自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
 →横浜教科書研究会のとりくみ
■これまでに発表した声明を掲載します。
 →これまでに発表した声明
■自由社版教科書を使用して授業をしなければならない、現場の先生方、保護者の方、自由社版教科書を使っている中学生を指導される塾の先生方に、お読みいただきたい冊子です。 
 →自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?
■私たちの活動にぜひご協力ください。
 →カンパのお願い
■研究会主催の集会などイベントのご案内です。ぜひご参加ください。
 →イベントのお知らせ
■私たちの活動に関連する有益な書籍をご紹介します。
 →参考書籍

東北地方太平洋沖地震について

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震による震災のために亡くなられた方々に哀悼の意を表し、また被災され、避難を余儀なくされている方々、ご家族、ご友人の安否を気遣われている方々に対し、心よりお見舞いを申し上げます。

横浜教科書研究会

『どう教えるか?』Vol.2 中世編の掲載を完了しました!

前回の更新では鎌倉幕府の成立の部分までを掲載しました。
今回は鎌倉時代の文化から応仁の乱まで、中世に関する記事のすべてを掲載しました!

ここもたいへん間違いが多く問題ある部分です。

ぜひみなさまご覧いただき、学習に活用してください!


『どう教えるか?』Vol.2の内容はこちらから

応仁の乱が生んだ戦国大名(Vol.2)


応仁の乱が生んだ戦国大名

「27応仁の乱が生んだ戦国大名」86~87頁

ここで学びたいこと
 
1 応仁の乱 1441(嘉吉元)年に播磨の守護赤松(あかまつ)満祐(みつすけ)によって室町幕府6代将軍足利(あしかが)義教(よしのり)が殺害されたことにより(嘉(か)吉(きつ)の乱)、将軍の権力・権威は弱まり、有力守護大名による幕府の実権をめぐる対立が激しくなります。とくに8代将軍足利義政のとき、幕府の実権は細川勝元(かつもと)と山名持(もち)豊(とよ)に握られました。義政ははじめ、弟の義視を後継ぎとしていましたが、妻の日野富子が義(よし)尚(ひさ)を生んだために、次期将軍をめぐる家督争いがおこりました。細川勝元が義視を支持し、一方山名持豊は日野富子と結んで義尚を支持しました。そこに、有力守護大名の斯波家、畠山家の後継者争いが加わり、全国の守護大名を二分する戦争となったのが1467(応仁元)年の応仁の乱です。こうした家督争いの背景には、相続者の決定に際し家臣の意向を無視できなくなってきた、という事実があります。下剋上の風潮を示唆していると言えるでしょう。

2 下剋上の動き 11年におよぶ京都を主戦場とした戦争は、京都の荒廃をまねき公家や文化人の地方下向をもたらしたことで、地方文化が成熟しました。また、守護大名が本国を留守にしていた間、守護代や有力な国人たちが力をつけ、守護大名の領国支配は大きく動揺し、こうした情勢に国人たちも一揆を組織して自らの権益を守るために対応していきます。山城南部では、応仁の乱後も畠山氏の対立が続きますが、国人たちは農民らも巻き込んで、山城の国一揆を形成し、畠山氏の国外追放を実現させます。下剋上の代表的な一例であると言えましょう。

3 戦国大名の領国支配 戦国大名は、隣国の戦国大名と激しい領土獲得紛争を行いながら、分国支配をすすめていきます。とくに貫高制の採用はおさえておきたいところです。戦国大名は検地を実施することによって分国内の把握をすすめ収入増をはかり経済的な基盤を整備します。検地の結果、耕地面積を銭で換算した貫高であらわし、家臣団の軍役や農民の年貢などの役負担の基準としました。また分国法を制定する戦国大名もあらわれ、年貢を確保するために百姓の逃亡を禁じたりしています。とくに喧嘩両成敗についての規定は、家臣同士の紛争を自らの実力によって解決(自力救済)させるのではなく、戦国大名の法廷に訴えさせ、裁判権を確立させようとした点で、領国支配に関わる重要なポイントです。
 

和風を完成した室町の文化(Vol.2)


和風を完成した室町の文化

「26和風を完成した室町の文化」82~83頁
ここで学びたいこと

1 公武文化の融合 室町幕府の足利義満が、武家と公家の頂点に位置して政治を行ったことを背景にして、公家の文化と武家の文化が融合した文化が成立しました。足利義満が政治の拠点とした北(きた)山(やま)殿(どの)の舎利(しゃり)殿(でん)(金閣)は、公家文化の寝殿造と武家が保護した禅宗の仏堂を兼ね備えており、公武文化の融合を象徴しています。

2 禅宗の文化 中国大陸からもたらされた禅宗が、武家の保護を受けたため、禅宗の文化が広まりました。室町幕府によって保護された禅宗の僧は、外交や貿易で活躍するとともに、水墨画や漢詩文などの中国大陸の文化を紹介しました。また、禅僧によってもたらされた喫茶の習慣から、茶の湯が流行しました。

3 民衆の文化

田植えの時に行われた田楽や寺院の祭礼で行われた猿楽が、民衆に流行しました。田楽や猿楽は、観阿弥・世阿弥父子によって、能へと発展していきました。狂言は、能の合間に演じられた寸劇で、民衆の視点から武士や僧を風刺しました。また、絵入りの物語であるお伽草子が読まれ、現在に伝わる「浦島太郎」や「一寸法師」などの説話の原型が成立しました。



中世の都市、農村の変化(Vol.2)


中世の都市、農村の変化

「25中世の都市、農村の変化」80~81頁

ここで学びたいこと

1 惣村・都市の展開 本冊子「中世の産業の発達」(54~55頁)で詳しく述べたような諸産業の発展をも背景とし、農村では惣(惣村)とよばれる自治的な村落が、14世紀ごろから特に近畿地方を中心に広くみられるようになりました。また京都・奈良・鎌倉のほか、港・宿などに都市が生まれました。戦国時代になると、戦国大名によって城下町も作られたほか、京都・堺・博多などでは、豊かな商工業者らによる自治もおこなわれるようになりました。

2 惣村のしくみ 惣村は、有力な農民が指導者となり、寄合とよばれる村民の会議で運営される自治村落でした。村民は山野の利用やかんがい用水、領主に対する年貢の負担などをめぐる自らの主張を通すために、村の神社の祭りのための組織などを中心に結びつきを強めました。惣村は村の秩序を守るためのおきてを定めたり、自警組織をつくったりしました。81頁の「惣のおきての例」は、寄合の重要性、惣村が森林などの財産を持つこと、外部の者への惣村の警戒心を物語る史料です。また戦国時代の事例ですが、和泉(いずみの)国(くに)(現在の大阪府)日根野(ひねの)荘(しょう)入山(いりやま)田村(だむら)では飢饉となった1504年の冬、村民の命をつなぐ蕨(わらび)粉(こ)を盗んだ少年を、警戒にあたっていた村民が捕らえましたが、この少年は母親ら家族とともに殺されてしまいました。村民の生存をかけた惣村の自治は、このようにたいへん厳しいものでもありました。さらに惣村は、個々の村民が領主に納める年貢をまとめて請け負いました(村請(むらうけ)・地(じ)下(げ)請)。これは近世の村に引き継がれていきます。

中世の産業の発達(Vol.2)


中世の産業の発達

 「農業の発達」,「手工業・商業の発達」80頁
 
この項目は1頁分を2頁で構成しましたが、約500年に及ぶ時代を扱うのに、教科書には時代による変化の記述がほとんどなく、具体的な内容の説明も乏しいからです。

ここで学びたいこと

1 農業の発展 二毛作(にもうさく)を材料に、農業の発展を考えましょう。鎌倉時代に水車による灌漑が広まると、田に水を引いて稲を作り、秋に水を落して麦をまけるようになりました。二毛作は鎌倉時代後半に西日本一帯に、室町時代には東日本に普及します。人々は、地力の衰えを防ぐため肥料も工夫をしました。鎌倉時代は刈敷(かりしき)(草を田にすきこむ)・ 草(そう)木(もく)灰(はい)・牛馬糞が使われ、室町時代には、人糞尿が広く利用されました。そして、糞尿備蓄のため各家にトイレが作られるようになります。
水の分配と山野の管理は大切な仕事です。それは村々の争いの原因になる一方、村人の団結を促し、共同管理を求めて村々が連合するきっかけにもなりました。鎌倉時代には鍛冶(かじ)職人が村に住みつくようになり、鉄製農具の入手や修繕が便利になりました。牛馬を飼い、大型のすきやまぐわをつけて田畑を耕すことも広まります。室町時代には手間をかけて作物を育て、収穫を上げる農業が根づきました。商品作物の栽培が全国に広まり、特産物が生まれるのも室町時代の特色です。80頁にある商品作物が何の原料になるか・どこが特産地か・どんな加工をするのか調べてみるとおもしろいでしょう。

倭寇と東アジア貿易(Vol.2)


倭寇と東アジア貿易

「勘合貿易と倭寇」79頁,「朝鮮と琉球」87頁
 
この項目は、教科書とは異なる構成にしました。学習指導要領にある「東アジアとの関わり」が、教科書では、2ヵ所に離れて書かれているからです。また日本との関係での説明に終始して、国際関係の中での日本の位置をわかりにくくしています。

ここで学びたいこと

1 前期倭寇の活動 14世紀は日本・中国ともに内乱の時代で、海の安全を保障する権力が不在でした。14世紀半ばに前期倭寇が朝鮮半島や中国山東の海岸を襲い、米を人を略奪しました。彼らは対馬・壱岐・北九州の松浦半島を拠点とした海民(海を生活の場にする人々)の集団です。高麗の住民も参加していたという説もあります。当時の人々には、「日本人」「朝鮮人」「中国人」という意識は薄く、目的を同じくする海民という意識で結ばれたようです。

2 明・朝鮮と日本 1368年、明が成立します。明が作った国際秩序を理解しましょう。帝国68頁の「明は東アジアの伝統である中国を中心とした国際関係によって通交と貿易を管理することにしました。それは、中国の皇帝が周辺の国々の支配者を『国王』と認め、かれらがみつぎものを献上(朝貢)すると、皇帝もたくさんの高価な品物を返礼としてあたえるというものでした」という説明がわかりやすいです。日本がこの体制に加わるには、倭寇禁圧が条件でした。幕府は九州平定に努力し、明はその実績を認めて足利義満を日本国王としました。明は民間貿易を厳禁する海禁策をとっていたので、正式な貿易船と証明するため勘合を発給します。応仁の乱で幕府が衰えると、有力守護の大内氏・細川氏がそれぞれ博多・堺の商人に請け負わせて貿易を行い、16世紀には大内氏が独占しました。最後の勘合船は1548年で、大内氏滅亡により途絶えました。
1392年に成立した朝鮮は、海上勢力に通交・通商の権利を認める一方、海賊行為に対しては根拠地と見なす港を直接攻撃するという厳しい対応をとりました。15世紀半ばから、対馬の宗氏が朝鮮と協力し、厳格な管理のもとで日朝貿易を行うようになります。日本・明・朝鮮の交易の安定によって前期倭寇は姿を消しました。

鎌倉幕府の滅亡と南北朝の動乱(Vol.2)

鎌倉幕府の滅亡と南北朝の動乱

「23建武の新政と南北朝時代」,「24室町幕府と守護大名」76~79頁

ここで学びたいこと

1 変革の時代 13世紀末から、人や物の交通が飛躍的に発展し貨幣経済が広く浸透するようになります。この大きな経済変動によって、今までの秩序は破れ、分裂と対立がはじまります。鎌倉幕府を支えてきた御家人制が、彼らの生活の窮乏などでゆらぎはじめます。朝廷も天皇家が分裂し、貴族内の抗争がはげしくなります。支配者たちの動揺は、権威や秩序を維持する規範を弱め、束縛されていた底辺の人々に上昇の機会を与えました。こうした人々の動きを原動力として、時代は大きく変革していくことになります。

2 鎌倉幕府はなぜ滅亡したのか 鎌倉幕府の政治が行きづまっていく中で、悪党と呼ばれる武士が、近畿地方を中心に荘園の年貢を奪ったりしました。また、金融や商品流通にたずさわって力を蓄える悪党もいました。このような動きに対し、幕府は有効な対策を出せずにいました。幕府は北条氏に権力を集中させ、専制政治によってこの危機を乗り越えようとしました。悪党と北条氏の専制に反発する御家人を味方に引き入れ、倒幕を行ったのが後醍醐天皇でした。悪党の楠木正成や、有力御家人の足利尊氏が天皇側につき、鎌倉幕府は滅亡しました(1333年)。


3 南北朝の内乱はなぜ60年以上も続いたのか  後醍醐天皇の政治がわずか2年で破綻し、南北朝の内乱がおこります。南北朝の内乱は単なる中央政界の権力闘争にとどまるものではなく、社会的広がりをともないながら、全国的な規模と長期にわたる内乱になりました。それまで、問題をはらみながらも協調していた諸勢力の矛盾がいっきに吹き出しました。荘園領主と地頭の対立、一族の分裂、在地領主間の争いが日本列島の様々なところで起きました。対立するものは互いに相手を打倒するために南朝や北朝を名目的にいただいて戦いを行いました。武家政権を再興した足利尊氏ですら弟と対立すると自分のたてた北朝をすてて、一時南朝に降伏したこともありました。

4 内乱はどのようにして終息したのか 長い南北朝の内乱は幕府・北朝の手によって南朝を吸収する形で1392年、足利義満の時に終息します。地方の武士たちは互いに北朝方、南朝方を名のって荘園に侵略し、領地を拡大しました。これらの地方武士を押さえて秩序を回復するために守護に大幅な権限を与えました。守護はその権限を利用して地方武士たちを家臣にすることで、戦いは終息していきました。勢力を強めた守護の中には、幕府の統制に従わないものもいましたが、義満は公武の権力を統一して、世の中は安定しました。

元の襲来とその後の鎌倉幕府(Vol.2)


元の襲来とその後の鎌倉幕府

「22元の襲来とその後の鎌倉幕府」74~75頁

ここで学びたいこと

1 モンゴル帝国の拡大とその影響を学びます モンゴル民族がユーラシア大陸に大帝国を築いたことを地図で学びましょう。そして、東西の貿易や文化の交流が盛んになったことも学びます。元には、ヨーロッパやイランなどの商人が訪れました。例えば、イタリアの商人マルコ=ポーロは元のフビライに仕え、帰国後に語った「黄金国、ジパング」などの見聞を『東方見聞録』として残しました。中国の火薬、木版印刷術がヨーロッパに伝えられました。

2 東アジアの動きを視野に入れて「元寇」を学びます 
① 「元寇」についてのこの教科書の記述は、朝鮮、中国などの東アジアの動きに触れていないので、日本の自国優越意識を教えることが懸念されます。そこで、東アジアの動きを視野に入れての授業を組みましょう。
モンゴルは、1231年に高麗に侵入しますが、高麗が降伏するまで30年近くかかっています。それでも高麗の軍隊(三別抄(さんべつしょう)と呼ばれる)と民衆は1273年まで抵抗を続けます。フビライはその高麗の抵抗を制圧して、日本に軍を派遣するのです。ベトナムは、1257年以降、3回にわたるモンゴルの侵入を退けています。もしもこうした動きがなかったら、モンゴルの日本侵攻はもっと早かったかもしれません。
② 1271年、高麗の反乱軍三別抄からの手紙が来ます。日本に救兵と食糧を要請します。もしこの時、日本が援軍を派遣したら高麗の反乱軍とでモンゴルを包囲することができたかもしれません。しかし日本は情勢に疎く手紙を理解できずに黙殺します。この直後、モンゴルの使者が来日します。幕府は国書を無視します。幕府は、御家人だけでなく非御家人にも戦争への動員を命令し、幕府の統治は強化されます。
③ フビライは3回目の日本遠征を準備しますが、ベトナム征服の失敗、中国南部での反乱、ジャワ征服の失敗(1293年)、モンゴル支配者の内紛などで日本遠征を断念します。日本だけがモンゴルを撃退したのではありません。

コラム 「ミヽヲキリ、ハナヲソキ…」 -『阿弖河荘上村百姓等言上状』の世界-(Vol.2)

コラム 「ミヽヲキリ、ハナヲソキ…」
-『阿弖河荘上村百姓等言上状』の世界-

46~47頁

日本の中世を生き抜いた農民たちの姿を伝える『阿弖(あて)河(がわの)荘(しょう)上村(かみむら)百姓(ひゃくしょう)等(ら)言上状(ごんじょうじょう)』は、大変有名な教材です。しかし、この教科書には一行の記載もありません。

阿弖河荘は紀伊国(和歌山県)の有田川上流の山あいにある荘園で、年貢以外に公事として、主に絹と真綿、材木などを納めていました。阿弖河の農民たちは、蒙古襲来の衝撃がまださめやらぬ1275(建治元)年、新任の地頭湯浅(ゆあさ)宗(むね)親(ちか)の横暴を荘園領主に訴え出ました。カタカナで書かれた13か条におよぶ言上状には、現代の私たちが読むと、身の毛もよだつ地頭の暴力が描かれています。  農民たちは、年貢を二重に取られ、綿や麻を責め取られる、栗や柿も奪い取られる。そして、地頭は様々な労役を課し、農民たちを酷使する。しかも、地頭の言うことを聞かなければ、「ヲレ((俺))ラカ コノムキ((麦)) マカヌモノナラハ メコトモ((女たちや子どもたち))ヲ ヲイコメ ミヽヲキリ ハナヲソキ カミヲキリテ、アマニナシテ、ナワホタシ((縄)(絆))ヲウチテ、サエ((苛))ナマント候ウテ…(私たちがこの麦をまかないならば、女や子どもを追い込めて、耳を切り、鼻を削いで、髪を切って尼にして、縄で縛って虐待し…)」という残酷な刑罰を課すというものです。この『阿弖河荘上村百姓等言上状』は、農民自身がカタカナでたどたどしく書き上げ、地頭の暴力的支配の実態を告発する形態をとっています。

大衆や武家の仏教と鎌倉文化(Vol.2)


大衆や武家の仏教と鎌倉文化

「21大衆や武家の仏教と鎌倉文化」72~73頁

ここで学びたいこと

鎌倉文化の誕生 戦乱が起こり、時代が激しく変化するなかで、政権の担い手となった武士、王朝文化を深めていく貴族、無常を感じて遁世した僧、鎌倉新仏教の開祖、共同作業で新しい様式の仏像を造り出した運慶(うんけい)ら仏師など、それぞれが作り出す、新しい文化とその特徴について、時代背景と関連づけて学びます。

ここが問題

「大衆(たいしゅう)」という語はこの時代にはそぐわないものです。歴史教科書では一般に、教育・マスメディアの普及、都市サラリーマン層の出現によって、市民一般が文化のにない手となった大正デモクラシー期に用いられています(東書180頁「大衆文化の登場」)。鎌倉時代に「大衆(だいしゅ)」と言えば僧兵のことで、ここでは「民衆」とすべきでしょう。

「新しい仏教」(72頁)7行目以降の文章では、鎌倉新仏教が広まった要因を、武士たちが京や鎌倉の動向に気を配っていたことに求めていますが、聞いたことがない、無理のある論旨です。一般的には「戦乱やききんを乗りこえて、たくましく成長してきた民衆や、自分の運命を切りひらいてきた武士などの、心のよりどころとして、新しい仏教の教えが広まりました。これらは簡単でわかりやすく、実行しやすかったので、多くの人々の心をとらえました」(東書56頁)という説明がなされています。

3 鎌倉新仏教は、すぐさま民衆に広まったわけではありません。「そのわかりやすい教えや修行方法はたちまちに民衆に受け入れられ、仏教はやっと庶民全体のものとなった」(72頁、11~13行目)というのは正しくなく、日蓮宗も浄土真宗も、普及したのは室町後期(戦国時代)になってからのことです。次の説明が正しいものです。「…浄土宗の法然や、…日蓮の教え(日蓮宗)が、武士たちの心をとらえました。その後日蓮宗は、京都などの都市を中心に、商人や手工業者たちにも熱狂的に受け入れられました。」(帝国62頁),「鎌倉時代に現れた新しい仏教は、しだいに庶民の心もとらえていきました。…のちに各教団は布教を活発に行うようになり、とくに法然の弟子の親鸞を教祖とする浄土真宗(一向宗)は、室町時代になると蓮如のたくみな布教活動によって、各地に信仰を同じくする集団をつくりあげました。」(帝国62~63頁)

『どう教えるか?』Vol.3 近現代編は2011年4月刊行予定です!

自由社版の歴史教科書で学ばなければならない生徒のご家族や、教えなければならない先生方にぜひ読んでもらいたい冊子、『どう教えるか?』Vol.2の記事をさらに掲載しました。今回は、中世についての記事を5本掲載です。

原始・古代から近世までをカバーした、『どう教えるか?』Vol.2は、おかげさまでさまざまな集会や講演会などで大反響をよんでいます。まだお手にとっていない方は、下記のリンクからぜひ内容をご覧いただければと思います。

現在、幕末・維新の時代から、現代までの近現代の記述について検討した、『どう教えるか?』Vol.3の作成が進められています。Vol.32011年4月の刊行を予定しています。ぜひご期待ください!

冊子の内容はこちらから

コラム 人物コラムに潜むもの ―「源頼朝と鎌倉武士」を解体する― (Vol.2)


コラム 人物コラムに潜むもの
―「源頼朝と鎌倉武士」を解体する―

70~71頁

主従関係の過剰な美化 源頼朝が鎌倉幕府を開き武家政治を行ったこと、将軍と御家人が「御恩と奉公」を仲介に主従関係を結んでいたことは、どの教科書でも取り上げられています。しかしこの教科書では、20「鎌倉幕府の武家政治」での説明にとどまらず、「歴史のこの人 源頼朝と鎌倉武士」という人物コラムのなかで、戦前には修身の教材であった、忠臣譚としての『鉢の木』を大々的に紹介し、「従」が命をかける主従関係をことさら美化しています。また、他の教科書よりひときわ大きく、『一遍上人絵伝』の図版を掲げていますが、建築・芸能・民俗・農業などの豊かな歴史情報が含まれているにもかかわらず、取り上げているのは「武」に関するものだけです。  
そもそも、このコラムを一読すると、読み物としてのまとまり・つながりに不自然さを感じます。それは、頼朝の人物コラムの姿を借りて、主のためには命を惜しまない人間像を肯定的に描くための素材が詰め込まれたからです。ちなみに扶桑社版では、「人物コラム 源頼朝」「読み物コラム 武士の生活」が並んでおり、自由社版もこれを土台にしたと思われますが、扶桑社版ですら『鉢の木』は取り上げていません。

鎌倉幕府の武家政治(Vol.2)


鎌倉幕府の武家政治

 「20鎌倉幕府の武家政治」68~69頁

ここで学びたいこと

1 鎌倉幕府の成立 12世紀後半、関東の武士を従えて鎌倉に本拠地をかまえた源頼朝は、朝廷から自立した政権を築いていきます。これが鎌倉幕府です。頼朝は、家来となることを誓った武士を御家人にして、土地をなかだちとした御恩と奉公の主従関係を結んでいきます。そして、平氏との戦いで手柄を立てた御家人には、敵の武士から没収した所領を与え、それとともに一般の御家人の所領をも保障しました。平氏滅亡後の1185年、頼朝は朝廷に迫り、守護・地頭の設置を認めさせ、守護・地頭には御家人を任命します。さらに、奥州の藤原氏を滅ぼし、1192年、頼朝は征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立します。

2 執権政治と承久の乱 頼朝の死後、幕府は将軍が暗殺されるなど混乱が続きました。後鳥羽上皇はこの混乱に乗じて幕府を倒そうとしました。鎌倉幕府は執権として実権をにぎっていた北条氏と北条政子のもとに結集し勝利します。この承久の乱後、六波羅探題が置かれ、朝廷の監視と西国の御家人に対する監督に当たらせます。また、朝廷側についた貴族・武士の所領は没収され、東国の御家人たちを新たにその地の地頭に任じます。こうして西国に東国の御家人が配置され、幕府の勢力は全国に拡大します。一方、公家の政権である朝廷は院政をつづけ西国を足場に国内の統治を続けました。

3 御成敗式目 東国武士が、西国に地頭として派遣されると、現地の荘園領主や農民などとの間で紛争が起こりました。そこで幕府は、紛争の解決の基準や政治の方針を明確にする必要から、51か条からなる御成敗式目を制定しました。この式目は、律令とは異なる最初の武家独自の法典です。最初の2条は神社・寺院の修理や神事・仏事の保護のことで朝廷の法と同じ内容ですが、律令とは異なる内容のものもあります。3~5条は守護・地頭の職権について定めているなどです。この法律の効力は武家のみに及ぶとされていますが、地頭と荘園領主との争いが幕府の裁判で行われるようになったので、公家にも武家法が次第に及ぶようになります。

平氏の繁栄と滅亡(Vol.2)


平氏の繁栄と滅亡

「19 平氏の繁栄と滅亡」 66~67頁

ここで学びたいこと

1 保元の乱・平治の乱 前節で学習したように、院政は、一度権力をもった上皇・法皇(「治天の君」と呼びます)が、生涯に渡って政権を掌握することが通例です。そのため、院政を行っていた上皇・法皇の死が政権交代の数少ない機会となります。政権交代の機会に複数の候補者が存在した場合には、政争に発展する可能性が高くなります。鳥羽上皇の死の前年、1155年の後白河天皇即位以後続いていた後白河と崇徳上皇の対立が保元(ほうげん)の乱の直接の原因となります。これに加えて、この政権闘争とも関わっていた摂関家内の藤原忠通(ただみち)と忠実(ただざね)(忠通の父)・頼長(よりなが)(忠通の弟)の対立も絡んで乱が勃発しました。保元の乱の勝利で治天の君となった後白河院政下で起こった院司(いんし)・北面(ほくめん)の武士の主導権争いが「平治の乱」の要因です。この乱で勝利した平清盛が政治的な発言力を高めていきました。

2 戦乱と武士 平安時代までの政争の解決方法としては、長屋王の変のように相手に謀反の疑いをかけて自害に追い込む、または菅原道真の事件のように左遷させるという方法が用いられていました。しかし、保元の乱においては、武力により決着がついた点に注目しましょう。強力な武力を抱えた勢力が、政権を獲得できるようになり、皇族・貴族社会においてそれだけ武士の重要性が高まりました。このことが、後に武家政権が築かれた理由なのです。

コラム 荘園をどう教えるか?(Vol.2)


コラム  荘園をどう教えるか?

荘園は教えにくい 「荘園は教えにくい」といわれてからどれくらい経つでしょうか。これまで、この課題を解決するために多くの努力がされてきました(たとえば、永原慶二著『荘園』吉川弘文館など)。しかし、依然その声はおさまっていません。
荘園の理解を難しくしているのは、古代の「公地」制は荘園=「私(有)地」の成立・拡大によって崩壊する、という古い考え方に大きな要因があります。違った言い方をすれば、公地と荘園を対立的に捉え、荘園が公地を侵食・拡大することによって中世社会が成立するという考え方です。三世一身法(723年)、墾田永年私財法(743年)を契機に成立した荘園は徐々に拡大し、院政期に体制的に確立すると習った直後、鎌倉時代になると荘園・公領ごとに地頭が置かれ、かつ鎌倉幕府の財政的基盤は荘園と公領である、と習います。とすると、「えっ!公領はまだあったんだ。」という疑問が湧き、混乱してしまうのです。

墾田とはなにか? では、どのように理解したらよいでしょうか。まず、三世一身法、墾田永年私財法で成立する「墾田」ですが、墾田が「私有地」であるという記述はどの教科書にもみられますが、正確ではありません。墾田は実は「輸租田」(「租」を納める田)でした。したがって、墾田が増えると国家に納入される「租」も増大したのです。すなわち、墾田は口分田とならんで、国家にとっては税を生み出す重要な田地だったのです。
ではなぜ二つの墾田法で墾田の所有を認めることになったのでしょうか。これも実はですが、律令には国司の墾田を除いて、寺院や庶民が所有する墾田に関する規定はなかったのです。したがって、公田(班田対象の田地)以外の荒地を開墾してできた耕地をどのように扱うのか、決まっていませんでした。それで、三世一身法では墾田の所有権を認めると同時にその期限(三世と一身)を決めたのですが、それでも墾田の開発が進まなかったので、所有の期限を外して「永年私財」としたのです。ここで重要なのは、墾田が「永年私財」として班田対象外の田地として認定されたこととともに、墾田が公田とならんで国家的な税(租)が賦課される田地として正式に認定されたことです。したがって、古代国家の基本的な土地制度は公田と墾田とによって成り立っていたといえるのです。

武士の登場と院政(Vol.2)

武士の登場と院政
 
 「 18 武士の登場と院政」 62~63頁
 
ここで学びたいこと

1 武士と武士団 10・11世紀ごろに、各地の有力農民(田堵)が自ら所有していた領地を保護・防衛するために武装したのが、武士の起源と考えられています。その後、朝廷や貴族社会で武力として重用されました。具体的には、朝廷を警備する滝口の武士、皇族・貴族を警備した侍、地方の武力として活躍した押領使・追捕使などが、それにあたります。武士は、一族を中心に次第に武士団を形成していきました。一族の中核の首長、首長の一族すなわち同じ血縁集団にあたる家子、有力な家臣である郎党、さらに一般的な兵力として下人・所従によって組織されていました。やがてこれらの武士団は、天皇の血筋を引く清和源氏・桓武平氏などの貴族と主従関係を結ぶようになり、大武士団が形成されていきます。関東では、当初は平氏が武士団を組織していましたが、1028年の平忠常の乱で源頼信が、さらに前九年の役・後三年の役で源頼義・義家父子が活躍すると、源氏と主従関係を結ぶ武士が増加しました。

2 院政 11世紀後半、摂関家と外戚関係のない後三条天皇が即位すると天皇が直接政治を行う親政を開始しました。この政権では、延久の荘園整理令が制定され、近年成立したものや成立が不明確な荘園が停止され、一時的に荘園の数は減少し、荘園を重要な経済源としていた有力な貴族・寺社などの荘園領主は打撃を受けました。さらに白河上皇により院政が開始されました。天皇を退位した上皇や法皇(上皇が出家)という規制の少ない立場で政治を行うことを院政といいます。この政権では、独自の役人を組織して(院司)役所を設け(院庁)、さらに武力を持ち(北面の武士、後に西面の武士も加わる)、命令・決定などを伝達する文書(院宣・院庁下文)を発給して効力を示しました。多くの荘園が寄進されるなど豊かな経済力ももちました。なお、院政の開始以後も、摂政・関白という役職は存在しましたが、以後政権を掌握することはほとんどありませんでした。

『どう教えるか?』Vol.2 古代編の掲載を完了しました!

自由社版 歴史教科書で学ばなければならない生徒のご家族や、教えなければならない先生方にぜひ読んでもらいたい冊子、『どう教えるか?』Vol.2の記事をさらに掲載しました。

今回で古代編の記事の掲載を完了しました! 引き続き、中世、近世の記事をアップしていきます。

ご期待ください。

冊子の内容はこちらから

密教の伝来と国風文化(Vol.2)


密教の伝来と国風文化

「17密教の伝来と国風文化」56~57頁

ここで学びたいこと

1 唐風文化 平安時代前期は律令制を再編する時代だったことは前単元で学習しましたが、唐から導入した律令制が影響力を持ったこの時代、文化の上でも唐の影響は強く、平安前期は唐風の文化が花開いた時代でありました。後で触れる空海や最澄もこの平安前期の人物です。だからこそ唐で学び、新しい仏教を日本にもたらすわけです。貴族らは漢詩を読み、漢文学が盛んな時代でした。

2 国風文化 平安中期の文化を「国風文化」といい、日本風の文化が生まれた時代といいます。但しこの時代に至っても、貴族らは唐や大陸の文化にあこがれを持ち続けていました。遣唐使派遣が途絶えた後も、民間商船によってもたらされる大陸の文物(たとえば沈(じん)や丁子(ちょうじ)などの香料、虎の皮、瑠璃壺と呼ばれたガラス壺など)は唐物として珍重されていました。こうした中国文化の強い影響を受けながらも、それらを基礎に日本の風土や生活、習慣にあった文化が生まれたのです。このような文化を国風文化といいます。

3 平安前期の仏教 平安前期には唐で学んだ最澄と空海によって新しい仏教がもたらされました。最澄は天台教学を学んで帰国し、帰国後比叡山延暦寺を拠点に天台宗を開きます。空海は2年間にわたって密教を修行し、帰国後真言宗を開きます。
空海の伝えた真言宗は秘密の呪法によって悟りを得るというもので密教と呼ばれました。密教は祈りやまじないによって国家の平和や人々の願いをかなえるものでした。そのため天皇や貴族らに広まっていきます。最澄も唐で密教を学んでいましたが本格的なものではありませんでした。天台宗が密教を本格的に取り入れるのは最澄の弟子の時のことです。こうして天台宗も密教を取り入れ、真言宗とともにその後大きく勢力を伸ばしていくのです。

4 平安中期の仏教 平安中期にも依然天台・真言二宗は大きな勢力をもっていましたが、この時代に登場し、注目されるのが浄土教です。浄土教は阿弥陀仏を信じることによって死後に極楽浄土に生まれ変わることを願う信仰です。京の市井の中に入り布教を行い「市聖」と呼ばれた空也や極楽へ生まれ変わるための具体的な方法を著書に著した源信などによって浄土教は広められていきます。藤原頼通が建てた宇治の平等院鳳凰堂は浄土教信仰によるもので、阿弥陀仏をまつり、現世に極楽浄土を再現したものといわれています。

平安京と摂関政治(Vol.2)


平安京と摂関政治

「16平安京と摂関政治」54~55頁

ここで学びたいこと

1 律令国家の立て直し 奈良時代には天武天皇の子孫が天皇となりましたが、それが途絶え、天智大王の子孫で母親が渡来系貴族の出身の桓武天皇が即位することになりました。桓武はこのようなこれまでの天皇と異なる出自から新しい王権を作ることを目指します。そのために長岡京ついで平安京へと都を移し、東北地方を制圧する戦争などを行います。この2つは「軍事と造作」といわれ、桓武の2大事業とされますが、いずれも自己の王権を権威づけ、正当化するために行われたと言われています。またこの教科書で「反乱」とされる蝦夷の戦いは桓武による制圧に対する抵抗であった点や蝦夷の抵抗に桓武軍は一時大敗したこと、それくらいの力を蝦夷が持っていたこともあわせて教えたいところです。

2 摂関政治 桓武天皇の後も平安前期には律令制の建て直しが図られましたが、この時期藤原氏(北家)は天皇の秘書的役割を果たすなどして天皇と結びつき勢力を伸ばしました。その藤原氏が天皇と婚姻関係を結び、他の貴族を退けるなどして平安中期に展開したのが摂関政治です。摂政とは天皇が幼少などの時に天皇の権限を代行するもので、関白は天皇の決裁などを補佐する役職のことです。藤原氏は自分の娘を天皇の后として送り込み、生まれた子を天皇とし、外戚(母方の親戚)としてその天皇の摂政や関白となっていったのです。摂関政治の全盛期は11世紀前半、藤原道長・頼通親子の時代です。

3 公領と荘園 律令制で導入した班田収授制は、男子を税負担のない女性として戸籍に偽って登録する偽籍や、税を逃れるため土地を離れる逃亡など、民衆の抵抗が相次いだため行き詰まり、10世紀初頭を最後に行われなくなります。そのため政府は平安時代中期に地方支配や税の取り方を変更します。国司に中央政府への税納入を条件に国内支配の大幅な権限を与えたのです。律令制では戸籍によって一人一人を把握して税をとっていました。しかし国司はそのような方法を変更し、有力農民に土地経営を行わせ、その面積をもとに徴税するように変えたのです。こうすることにより国司は有力農民さえ把握しておけば税が徴収できるようになったのです。このようにして国司が支配する土地を「公領」といいます。平安中期、摂関政治期の土地支配としてはこの点をしっかりと教えましょう。教科書では荘園(貴族や寺社の私有地)の話も出てきます。摂関政治期にも荘園はありましたが、まだこの段階では重要ではありません。荘園については摂関政治に続けて教えるのではなく62頁の「武士の登場」の話をした後に扱うのがよいでしょう。

  さて、その荘園が重要になるのは次の院政期、平安後期です。平安中・後期になると農業技術の進歩もあって土地の開発が進展します。こうした開発地は国司に掌握されて公領に組み込まれていきますが、中には上級貴族や大寺社の庇護下に入って税免除の特権を受けようとするものも現れます。こうして生まれるのが荘園です。荘園が増加しだした頃、後三条天皇による荘園整理政策が行われます。それは一定の効果がありましたが、手続きなどが整った荘園は認める面もあったため、後三条天皇以後も荘園は増えていきます。特に律令制が行き詰まって以来、上級貴族や大寺社の方も独自の財源を得る必要が出てきます。そこで開発地などを探しだし、それらの土地を核に、己の権威によって周辺の大きな領域を囲い込んで荘園を設立するようになります。こうして荘園設立は、平安後期、白河院政期後半から鳥羽院政期にかけてピークを迎えていくのです。

飛鳥・白鳳・天平の文化(Vol.2)


飛鳥・白鳳・天平の文化

「15飛鳥白鳳天平の文化」48~49頁,「歴史へゴー!シルクロードと仏教美術」52~53頁

ここで学びたいこと

1 飛鳥文化は日本初の仏教文化 6世紀半ばに百済から公式に仏教が伝来した時、ヤマト王権の主導権は蘇我氏、物部氏など少数の豪族が握っていました。蘇我氏はいち早く仏教を受容し、6世紀末に蘇我氏が物部氏を滅ぼすと、仏教受容はヤマト王権の方針となりました。そして本格的な伽藍を持つ寺院として飛鳥寺や法隆寺が建立されたのです。当時中国南北朝時代の仏教文化が朝鮮諸国に伝来しており、それらが百済や高句麗からの渡来人僧侶や技術者によって伝えられました。基壇上に礎石を置いた建物や瓦葺き屋根、青銅で鋳造し金メッキをほどこした仏像は最先端の文化でした。王家も豪族たちも、一族の力を示すものとして寺院を建立しはじめました。この頃から7世紀前半までの、日本初の仏教文化を「飛鳥文化」と言います。

2 白鳳文化は中央集権国家とともに発展 645年に蘇我氏本宗家が滅ぼされると、政治の主導権は豪族から大王家に移ります。宮の所在地は難波、飛鳥、近江と遷(うつ)りますが、7世紀末の天武・持統朝には飛鳥に戻り、ここで唐をモデルとした律令体制が整えられていきます。飛鳥淨(きよ)御原(みはら)宮付近には律令制度に支えられ、国家の権力を示す薬師寺(本(もと)薬師寺)などの官寺が建立されました。この時期の文化を白鳳文化と言います。仏像の様式は新羅を通して伝えられた、中国唐初期の文化の影響を受けたものになって行きます。また地方の豪族によっても寺院が建立されるようになり、千葉県龍角寺や東京都深大寺などに白鳳時代の仏像が残されています。

3 天平文化は古代国家の到達点 律令国家の成立の後、都も710年奈良の平城京に遷されます。それから都が長岡京、平安京に遷るまでの時期の文化が「天平文化」です。国家により東大寺、大安寺、西大寺などの大規模な官寺が建立され、僧侶は国家の保護を受けて、鎮護国家のための法会を盛大に営みます。聖武天皇は国ごとに七重の塔を持つ国分寺や、国分尼寺を建立させ、都には盧舎那仏(大仏)を建立させました。国家の由来を記述する歴史書『古事記』『日本書紀』や、国家の支配領域の地誌である『風土記』が編纂されました。また天皇賛美の歌を多く含む『万葉集』が大伴家持などによって編纂されました。莫大な費用や人材を惜しみなく注ぎ込んだ寺院建築や仏像彫刻は、世界的に見ても水準の高いものでした。しかし一方で民衆への負担は重く、社会の疲弊を招きました。

4 遣唐使が運んだ国際的な文化 天平文化の時代には遣唐使を通じて中国唐の文化が直接伝えられるようになりました。唐の文化にはシルクロードを通じて、インドやペルシャなどの文化が影響を与えています。また7世紀後半に朝鮮半島を統一した新羅、7世紀末に中国東北部に建国した渤海とも、使節の往来が行われました。天平文化には国際的な奥行きがあり、聖武天皇が愛好し光明皇太后によって東大寺に寄進された工芸品の一部は、シルクロードから唐を経由して運ばれてきたものです。

律令制と人々の暮らし(Vol.2)


律令制と人々の暮らし

「13平城京の造営と奈良時代」42~43頁,「地方の統治」46頁

ここで学びたいこと

1 大宝律令の制定 中国の唐にならった国づくり=律令体制の形成とは、どのようなものだったのでしょうか? ①中央・地方の行政組織がはっきりと体系化され、天皇中心の中央集権国家としての支配の仕組みが法的に完成したことです。つまり、中央に二官八省、地方に国・郡・里(50戸で1里)がおかれ、それぞれ中央から派遣される国司、地方の有力者が任命される郡司・里長によってその地域の人々をおさめさせました。②「公地公民」を基本とし、戸籍・計帳を整備し、班田収授を行い、税をとる体制が確立したことです。

2 律令体制下の人々のくらし 律令体制への移行は人々の暮らしや人間関係をどう変えたのでしょうか? 一般の人々の負担は、朝廷や地方への貢納と労役という形になって、東国の男子が九州まで行かされる防人(さきもり)のような兵役や、庸や調の都への運搬など、モノだけでなく労役が大きな負担になっていきました。この頃編纂された『万葉集』には、防人の歌や貧窮問答歌など当時の民衆の生活や感情をよく表現しているものがあります。当時の社会は、皇族・貴族から一般農民まで含む良民のほか、賤民、わけても奴婢のように売買の対象になる人々もいる身分社会です。良民のなかでも、貴族や役人と一般の農民との間には大きな差がありました。位をもつ者は課役などの義務を免ぜられ、さらに五位以上の貴族には様々な特権がありました。たとえば位田、功田、職田などの土地や、位封(いふう)、職封(しきふう)など税として貢納されたモノ、従者に当たる資人(しじん)まで与えられました。一方、一般の人々には「生活の基礎となる口分田」(43頁)が与えられたとありますが、口分田だけでは生活するには到底足りなかったようです。班田収授の目的は、一般の人々に税や兵役を負担させることにありました。貢納や労役のための旅の途中で、のたれ死にする人々の存在も記録(『続日本紀』)されています。

3 律令体制の矛盾と鎮護国家の仏教 「青(あお)丹(に)よし…」の歌にイメージされる華やかな都の貴族の生活のかげに、庸・調の運搬や雑徭、兵役などの負担に耐えかねた農民の逃亡や偽籍などの抵抗もありました。このような問題が顕著になってくると、国家を仏教の力で鎮護しようと大規模な造寺・造仏があいつぎました。しかし、これは国費を消耗し、人々の生活を圧迫しました。わけても大仏造立は大きな負担だったため、従来弾圧していた行基らの活動を認め、その力をも利用して、少なくとも延べ26万人以上の労働(『詳説日本史史料集』(山川出版社)の42頁の表「労力」を合計)を費やして、詔から9年目にやっと完成させたものでした。

大化の改新と白村江の戦い・壬申の乱 (Vol.2)


大化の改新と白村江の戦い・壬申の乱 

 「11 遣唐使と大化の改新」,「12 日本という国号の成立」38~41頁

ここで学びたいこと ※天皇号がない時期は天皇を大王、皇子を王子と表記しています。

1 7世紀半ばの東アジア情勢 朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済の対立に唐が介入するという激動の時代の中で、3国がいずれも権力の結集をはかっていきました。この時期、倭も権力を結集し、国力を充実させる政治への気運が高まりました。

2 大化の改新 645年6月、中大兄王子や中臣鎌足らが、宮中で蘇我入鹿を斬殺し、屋敷にこもったその父蝦夷(えみし)も自害して蘇我本家は滅亡しました。皇極大王(女帝)から位を譲られて(初めての譲位です)即位した孝徳大王は、唐から帰国した学者や僧を顧問として改革に乗り出し、翌年正月には、改革の方針が示されたとされています。この改革をその時つくられたという年号から(「大化の改新」)と言います。ただし、その内容が実現するには、大宝律令の成立まで、その後50年ほどかかりました。

3 白村江の敗戦 660年、唐と新羅の連合軍が百済を滅ぼしました。百済復興のため送られた倭国軍は、中央・地方の豪族軍の寄せ集めで統制もなく、663年に朝鮮南西部の白村江で唐の水軍に惨敗しました。中大兄王子は、唐・新羅の侵攻に備えて九州北部などに水(みず)城(き)や山城を築かせ防人を配置して守りを固める一方、国内改革に乗り出していきます。

4 天智朝の改革 中大兄王子は667年に都を近江(今の滋賀県)の大津に移し、翌年、大王に即位し、はじめての全国的な戸籍制度をつくるなどの国内改革を進めました。

5 壬申の乱 671年末に天智大王が亡くなると、その後継ぎをめぐって、天智の息子大友王子と弟大海人(おおあまの)王子(おうじ)が対立しました。672年6月、大海人王子は危険を察して美濃国(今の岐阜県)に脱出し、東国の豪族の兵などを集めて近江朝廷に反乱を起こし、約1ヶ月の激戦の末勝利をおさめました。この乱をその年の干支から壬申の乱と言います。

6 天武朝の改革 大海人王子は即位して天武天皇となり、乱に勝利した実力を背景に、豪族の私有民の廃止、令の編纂、歴史書の編集などを実施し、天皇を中心とする強力な中央集権国家づくりを進めました。

蘇我氏と厩(うまや)戸(との)王子(おうじ)の政治(Vol.2)


蘇我氏と厩(うまや)戸(との)王子(おうじ)の政治

「09聖徳太子の新しい政治」,「10遣隋使と「天皇」号の始まり」34~37頁

ここで学びたいこと ※天皇号はまだ使われていないため、後の天皇は大王、皇子は王子と表記しています。

1 隋・唐帝国の成立と東アジア 6世紀末から7世紀にかけ中国で隋・唐帝国が成立し、律令制度や税制を整えて強大な国家を建設したことは東アジア諸国に強い影響を与えました。朝鮮では百済や新羅が力を強め、倭国も新しい東アジア世界に対応するとともに、中国の進んだ制度や文化を吸収して、改革を進めようという気運が高まりました。

2 蘇我氏・厩戸王子・推古大王 蘇我氏は中国や朝鮮からの渡来人の知識と技術を活用して勢力を強め、馬子の時代に対立する物部氏を倒して権力を拡大しました。馬子と対立した崇(す)峻(しゅん)大王(おおきみ)※が殺害され、その後に即位した推古大王(女帝)のもとで、厩戸王子(聖徳太子)、大臣の馬子が政治改革を行いました。

3 国内政治の改革 国内政治では、「冠位十二階」の制度を始め、家柄にとらわれず、能力や実績に応じて役人を登用しようとつとめたといわれます。また、仏教や儒教などの精神を取り入れた「十七条の憲法」を定めて、政治の理想を示し、役人の心得を説いたとされています。

4 遣隋使 外交では、小野妹子らを遣隋使として中国に派遣し、隋との対等な国交をめざしたとされています。607年の遣隋使では、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」という倭王の国書が、唯一の「天子」を自認する隋の皇帝煬(よう)帝(だい)をおこらせましたが、東方の高句麗と対立していた隋は、翌年小野妹子に隋の使節をつけて倭に帰国させました。

『どう教えるか』Vol.2の記事を追加しました!

『自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか ?』Vol.2 前近代編の記事を追加しました!

こちらからご覧ください

東アジアとヤマト王権(倭王権)(Vol.2)


東アジアとヤマト王権(倭王権)

「07 大和朝廷と古墳時代」28~29頁,「08 東アジアの国々と大和朝廷」32~33頁

ここで学びたいこと

1 古墳の時代 3世紀後半~4世紀になると、大和盆地を中心に吉備(きび)、筑紫(つくし)、毛(け)野(の)などに巨大な古墳が出現します。これは大和盆地を中心に小国の王である豪族たちの広域の政治連合が形成され、その共通の墓制としてつくり出されたと考えられています。古墳の形(外形)は前方後円墳をはじめ、円墳・方墳などがありますが、特に巨大なものの多い前方後円墳は、ヤマト王権やそれに関わりのある地域にあります。3世紀~7世紀のことを知るには、この古墳が大きな手がかりになります。その内部の副葬品や時には外部に立て並べられた埴輪などからも当時の社会の様子に接近することができます。巨大古墳を作るには、測量や土木建築など当時の新しい知識・技術が必要でしたが、それらは同時に灌漑(かんがい)技術などの農業技術でもあり、それに基づいた生産力の増大や社会の変化が推測できます。

2 半島情勢の変化とヤマト王権 1世紀末頃から朝鮮北部の部族連合を形成していた高句麗が力を伸ばし、3世紀~4世紀には、東部の新羅、西部の百済もそれぞれの地域を統一しました。ヤマト王権は、南部の加羅(から)(伽耶(かや))諸国とのつながりを強めながら百済と連合して、高句麗・新羅と対立しました。5世紀になると倭の五王が中国南朝の宋に使を送り、中国から称号を得ようとします。国内には中国の権威を背景に持つ大王を印象づけ、外に対しては朝鮮半島での立場を有利にしようとしたのです。

3 多くの渡来人とその役割 5世紀前後から、主に朝鮮半島から多くの渡来人と、そのもたらす新しい文化―前述の測量などのほか、養蚕、機織り、陶器(須恵器(すえき))作り、漢字、医学、仏教などが入ってきました。戦乱をのがれて、あるいは、技術の伝授のためなどにやってきた多くの渡来人を受け入れ、豪族たちにも配分することによって、ヤマト王権は国内諸勢力に対して力を強めていきます。

弥生文化と中国歴史書による古代日本(Vol.2)


弥生文化と中国歴史書による古代日本

「05稲作の広まりと弥生文化」22~23頁,「06中国歴史書が語る古代の日本」26~27頁

ここで学びたいこと

1 朝鮮半島南部から渡来した文化 縄文時代晩期(紀元前10世紀説と紀元前5世紀説がある)に水田で稲作農業をおこなう人々が朝鮮半島南部から九州北部に渡来し、金属器や磨製石器(木工具・石包丁等)をともなう新しい文化を伝えました。この新文化が日本列島の縄文人に受け入れられ、互いの混血もすすんで、紀元前7世紀(または紀元前3世紀)までに西日本一帯に成立したのが弥生文化です。弥生文化は紀元前400年(または紀元前200年)ごろまでに東北地方の日本海側に広まり、やがて北海道と南西諸島を除く日本列島の大部分が弥生文化の時代に入りました。

2 農業の発展と支配者の出現 弥生時代は本格的な農業をおこなう時代です。それにともない耕地や貴重な道具である鉄器をめぐって、集落同士の争いが起こるようになりました。そのため集落は外敵からムラを護るための濠を備えるようになります。また、農業の発展は食料の余裕を生み出し、指導者は集落の富を管理するようになります。さらに、他の集落との抗争に勝ち残った指導者は、地域の支配者になっていきます。副葬品を持った特別に大きな墓が、そうした社会の変化から生まれました。中国の歴史書に見られる小国の「王」もこうした支配者の一部です。

3 小国の分立と中国王朝への朝貢 『漢書地理志』によれば、紀元前1世紀に日本列島には多数の「小国」が分立していました。『後漢書東夷伝』によれば、1世紀半ば北九州にあった「奴国」の王は後漢の皇帝に朝貢し、金印を授けられました。朝貢や交易によって小国の王たちは鉄や青銅器を入手したと思われます。そして『魏志倭人伝』によれば、3世紀には「邪馬台国」の女王卑弥呼が30ほどの小国を統合し、魏に朝貢しました。魏からは「親魏倭王」の称号と金印などを授けられ、それによって邪馬台国は他の小国より優位に立ち、大量の銅鏡などを入手しました。

縄文文化と土偶(Vol.2)


縄文文化と土偶

「03縄文文化の1万年」,「歴史へゴー!長野の尖石縄文遺跡群」16~19頁

ここで学びたいこと

1 狩猟漁労採集を組み合わせた新石器文化 縄文時代は地質学では完新世で、気候は旧石器時代よりずっと温暖になります。海面上昇により日本列島は大陸から離れ、東アジアの文化の直接的な影響は少なくなります。また広葉樹の森で得られる木の実や、鹿・イノシシなどの中型動物、魚貝類が新たに食料となって、生活は前の時代より安定し豊かになります。磨製石器、弓矢、土器という新たな道具を使用することから、縄文時代は新石器文化の時代です。しかし本格的な農業や牧畜はおこなわれず、狩猟漁労と植物の採集・栽培を組み合わせた、日本独特の新石器文化でした。後期には西日本でイネ・ヒエ・アワなどの畑作も始まりました。

2 集落の交流と物資の交換 縄文時代は数十人程度の集団が集落を作って定住生活を送りました。食料をはじめ生活に必要な物は集落の周辺で自給自足をしました。しかし他の地域の集落との間に緩やかな交流もあり、石器の材料の黒曜石など居住する地域で手に入らない品は、遠い産地から物々交換で入手しました。

3 貧富の差のない社会 豊かになったとはいえ、縄文時代は食料のほとんどを自然に依存していました。そのため集落では常に共同で働き、得られた食料は集落内の秩序に従って分配されました。集団には統率者や呪術師は存在しましたが、特別に立派な墓や副葬品の多い墓は無く、貧富や身分の差の明瞭に表れない社会でした。

4 呪術の発達 自然に依存する社会は、獲物が捕れなければただちに飢えに直面します。そのため自然の恵みを祈る呪術が発達しました。縄文土器の複雑な文様や、女性をかたどった土偶はその表れです。

人類のはじまりと日本列島(Vol.2)


人類のはじまりと日本列島
  
「01人類の進化と祖先の登場」,「02日本人はどこから来たか」12~15頁」

 ここで学びたいこと

1 直立二足歩行が人類への第一歩 人類はまず直立によって手が自由に使えるようになり、道具を作製し使用することが出来るようになりました。道具を作製することは脳を発達させ、直立姿勢によって、発達した脳を持つ頭を支えることもできるようになりました。また声帯の位置が変わったことによって言葉が発達し、言葉により協力して、大型の動物を狩ることができるようになりました。火も扱えるようになって、食物の種類も増え、寒さもしのげるようになりました。直立が出発点となって、人類は他の動物と異なる発展をとげるようになったのです。

2 アフリカ単一起源説 直立二足歩行した猿人が現れたのは約450万年前ですが、その後何種類もの直立二足歩行する人類の祖先が現れては絶滅していきました。その一部がアジアに進出してジャワ原人や北京原人、ヨーロッパに進出してネアンデルタール人となりました。そして今から20万年ほど前アフリカに出現したホモサピエンスが、10万年ほど前にアフリカを出て世界に広がり、現代の人類共通の祖先になったということが、遺伝子研究によって明らかになりました。

3 日本列島は大陸と陸続き 今から200万年前から1万年ほど前までの更新世は現在より気候が寒く、100万年ほど前からは特に寒い氷期が間氷期をはさんでおとずれる氷河時代でした。そのため氷期には海面が下がって、大陸と陸続きになりました。この時期に東アジアから渡って来た人々が、縄文時代以降次々と渡来した人々との混血を経て、現在日本列島に住む人々となりました。

4 日本の旧石器時代 日本列島に人が住みついたのは、確実なところでは4万年ほど前です。彼らは打製石器を主な道具とし、移動しながら狩と採集の生活を送っていました。その遺跡は日本列島のほぼ全域から5,000か所も発見されています。

コラム そこに眠っていた歴史 3 出雲大社―巨大空中神殿の謎―(Vol.2)

コラム そこに眠っていた歴史 3

出雲大社―巨大空中神殿の謎―

前文5~6頁 

「空中神殿」という表現自体ふさわしいとは思いませんが、本文で使用されているので、便宜上ここでもこの表現を使います。

1 出雲大社の本殿の大きさはどのくらい?

現在の本殿(1744年造営)の大きさは、床面が約10.9m四方、高さは屋根の千(ち)木(ぎ)(棒状の飾り)先端までで約24m、という巨大なものです。しかし、以前はもっと大きかったと言います。そのことを伝える資料として、教科書は「雲太・和二・京三」という「こども唄」を紹介しています。日本で背の高い建物は、「出雲太郎(大社本殿)が一番、次に大和二郎(大仏殿)・京都三郎(大極殿)である」というのです(6頁)。これだけでは説明が不十分なので補足をしましょう。まず唄の出典です。これは平安時代(970年)に源(みなもと)為(のため)憲(のり)がまとめた、貴族の子弟が受験勉強などのための基本事項を「くちずさみながら暗記する」ための本の一節で「唄」ではありません。本の名を「口遊」(くちずさみ)と言い、文中には「掛け算九九」などもあり、江戸時代に寺子屋の教材にもなりました。では問題の高さはどの程度なのでしょう。48mほど(現在の2倍)あったと言うのです。

コラム そこに眠っていた歴史 2 盗掘穴から1300年前の星空を発見!(Vol.2)

コラム そこに眠っていた歴史 2

盗掘穴から1300年前の星空を発見!

前文3~4頁

※ 3頁にある、北斗・玄武・白虎の写真は「裏焼き」のため、左右が逆になっています。注意してください。

1 高松塚古墳とキトラ古墳とは? 

両古墳とも小さな横穴式古墳で、石室も、棺を入れると人も入れないほどです。被葬者もわかりません。しかし2つの小さな終末期古墳を有名にしたのが、他に類例のない壁画でした。壁画は、漆喰で平らに仕上げられた壁面の上に、筆で丁寧に描かれています。
高松塚発掘の際、一番下の地層から690年前後の須恵器が見つかり、築造時期は7世紀末から8世紀初めと推定されました。キトラ古墳もほぼ同時期とされています。すなわち2つの古墳の壁画は、大陸の政治、文化の影響を受けて、天武天皇や持統天皇により律令国家の枠組みが確立しつつあった時代、白鳳文化に属する文化財です。
  この時代、宮殿や寺院などの建築が増えるにつれ、技術者集団の組織化が進み、701年の大宝律令では中務省の中に画工司(えだくみのつかさ)が置かれ、ばらばらだった画工集団をまとめる部署ができます。「四神図」のうち両古墳に共通する三神は、下図(粉本(ふんぽん))が同じとされています。両古墳の築造・装飾には、共通の技術者集団がかかわったのかも知れません。

「どう教えるか?」Vol.2 各時代の総論を掲載しました。

「どう教えるか?」Vol.2の各時代の総論にあたる記事を掲載しました。
ぜひご覧いただき、学校の授業や家庭での指導にご活用ください!

近世を学ぶために(Vol.2)


近世を学ぶために

1 社会の基本構造を見誤る教科書
―「ゆたかな百姓・町人」と「困窮する武士」―

「武士の生活が借金と物価高で圧迫されるのとうらはらに、現金に余裕ができた町人や百姓」(120頁)という記述のように、この教科書では「ゆたかな百姓・町人」と「困窮する武士」という対比がしばしば登場します。はたして、中学生が江戸時代の社会の基本的な枠組みを学ぶとき、この対比的イメージを柱にしてよいのでしょうか。
武士は農民経営をどうみていたか そもそも、当時の武士は百姓をどのように考えていたのでしょうか。高崎藩の郡奉行大石(おおいし)久(ひさ)敬(たか)が書いた代官所役人などの行政マニュアル『地方(じかた)凡例録(はんれいろく)』(1794(寛政6)年)をみてみましょう。この本は、その一部が未完成であることを残念がった水野忠邦(天保改革の指導者)が完成に力を貸したり、財政通でしられる維新の元勲井上馨(かおる)が、明治のはじめ、大蔵省高官になったとき「地方凡例録の如き一部の書を大成(たいせい)致」したいと述べたりしているように、大変信頼されていた書物です。そこに示されている「作徳凡勘定之事(さくとくおよそかんじょうのこと)」(巻之六)という一般的な農家の経営モデルでは、家族5人暮らし、田畑5.5反をもつ一般的な百姓の家の収穫高、年貢、肥料や借馬代などの必要経費をトータルすると、経営は1両1分余不足の赤字経営になり、農業の合間におこなう蚕やたばこ、薪など土地にあった男女の稼ぎでしのいでいるとされています。作者大石久敬は、これが一般的な形であるが、「病難(びょうなん)等にて不慮(ふりょ)の物入(ものいり)等あれば取り続き難(がた)き者多し(生計を維持できない者が多い)」とのべ、「国政に携わる人は、この大旨を知らずんばあるべからず(知っておくべきだ)」といっています。商品作物生産は、確実に社会の富を上昇させ、豪農もあらわれますが、それにもかかわらず、19世紀の一般の百姓は転落すれすれの状態にあることは為政者として知っておくべきだといっていたのです。



中世を学ぶために(Vol.2)


中世を学ぶために

1 時代区分の仕方について
日本中世の始まりの時期について、研究者によっていろいろな説が出されています。しかし現在、大局的に見れば、11世紀後半から12世紀前半頃とするのが通説となっているといえます。中世の始まりの時期の確定は、中世という時代・社会の構造・特質・体制をどうとらえるかということにかかわるのですが、今日では、以下のような点が指標とされています。まず、この時期に荘園化が全国的に進み、その波に乗って武士がさらに力を得て中央政治をも動かすようになったこと、その結果、政治的には武家の力を活用した院政が成立したことなどです。
このような時代区分の指標は、多くの教科書に反映されています。例えば、帝国版で、中世を扱った第3章「武家政治と東アジア」の第1節「武士の世のはじまり」の最初の項目は、11世紀半ば過ぎからの荘園の寄進のことを記した「増える荘園」となっており、それに「武士の役割」の項目が続いています。
では、自由社版はどうでしょうか。巻末の年表2では、「1016 藤原道長が摂政となる」から「1192 源頼朝が征夷大将軍となる」までが、古代から中世への過渡期として斜線で示されています。しかし、本文では、2章の第1節のはじめが「19平氏の繁栄と滅亡」となっており、その最初の項は12世紀中期の“保元・平治の乱”で、“平氏の政権”がそれに続いています。つまり、荘園に関する記述や武士の登場や成長については1章の古代の末尾に記され、その結果であるはずの武家の政治(平氏政権)から中世が始まったというようになっています。律令制の矛盾から荘園が発生し、武士が登場して、そうした背景の中で中央政治が摂関政治から院政、そして平氏政権へと移り、本格的な武家政権としての鎌倉幕府が開かれるに至るという歴史の流れや因果関係を、この教科書では、 「平氏の繁栄と滅亡」という政変で、前後に断ち切っているのです。


原始・古代を学ぶために(Vol.2)


原始・古代を学ぶために

1 今年話題の平城京は794年まで都だった?
今年2010年は平城京遷都1300年の年です。生徒の中には、平城宮の復元された大極殿などを見に行った人もいるでしょう。<遷都1300年だから、710年に遷都をしたのか。ところで何年まで平城京に都が置かれたのだろう?>と考え、手元の歴史の教科書を調べてみようとする生徒がいても、それは自然なことでしょう。自由社の教科書は遷都について本文はやや曖昧な記述なので、章末の[歴史の豆辞典]というまとめで確認する生徒もいるはずです。そこ(64頁)には「平城京:710~94年:およそ80年間を奈良時代という」と書いてあります。素直に読めば、<794年までの84年間が平城京の時代だ>と生徒は考えるでしょう。先生方は<それは違う>とお気づきでしょう。710年から都となった平城京は、784年に長岡京に遷都され、その10年後の794年に平安京に遷都されます。自由社も巻末の年表には「784都を京都(長岡京)に移す」と書いてありますが、まとめに明らかな間違いがあることは教科書としては問題でしょう。ただ、このような間違いだけならば、一覧表にすれば済むことで、この冊子まで作る必要はないのですが、それだけではない問題が自由社の教科書にはあるのです。


『どう教えるか』Vol.2の掲載を開始します!

『自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?』Vol. 2の「はじめに」を掲載しました。
今後、本文の掲載を進めていきます。

『どう教えるか?』Vol.2は前近代編です。
原始・古代から近世までの内容について検討を加えています。
ぜひご覧いただき、ご活用ください。

はじめに(Vol. 2)


はじめに

 今年4月から、横浜市内の18教科書採択地区中8地区の公立中学校では、自由社版『新編 新しい教科書』の使用がはじまっています。私たち横浜教科書研究会は、この教科書で授業を行うことになる社会科の先生のために、さらに多くの市民の方々に向けて、本書の第1号を4月に刊行しました。そこでは、「歴史を学ぶことの意味」を論じるとともに、いくつかのコラムをとりあげてその記述の誤りや問題点を指摘しました。いかがだったでしょうか。
今回刊行した第2号は、いよいよ本論に入り、原始・古代・中世・近世の前近代編です。「歴史の授業で学びたいこと」、「教科書を使う際に注意すべきこと」、「授業のためのアドバイス」などを提示しています。私たちは、近年の歴史学の成果にもとづいて執筆する努力をいたしました。きっとお役に立つことと思います。

この4月に生徒に渡された教科書(供給本)は、昨年の採択決定後に内容も含めて40箇所も訂正したことが明らかになっています。これは異例なことです。研究者や市民から多くの間違いが指摘されたため、自由社が文部科学省に訂正申請をしたからです。横浜市教育委員会が採択したこの教科書は、私たちの点検で、今なお問題点や間違いの多いことが判明しています。多角的な検証が必要です。

なお、学校教育法第34条の2には、「教科用図書以外の図書その他の教材で、有益なものは、これを使用することができる」とあります。また、新しい中学校学習指導要領(社会 歴史的分野)には「様々な資料を活用して歴史的事象を多面的・多角的に考察し公正に判断するとともに適切に表現する能力と態度を育てる」とあります。個々の教師、授業をする上で教科書を補う教材作りのために、さまざまな参考文献や資料類を使うことは大切です。「教科書を教える」だけではなく「教科書で教える」ことが、広い視野に立ったよい授業を保証するからです。
私たちが刊行している冊子は、先生方が教科書を使用することを前提にした上で、教材活用の参考にするために作成したものです。なんら違法な行為ではありません。大いに活用してください。
次回は、第3号の近現代編の発行を予定しています。

2010年7月10日

横浜教科書研究会