの主張を通すために、村の神社の祭りのための組織などを中心に結びつきを強めました。惣村は村の秩序を守るためのおきてを定めたり、自警組織をつくったりしました。81頁の「惣のおきての例」は、寄合の重要性、惣村が森林などの財産を持つこと、外部の者への惣村の警戒心を物語る史料です。また戦国時代の事例ですが、和泉(いずみの)国(くに)(現在の大阪府)日根野(ひねの)荘(しょう)入山(いりやま)田村(だむら)では飢饉となった1504年の冬、村民の命をつなぐ蕨(わらび)粉(こ)を盗んだ少年を、警戒にあたっていた村民が捕らえましたが、この少年は母親ら家族とともに殺されてしまいました。村民の生存をかけた惣村の自治は、このようにたいへん厳しいものでもありました。さらに惣村は、個々の村民が領主に納める年貢をまとめて請け負いました(村請(むらうけ)・地(じ)下(げ)請)。これは近世の村に引き継がれていきます。
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