自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
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欧米諸国の新たな接近(Vol.2)

欧米諸国の新たな接近

「44欧米諸国の新たな接近」132~133頁

ここで学びたいこと

1 外国船の接近 18世紀後半、イギリスで産業革命がはじまり、欧米諸国は工業化の歩みを始めました。18世紀末には、鯨の脂を工場の照明や機械の潤滑油とするために、世界各地で捕鯨漁がさかんになり、日本近海にも捕鯨船や測量船などが現れるようになりました。一方、ロシアはシベリア進出によって得た毛皮などを中国などに売って食糧を獲得し、日本に対しても通商・交易を求めるようになりました(ラックスマンの来航)。また、19世紀にはいると、欧米諸国の国際的対立の影響で、長崎に突然イギリス船が入港する事件もおこりました(フェートン号事件)。

2 幕府の対応と国内の批判 幕府はロシアの交易要求を断り、外国船に対する警戒などから異国船打払令を打ち出しました。この法令にしたがって、漂流民を送り届けたアメリカのモリソン号を打ち払った事件にたいしては、国内からも批判がおこり、幕府は批判した蘭学者らを厳しく弾圧しました(蛮社の獄)。世界の動きと幕府の対応について、国内でもさまざまな意見があらわれ、幕府も、対外政策の見直しを迫られるようになってきたことを学びましょう。

3 アイヌの人びと この教科書では、日本と欧米の関係からこのころの動きを説明しています。しかし、蝦夷地、カラフト、千島は、アイヌなど先住民の人びとが生活し交易をおこなっていた地域です。カムチャッカ半島を押さえたロシア人も、クナシリ島にまで進出した松前藩や日本の商人も、アイヌとの交易地を広げ、働き手としますが、アイヌからみると、ロシア人が南下し、和人が北上してきたのです。幕府が派遣した近藤重蔵や間宮林蔵が、これらの先住民と関係をもちながら調査をすすめたことも理解しておきたいことです(本冊子100頁コラム「教科書のなかの間宮林蔵と間宮海峡」参照)。

ここが問題

1 危機感をあおる図「欧米諸国の船が目撃された数」(132頁) この図は、一見して外国船に日本列島が包囲されているような印象を与えます。ところが、同図の右下グラフを見ると、急激に来航が増加するのはアヘン戦争後の1840年代です。この単元の年代には全く関係ありません。また、この図は『再現日本史』の江戸Ⅲ③35頁の図を参照したもののようですが、同書が依拠している『黒船来航譜』によれば、接近の理由も、漂着・接近・通過・渡来出没・上陸・薪水要求・通商を求めるなど様々です。しかも、18世紀末から19世紀はじめにかけて日本に接近した外国船は捕鯨船が中心であり、異国船=脅威とはいえない時期なのです。このようなずさんな図の掲載目的は何なのでしょうか? この図は、時期の違いを無視し、ことさら船の絵を大きく書き込み、一貫して「日本」がロシアなどの侵略の脅威にさらされてきたと強調しているようです。また、他社の教科書はすべて、この単元を寛政改革などとつなげて近世で扱うのに比べ、無理に近代の日露関係に入れ込むため、幕政との関係もわかりにくくなっています。

2 132頁「ラックスマンを日本に派遣し、…鎖国下の幕府がこれを拒絶すると、ロシアは樺太(サハリン)や択捉島にある日本の拠点を襲撃した」と書いてありますが、これでは、ラックスマンが襲撃したかのように誤解されかねません。武力行使は、1804年のレザノフ来航の時です。ラックスマン来航の折、老中の松平定信は、「外国と新たな関係を持たないのが国法である」と回答しましたが、紛争が起きるのを恐れ、通商を許可する可能性をほのめかしながら、長崎入港許可証(信(しん)牌(ぱい))を与えて帰国させました。ところが、12年後、ラックスマンが持ち帰った入港許可証を携えたレザノフが長崎に来航すると、幕府は、1年余りレザノフを待たせた上、「鎖国は昔からの法である」と交易を拒否します。怒ったレザノフの無責任な指示で部下のフヴォストフが武力で襲撃し、一連の紛争が起きたのです。その後、襲撃はロシア政府の命令によるものではないと公式文書で釈明が行われ、事件は決着をみました。以後40年間、日露関係は平穏が続き、幕府も貴重な外交経験をしました。

3 132頁15行目「近藤重蔵や間宮林蔵に、樺太もふくむ蝦夷地の大がかりな実地調査を命じた」という部分は、基本的な認識に間違いがあります。ロシアの襲撃の恐怖感から東蝦夷を直轄地にしたかのように記述されていますが、実際は襲撃事件のおこる5年前に直轄化しています。近藤重蔵は幕命により蝦夷地調査をし、クナシリ・エトロフへも渡っていますが、この調査の結果で東蝦夷直轄化が決まるのです。直轄化後に近藤重蔵の調査が始まるのではありません。あり得ないミスです。

4 小林一茶の句(132頁) ロシアの襲撃に対する恐怖が高まって読まれたように書いてありますが、間違いです。襲撃事件は1806年からですが、この一茶の句は1804年(文化元年)12月10・11日に他の3句とともに読まれています。

アドバイス 

1 133頁「アメリカの捕鯨船」図の鯨の油が何に使われたのかを考えさせ、産業革命のころの日本と世界のつながりの背景を理解させるのもよいでしょう。

2 幕府の対応については、東書113頁「鎖国が祖法とされる」が参考になります。高野長英の鎖国批判の理由と異国船打払令を比べさせてみるのもよいでしょう。

3 19世紀初めの外国船の接近を、人びとはどのように受けとめたのでしょうか。「松前藩家老がロシアに寝返った」とか、「ロシアの軍艦は数百艘、津軽海峡は封鎖されている」など、異人を恐れる噂が飛ぶこともありましたが、一方では一般の人びとと外国人との交流もあったのです。1811年、北方のクナシリ島を測量にきていたロシア艦長ゴローニンが捕縛され、2年以上幽閉されたとき、ゴローニンの世話をしていた人達は、別れを惜しんで泣いたといい、異人を恐れてはいません。1824年、常陸大津浜(現在の茨城県)では、沿岸漁民たち300人とイギリスの捕鯨船員との長期にわたる交流が行われていました。かれらは、ともに酒宴まで開いていました。しかし、幕府はこれを警戒し、百姓・町人身分の者が異国人に恐れをいだき、敵愾心を持たせるべきと考え、さらに、翌1825年には、異国船打払令を出しました。