自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
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朱印船貿易から鎖国へ(Vol.2)

朱印船貿易から鎖国へ

「34朱印船貿易から鎖国へ」104~105頁

ここで学びたいこと

1 朱印船貿易と日本町 家康は、東南アジアの国々との親善を求めながら、日本からの貿易船には、海外渡航を許可する朱印状を与え、アジア海域での貿易を積極的に奨励し、その動向を掌握しようとしました。朱印状を得た西国の大名や京都、長崎などの豪商たちは貿易船を派遣し、莫大な利益を得ました。大量の銀や銅、硫黄などを輸出し、中国産の生糸や絹織物、またアジア各地からの鮫皮・鹿革・木綿・砂糖・香木などを輸入し、日本国内で売却していたのです。貿易が盛んになり、朱印船が多く渡航する地域には、移住する人も増加し日本町ができました。(104頁の地図)

2 キリスト教の禁止政策と貿易の統制 幕府は貿易の利益を確保するために、海外との行き来を統制していなかったので、キリスト教については、徹底した取締りができませんでした。イギリス・オランダからは「スペインには領土的野心がある」ことを伝えられ、その懸念もでてきました。また、キリシタンの「人は神の前に平等」という信仰で結ばれた団結心による反抗も恐怖でした。そのため、禁教令をはじめ宣教師の国外追放やキリシタンの弾圧、日本人の海外渡航や帰国の禁止など、次々に厳しい統制策をとるようになりました。

3 島原・天草の一揆 1637年に総勢3万7千人の農民による大規模な一揆が起きました。この両地は、かつてキリシタン大名による支配地域でした。島原藩主松倉氏、天草藩主寺沢氏は重い年貢を課した上に、とれた野菜ひとつにも税をかけました。キリシタンへは、厳罰を与えました。箕(みの)踊りと称して藁(わら)を体に巻き火あぶりにする、妊娠中の母親を水牢へ閉じ込める、雲仙の火口へ投げ込むなど、過酷を極めていました。このような支配への不満が高まっており、農民らは、ついに天草四郎を大将にして、原城に立てこもったのです。この激しい抵抗に対して、幕府は12万人もの大軍で包囲し、海上からオランダの軍艦による威圧もかりて、4ヶ月もかかってようやく鎮圧しました。この一揆に驚いた幕府は、ポルトガル船の来航を禁止しました。

4 幕府の宗教対策 幕府は島原・天草一揆をキリシタンの反乱と宣伝し、各地でも一層の弾圧を実施し、あわせてポルトガル人の国外退去を命じました。さらに、キリシタンの撲滅を図るため、絵踏みの強化や宗門改め制度の実施を徹底しました。こうして、全ての人々に仏教徒としての登録が義務づけられ、寺院によって誕生から死亡までが管理される仕組みがつくられたのです。

5 長崎出島での貿易 ヨーロッパ人では、オランダ人だけが、日本に残留し貿易を許可されました。オランダ人の信仰するキリスト教は、イエズス会とは異なるプロテスタントなので、布教はしないから、という条件でした。出島では厳しい監視下の生活と特殊な貿易方法が採られました。なお、この貿易は、オランダ政府との正式な国交によるものではありません。オランダ東インド会社(VOC)との貿易です。VOCはオランダ政府から特許状を受けた国策の会社です。アジアの拠点として、インドネシアのバタビア(ジャカルタ)に本拠を置き、総督が各地の商館を統治していました。

ここが問題 

1 104頁の朱印船の絵は、あまりにも小さすぎて、生徒がじっくり観察しながら、思考を深める教材として配慮されていません。人物の服装や朱印状のことも説明があり、教え込む記述になっています。これでは、発見の楽しさも体験できません。東書94頁の朱印船と朱印状の絵と設問が生徒に観察させるのには、参考になります。

2 104頁4~5行目「朱印船は、安南(アンナン)、フィリピン、東南アジア各地に出かけ、活発な活動を展開した」とあります。国名の呼称が当時と現在とが入り混じり、統一性がなく正しくありません。しかも、両国とも東南アジアの国であり、生徒が混乱しかねない表現です。104頁の地図を見ながらきちんと確認する必要があります。

3 104頁9~10行目「山田長政のように、シャム(現在のタイ)の国王から、高い官位を与えられたものもいた」とあります。山田長政については、不明な点が多く、タイに密出国したともいわれています。彼は、国王が日本町アユタヤに作った日本人部隊を中心とする軍団の指揮官、いわば傭兵隊長のような地位を与えられ、その後オークプラ(伯爵)に叙せられました。彼の名が教科書や紙芝居、雑誌などに大きく登場したのは、太平洋戦争下で「大東亜共栄圏」が国策とされ、第5期国定教科書(1942年)に東南アジアの地域が大幅に取り入れられるようになってからです。地理・国史・国語・音楽・修身等の教科書に掲載され、「日本の武名を南方の天地にとどろかした」(初等科修身二)英雄として讃えられ、子どもたちに憧れと戦意を抱かせたのです。このような人物を、あえて教科書に取り上げた意図はどこにあるのでしょうか。

4 105頁16~17行目「鎖国の最大のねらいは、外国による侵略の危険の防止と国内秩序の安定のために、キリスト教を禁止することにあった」と説明されています。キリスト教の禁止は大きな理由ですが、一面的な捉え方です。幕府が体制の維持のために「鎖国」政策を採ったもうひとつの理由が貿易統制です。この両面からの対策として把握することが大切です。

5 「島原の乱」の語について。他の教科書は「島原・天草一揆」と記しています。当時から「いくさ」や「一揆」といわれていただけでなく、キリスト教徒が多く、強い団結心で結ばれた抵抗の経過からも、「一揆」とよぶのがふさわしく、「反乱」とする支配者側からの観点は、農民の意志を表していません。

アドバイス

当時は「鎖国」(国を鎖す)という言葉はありませんでした。1801年にオランダ通詞の志筑忠雄がケンペル著『日本誌』の一部を翻訳・造語したもので、江戸時代の末期ごろから使われて来ました。が、江戸幕府の外交実態にそぐわないという理由から、近年見直しもされています。具体的には、次のテーマをご覧下さい。

秀吉の朝鮮侵略(Vol.2)

秀吉の朝鮮侵略

 「31豊臣秀吉の政治と朝鮮出兵」96~97頁

ここで学びたいこと

1 朝鮮侵略の背景  中国の明帝国が栄えていた15世紀には、東アジアの周辺国が明に朝貢することによって国際的な秩序が保たれていました。しかし、16世紀になると、中国沿岸部の商人による交易の拡大(後期倭寇)や、中国商人とともに新たに東アジアの通交関係に割り込んできたポルトガルなどのヨーロッパ勢力の動きがさかんになり、国際秩序は崩壊の兆しを見せていました。朝鮮侵略の背景には、このような東アジア情勢の変化がありました。

2 朝鮮侵略の原因 秀吉は、全国統一する前から、このような明中心の朝貢体制が崩れてゆく機会をとらえて中国さらにインドまでも征服し、自ら一大帝国をつくりあげるという構想(妄想)をもっていました。戦いにより領地を広げていく戦略を、国内だけでなく、海外でも実行しようとしたのです。そのため、国内統一後、ただちに朝鮮にたいして明への道案内を求めました。ところが、それが拒否されたので、肥前名護屋(佐賀県)に巨大な城を構え、15万人もの大軍を朝鮮半島に送り始めました。このように、朝鮮侵略は、秀吉のアジア征服の野望が直接の原因となってはじめられました。

3 戦争のようすと抵抗 15~16世紀、日本は戦国時代をむかえていましたが、朝鮮では長く平和が続いていました。また朝鮮は日本についての正確な情報もつかんでいませんでした。そのような時に、戦争によって鍛えられた秀吉軍が鉄砲を駆使して攻撃してきたため、朝鮮国内は混乱し、ひと月ほどで、朝鮮北部の中心平壌(ピョンヤン)まで占領されてしまいました。戦争の知らせを聞いた国王が都から脱出したこともあって、軍は十分な抵抗ができず、反撃はまず義兵や民衆によって行われました。女性も投石などで抵抗したことが記録にあり、最近も、頭部に刀傷を負って死亡した女性の頭骸骨が発掘されています。やがて、朝鮮軍が態勢を整え、李(イ)舜(スン)臣(シン)の率いる水軍が制海権を奪うなど反撃に転じ、義兵の抵抗もさらに激しくなりました。また、明も、朝鮮北部まで侵略した秀吉軍の明への進入を防ぎ、自国の利益を守るため、大軍を送ってきました。その結果、秀吉軍は劣勢に追い込まれていきました。いったん明との講和が図られましたが、不利な戦況を認めようとしない秀吉は、明の示した講和内容に激怒し、朝鮮南部に14万人の兵を送り、再び戦いが起こりました。1598年の秀吉の死によって、悲惨な戦争はようやく終わったのです。

4 戦争の結果 戦争によって、朝鮮の兵士、一般民衆はもちろんのこと、日本の兵士や駆り出された農民や漁民(その数は兵士より多いといわれる)、明軍にも大きな犠牲が出ました。また、朝鮮の文化財、自然も大きな被害を受けました。世界遺産であるソウルの景福宮(王宮)など、文化財の多くはこの時期に破壊され、のちに再建されたものです。朝鮮では、戦争によって社会が混乱し立ち直るのに多くの時間がかかりました。その後の植民地化とあわせて、日本人への怨恨が今に伝わっています。さらに、戦争は豊臣政権崩壊を早める一因にもなりました。明も、戦争後ほどなく滅び、中国中心の秩序が解体して、日本、朝鮮、琉球は、それぞれ独自に外交を進めていくことになります。このように朝鮮侵略は東アジア全体に影響を与えた大戦争でした。

ここが問題

1 ただ軍隊を派遣するだけではなく、領土を奪うことを目的として相手を攻撃することは、侵略といいます。教科書の表題には「豊臣秀吉の政治と朝鮮出兵」とありますが、他の教科書や多くの書籍は侵略と表現しており、ここでは侵略と書くべきです。

2 97頁13行目に「明との和平交渉のために兵を引いた」とありますが、実際は講和中に8万人もの軍を残して次の戦いに備えていました。また、戦争の原因・経過・結果については、秀吉の野望に加え、東アジアの国際環境からも考える必要があります。「明の皇女を天皇の后にせよ」などという一方的な講和条件が決裂を招いたのは当然でしょう。

3 加害については具体的に説明しないと戦いの本質がわかりません。秀吉は、武将たちに朝鮮人の皆殺しを命じました。そして戦功のあかしとして、首の代わりに耳や鼻を送れと指示しました。耳塚(鼻塚)は、耳、鼻を切り取られた人々を「供養」する塚です。現存する鼻請取状には、吉川家の18350個など、28881個もの朝鮮の人々の鼻が切り取られ、塩漬けにされて日本にもたらされたことが書いてあります。

4 「歴史のこの人陶祖李参平」では、「李参平はそのまま帰化し」(97頁)と書かれています。しかし、自ら進んで日本にとどまったのではなく、さまざまな事情から帰れなかったのが真相でしょう。今でも陶工の子孫は先祖の姓を名乗り(有田焼の李氏、薩摩焼の沈氏など)、帰国できなかった先祖をしのんでいるといいます。朝鮮から連れてこられた5万人(20万人という説もある) におよぶ人のうち、その後帰国できたのは、わずか2千人ほどでした。日本やポルトガルの人買いに奴隷のように売られた人も多かったのです。また、李参平が伝えたのは陶器ではなく磁器の焼成技術の間違いです。

アドバイス

旧500ウォン紙幣には、朝鮮の水軍司令官李舜臣の肖像と亀甲船が描かれていました。亀甲船とは相手が乗り移れないように船の甲板を針のように鋭い突起で覆い、側面に銃眼をつけた軍船です。また朝鮮各地には李舜臣像が建っています。なぜ李舜臣がお札の図になったり像が建てられたりするのかを考えさせてみるのもよいでしょう。

信長・秀吉による全国統一(Vol.2)

信長・秀吉による全国統一

    「30信長と秀吉の全国統一」,「31豊臣秀吉の政治と朝鮮出兵」94~96頁

ここで学びたいこと
1 信長・秀吉の全国統一への動き 中学生には、信長・秀吉・家康という有名な3人にスポットを当てて天下統一を見ていくことはわかりやすいと思います。しかし、信長や秀吉を個人的英雄としてのみ扱うのではなく、あくまで3人のとった政策が、何のために、何をめざしたのかを具体的に扱うことが大切です。

2 信長・秀吉の政治 今までの戦国大名と違って、統一を成し遂げつつあった信長は、軍事的な面だけではなく、楽市楽座、関所の廃止など、都市や流通も積極的に支配下に置く政策をとり、さらに秀吉は、領主が先祖代々の土地に住み、維持するしくみ(在地領主制)を否定することで、武士による戦国の争乱を一掃していきました。

3 太閤検地と刀狩 その際秀吉は、「検地尺」と「京ます」を統一し、太閤検地によって、全国の農村を一つの基準で統一的に支配する基礎を推し進めていった点をおさえましょう。また、同時に刀狩をすすめ、身分を制度的に固定化させ、農民の一揆も防ぐ兵農分離をおこないました。こうして、領主としての立場から全国を統一的に支配し、安定した支配秩序を作り出していったのです。

ここが問題

1 94頁16行目「このように仏教勢力を嫌った信長は」というような、仏教に対する個人的な好き嫌いの感情による政策であったような書き方は、事実の本質を見失わせます。比叡山焼き討ちや一向一揆に対する容赦ない弾圧に見られる信長の残忍性には、古い権威を認めない新しい支配者という側面と、民衆の一つの信仰による強固な結束が、天下統一の障害になるとして排除したという側面との両側面があるのです。

2 95頁1行目「楽市・楽座の政策をとって、城下の商工業者には自由な営業を認め、流通のさまたげとなっていた各地の関所を廃止した」という記述のみでは、一方で堺の自治権を奪ったという事実が抜け落ちています「堺の自治権をうばうなど、商人や職人たちを支配下に置く政策もとりました」(帝国95頁6~7行目)という指摘が重要です。また、東書・帝国版では「自由な営業」の中身として、「市場での税を免除した」とはっきり書かれています。具体性がなく、あいまいな表現の「自由な営業」では十分な理解ができません。

3 96頁1~7行目 従来の大名ごとの検地では、土地を測量する長さの単位も、米を量るますの大きさもバラバラでした。太閤検地の意味を理解させるには、全国統一の「検地尺」と「京ます」を使わせたことが重要な意味を持っていますが、書かれていません。東書版では検地によって「全国の土地が統一的な基準であらわされました」と明記し、「検地尺」と「京ます」が写真に載っています。

4 96頁3行目「土地の等級と石高を示す検地帳を作成した」とありますが、土地の等級、石高以外に、測量した田畑の面積を記し、その田畑を実際耕している耕作者の名を記したのです。検地のねらいを考えさせる上で、欠かせないことがらです。

5 検地によって「農民は土地の所有権を認められた」(96頁5~6行目)とありますが、あくまでも、自分の持ち分の、石高に応じた年貢などの負担を義務づけられるようになったという点を、しっかりおさえる必要があります。検地の目的=実際に耕作している農民に土地の権利を認め、年貢を課すため、という点が重要です。

6 刀狩令によって、「こうして身分の区別が確定し、安定した社会秩序がつくられていった」(96頁11行目)という記述があります。刀狩による兵農分離は、武士の争乱と農民の一揆を防ぐという点で「安定した社会秩序」を作り出しますが、それらによって身分が固定化させられ、住む場所まで分けられていく兵農分離の体制が作られるのです。この点をしっかりおさえる必要があります。検地や刀狩によって、農村にいた地侍たちの存在は否定され、農民たちの抵抗をおさえ、安定して支配するしくみがつくられていったのです。

アドバイス

1 自由社の教科書記述は、生徒たちに考えさせるところがない点が大きな問題です。94頁の「長篠合戦図屏風」はじっくり見させ、考えさせましょう。ここでは生徒たちに話し合わせましょう。「大将は、どこにいるか?」「どちらが勝ったと思うか。その理由は?」「戦いの様子は、今までとどこが違ったのか?」「戦国時代にどんな影響が出てくるのだろうか?」など考えさせ、多くの死傷者が出ることにも気づかせましょう。

2 96頁の「検地図絵」から、「どんな人がいるか?」「何を持っているのだろう。」「何をしているのだろう?」「どうやって測っているのだろう?」と発問してみましょう。検地尺を使って、どうやって測るのか、検地尺(帝国96頁の検地尺の写真)を模造し、教室に持ち込んだり、さおの長さを想像したりしながら、いろいろ考えさせましょう。資料集などに検地帳の実物があれば、解読させるのもいいと思います。そして、検地について、農民の気持ちを想像させたり、検地の目的をじゅうぶん考えさせましょう。

3 96頁の「刀狩令」の資料をじっくり読ませましょう。「刀狩とは何をすることなのか?」「秀吉は、何のために刀狩をするといっているのか?」「農民はひたすら何をすればいいと書かれているのか?」と問いかけ、刀狩の目的やその後の社会を考えさせましょう。

ヨーロッパ人の来航(Vol.2)

ヨーロッパ人の来航

「28ヨーロッパ人の世界進出開始」,「29ヨーロッパ人の日本来航」90~93頁

ここで学びたいこと

1 大航海時代とは? 大航海時代は、ヨーロッパ人の外洋航海活動が世界中に広がり、諸地域に波紋を起した時代です。イスラム文化圏に属するオスマン帝国は、地中海交易とインド洋交易の仲介をしていました。一方、ポルトガル・スペイン両国は直接交易を求めて、インドに向かう航路の開拓を始めます。スペインの援助で西回り航路をとったコロンブスは「アメリカ大陸」に到着し、それがアメリカ古代文明を崩壊させる端緒となりました。教科書の南蛮屏風にある船は、黒人や豹を乗せており、長崎に来るまで通ってきた地域を示しています。

2 新航路開拓とイエズス会 新航路開拓の目的の一つは、アジアとの直接交易でした。一方、イエズス会の世界布教は、教皇庁による宗教改革運動への対抗手段の一つでもありましたので、この新しい航路を利用して世界布教を行い、カトリック圏の拡大をはかりました。

3 鉄砲とキリスト教の伝来 インド洋や東アジア海域へのポルトガルの進出は、従来からその海域にあった交易網に参加する形をとりました。たとえば、ポルトガルのガマの船団は、アフリカ東海岸で水先案内人を雇い、その案内でインド洋を横断してカリカットに到着できたのです。鉄砲を伝えたポルトガル人も、後期倭寇の船に乗り種子島に来たのです。ザビエルは、ポルトガルの拠点マラッカで日本の情報を知り、その後東アジア海域交易網を利用して来日し、キリスト教を伝えます。キリスト教信者の数は、30万人に達したと言われています。

4 鉄砲の影響と南蛮貿易 伝来した鉄砲は戦法を変化させ、戦国時代の統一を早めました。信長は、戦国の世を勝ち抜くためその威力をいち早く見抜き、その調達と管理に長け、戦術に旨く利用しました。
当時明は、日本に倭寇の拠点があるため、日明間の民間交易を禁止していました。このため両国間で生糸・絹などを仲介する交易の利益は大きく、ポルトガル船もこの交易に参加しました。南蛮船は他にも時計などの珍しい産物をもたらしたので、大名の中には南蛮貿易の利益を目当てに、キリスト教に入信する者も現れました。

ここが問題

1 イスラム勢力の扱い方 教科書では、オスマン帝国が西欧商人の通行を妨げた(90頁)とあります。しかし実際には、16世紀初頭に東地中海でオスマン帝国の支配が確立して地域間の争いが収まると、共通の商業慣習のもとで安全が保証されたのです。この頃イスラム圏との交易は、ヴェネチアなどの北イタリア商人が独占していました。この教科書は、イスラム勢力を単純にキリスト教勢力の対抗勢力と見なし、航海技術の発達に果たしたイスラム文化の役割などに触れていません。イスラム勢力の学問・芸術面での貢献をもっとしっかり記述すべきです。

2 ポルトガルとスペインによる地球分割計画の強調 1494年のトルデシリャス条約で取り決められた経線により、「ブラジル」はポルトガル領となりました。その後両国はアジアをめざしますが、現地政権と既存の交易網のために、条約の決めた経線をアジア側へ延ばしても、その線は効力を持ちませんでした。「まるで饅頭を二つに分けるように地球を分割し」自分たちの勢力圏を決めた、という91頁の記述は、ヨーロッパの脅威を過度に強調しています。この教科書の特徴をよく示した記述です。

3 日本の鉄砲生産量は当時世界一? 教科書では当時「日本は世界一の鉄砲生産国」と92頁で記述しています。まず鉄砲の生産数については、鉄砲伝来研究で用いられる16世紀の資料メンデス・ピント著『東洋遍歴記』に関係する記述があります。1556年ピントは、大分で数人の商人から「日本全島に三十万挺以上の鉄砲があり、彼らだけでも六度にわたって二万五千挺の鉄砲を交易品として琉球に送った」と聞いたと記述しています。しかし、この数字は誇張もはなはだしいというのが研究者一般の意見です。また琉球は、当時武器の輸出入を行っていない国だったので、この証言自体の信憑性にも疑問があります。この教科書がこの資料に基づいているのならば、この記述のままでは、単純な「日本人礼賛論」につながりかねません。

4 93頁注「当時世界では銀は金と同じかそれ以上の価値を持っていた」 この文は金銀比価(同じ重さの金と銀の値打ちの違い)が同じになったという誤解をあたえます。当時、交易決済では銀の方が金以上の頻度で用いられた、と解釈するのが妥当でしょう。

5 キリシタン大名の保護で、長崎、山口、京都などに教会(南蛮寺)が作られた? 最初のキリシタン大名は、1563年に洗礼を受けた大村純忠です。1568年に長崎初の教会の建設には、彼の保護があったのでしょう。しかし1551年、山口に日本初の教会が建った時の領主大内氏はキリシタンではありません。また1576年、京都初の教会の建設に便宜をはかったのは信長です。したがって、93頁のこの記述は誤解を生む表現です。

アドバイス  

インド洋交易網と東アジア海域交易網 インド洋では1~2世紀頃から季節風を利用した交易が盛んで、対等な取引を前提とする「交易と契約の支配する交流の海」でした。インド洋ではダウ船が、東アジア海域では中国起源のジャンク船が主に用いられました。マレー半島やインドネシア地域は、インド洋と東アジアの両交易網の中継地でした。出会い交易により航海日数を大幅に短縮できたので、各地に港市が作られ、様々な人々が集まり、その中には日本人や中国人もいました。1570年代から明の海禁政策はゆるみはじめ、中国人の民間商人が東アジア貿易網で大きな役割を果たし始めます。また、太平洋を東から来航したスペインもこの交易網に加わり、フィリピンを拠点に、メキシコから運んだ銀を用い、主に中国商人との交易に従事しました。こうした交易網の状況は、17世紀の中頃まで続きます。

近世を学ぶために(Vol.2)

近世を学ぶために

1 社会の基本構造を見誤る教科書―「ゆたかな百姓・町人」と「困窮する武士」―

「武士の生活が借金と物価高で圧迫されるのとうらはらに、現金に余裕ができた町人や百姓」(120頁)という記述のように、この教科書では「ゆたかな百姓・町人」と「困窮する武士」という対比がしばしば登場します。はたして、中学生が江戸時代の社会の基本的な枠組みを学ぶとき、この対比的イメージを柱にしてよいのでしょうか。

武士は農民経営をどうみていたか そもそも、当時の武士は百姓をどのように考えていたのでしょうか。高崎藩の郡奉行大石(おおいし)久(ひさ)敬(たか)が書いた代官所役人などの行政マニュアル『地方(じかた)凡例録(はんれいろく)』(1794(寛政6)年)をみてみましょう。この本は、その一部が未完成であることを残念がった水野忠邦(天保改革の指導者)が完成に力を貸したり、財政通でしられる維新の元勲井上馨(かおる)が、明治のはじめ、大蔵省高官になったとき「地方凡例録の如き一部の書を大成(たいせい)致」したいと述べたりしているように、大変信頼されていた書物です。そこに示されている「作徳凡勘定之事(さくとくおよそかんじょうのこと)」(巻之六)という一般的な農家の経営モデルでは、家族5人暮らし、田畑5.5反をもつ一般的な百姓の家の収穫高、年貢、肥料や借馬代などの必要経費をトータルすると、経営は1両1分余不足の赤字経営になり、農業の合間におこなう蚕やたばこ、薪など土地にあった男女の稼ぎでしのいでいるとされています。作者大石久敬は、これが一般的な形であるが、「病難(びょうなん)等にて不慮(ふりょ)の物入(ものいり)等あれば取り続き難(がた)き者多し(生計を維持できない者が多い)」とのべ、「国政に携わる人は、この大旨を知らずんばあるべからず(知っておくべきだ)」といっています。商品作物生産は、確実に社会の富を上昇させ、豪農もあらわれますが、それにもかかわらず、19世紀の一般の百姓は転落すれすれの状態にあることは為政者として知っておくべきだといっていたのです。
渋沢栄一の体験では、肝心の百姓自身は、武士と百姓の関係についてどう考えていたのでしょうか。たとえば、この教科書の代表執筆者藤岡信勝氏らが称賛する明治の実業家渋沢栄一は、榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県)の裕福な百姓の生まれですが、同村を支配する小さな大名安部氏が、若様の初登城だ、姫君の嫁入りだなどといっては、有無をいわさず御用金を押しつけてくるのを経験し、はじめて「幕府の政治がよくないという考えが心にうかんできました」と述べています。これは、渋沢が家業の農業をすてて攘夷・討幕の運動に身を投じる一因にもなったできごとですが、この大名が特別に悪辣なわけではありません。構造的な財政難のなかで、領主は18世紀以来倹約を唱え続け、国産と呼ばれる藩の専売商品の生産をすすめるなどさまざまな打開策を試みますが、最終的には、年貢増徴や御用金賦課など、百姓・町人への収奪をすすめるしか対策はないのです。幕末の薩摩藩が、商人に申しつけた500万両の借金を無利子250年賦返済とし、事実上踏み倒したことは有名な事例です。このような武士と百姓・町人との基本的な関係を踏まえない記述には、大きな問題があります。

2 政治・経済と社会の関係がつかめない教科書―百姓一揆・打ちこわしは迷惑行為か―

仁政の考え方 「そうはいっても、江戸時代は、仁政は領主の責務だったし、百姓も領主に仁政を要求し、聞き入れられたこともあったのではないですか?」という疑問もあるでしょう。たしかに、18世紀後半になると、名奉行・名代官が登場し、仁政という考え方も唱えられるようになります。しかし、江戸時代の社会が、「異なる身分の者どうしが依存しあいながら、戦乱のない江戸時代の安定した社会を支えていた」(108頁)とするのは、領主の百姓・町人への支配を視野に入れない書き方といえるでしょう。
年貢増徴政策と百姓一揆 幕府や大名の民衆統治の転換の最初は、17世紀半ば、天草・島原一揆と寛永の大飢饉によって強圧的な幕府政治が根底から揺さぶられ、農村の安定がなくては政治も安定しないことがはっきりした時期でした。この最初の転換を経て、農業生産力の向上と技術の進歩により商品生産と流通が活発に展開しますが、一方で幕府・大名は次第に財政難に陥り、積極的な年貢増徴が行われました。幕府勘定奉行神尾(かんお)春(はる)央(ひで)の「胡麻(ごま)の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり」という言葉はこの時期のものです。しかし、18世紀前半の享保期には増徴反対の一揆が多発し、18世紀半ばには、助郷の負担増加に反対する伝馬(てんま)騒動(そうどう)(1764年)のように、参加者20万人ともいわれる大規模な百姓一揆がおこるようになりました。

農村再建と都市対策 杉田玄白の感想 このような百姓の動きにたいして、幕府の政策は再び変化をみせます。すなわち、一方では、伝馬騒動の鎮圧のために鉄砲を用いたり、百姓一揆の禁令(1770年ほか)を出したりして百姓の強訴を押さえる一方、備荒作物・貯穀制度などによって農村の再建と、農村から都市に流れ込んだ下層民対策をすすめるようになったのです。名代官が輩出し、仁政が注目されるのもこの頃です。寛政改革を断行した松平定信が登場したのも、江戸全域に広がった打ちこわしで事実上江戸の政治・経済機能がマヒするという、前代未聞の事態をうけてのことでした。『解体新書』を翻訳出版した蘭学者杉田玄白は、「もし今度の騒動なくば、御政治は改まるまじき」(『後見(のちみ)草(ぐさ)』)と述べています。

一揆・打ちこわしは迷惑行為? この教科書では、「不当に重い年貢を課せられた場合などには、百姓一揆をおこしてその非を訴えた」(109頁)、「気候不順でおきた大きな飢饉(天明の飢饉)で、多数の人々が餓死し、一揆や打ちこわしが多発した」(117頁)と書きますが、具体的に政治や経済の変化との関連を考える視点は希薄です。それどころか、「(二宮)金次郎が生まれた天明年間、飢饉や打ちこわしなどで人々が苦しんでいた時代だった」(115頁)と、打ちこわしが、多くの人々に迷惑をかけ、いやがられていたような書き方をしています。いったい、この「人々」とは誰をさすのでしょうか。天明の江戸打ちこわしについて、町役人経験者といわれる亀谷老夫は、「江戸中こぞって打ちこわしをよき気味と思い、誰一人として打ちこわし勢を憎む者がいない」といっています。なぜなら、江戸の町人の70~80%は“その日(ひ)稼(かせ)ぎの者”と呼ばれ、異変の際には御救いを受けなければ、たちまち飢えてしまう人びとだったからです。
一揆や打ちこわしをきちんと取り上げることは、江戸時代の政治、経済の変化、町や村のあり方を理解するためにも必要なことなのです。


3 実態を無視して天皇と朝廷にこだわる記述
自由社の教科書と他社の教科書の大きく違う点は、「江戸幕府の全国統治のよりどころは、徳川家が朝廷から得た征夷大将軍という称号にあった。」(101頁)とし、江戸時代の天皇や朝廷の力を実態以上に一面的に強調する記述が多いことです。

幕府と天皇 はたして、徳川氏は、「征夷大将軍」の称号をもらったから全国支配が可能になったのでしょうか。征夷大将軍の称号は、武家の第一人者が得ることが鎌倉時代以来の伝統であり、徳川氏もその伝統にしたがいました。しかし、徳川氏の全国支配を可能にしたのは、全石高の4分の1におよぶ700万石を領有し圧倒的な力によって諸大名を屈服・臣従させるだけの実力を備えていたからであり、全国支配の根本的なよりどころは、なんといってもその実力にあったからです。朝廷の力についてみても、大名や一部の旗本は、武家官位といって、官職(中納言のような職名)と位階(従(じゅう)五位(ごい)上(じょう)等の律令国家の官人の序列)を朝廷から授与されましたが、朝廷が自由に官位を与えたわけではなく、官位授与も改元も実際の決定権は将軍にあったのです。このような幕府と朝廷の関係は、幕府がよりどころとしたというよりは、幕府の全国支配にとって有用で役立つからこそ、その維持をはかったとみるのが通説でしょう。

民衆からみた天皇 一方、江戸時代の民衆が天皇をどうみていたかについても、最近研究がすすんできました。幕末に多数現れた、尊皇攘夷に荒れ狂う世相を諷刺する狂歌や都々逸(どどいつ)、落書、なぞなぞ、ちょぼくれ(乞食坊主が物乞いをするときの現在のラップのような歌)などのなかには、「天子と尊び乞食と賤(いや)しみ、隔(へだ)てみれば月とすっぽん、沓(くつ)と冠(かんむり)の違いはあれども、ギャッと産まれたその時は、皇子皇女もまるはだか、・・・楽屋をいえば、天子も乞食も、自ら耕し食うにあらず、精々(せいぜい)辛苦(しんく)民の汗を貰(もら)いて食うのはお仲間にて・・」(芝居口上「人間万事裏表」)といった天皇の神権的権威を笑い飛ばすものまで現れます。天皇や朝廷は幕末期には広く注目されますが、天皇を尊ぶ強烈な尊皇思想が力をもつ一方、天皇も人間だと言い放つ文芸がうまれるように、一色にまとめることは不可能な混沌とした時代でした。
中学校の授業で江戸時代を学ぶとき、天皇や朝廷についてどこまで触れる必要があるのについてはさまざまな考え方があるでしょう。中学校学習指導要領では、「国家・社会及び文化の発展や人々の生活の向上に尽くした歴史上の人物」を理解させるとされているに過ぎず、天皇についてはふれられていません。しかしどのような側面についても一面的な過度の強調は避けるべきでしょう。また、そういう複雑な時代であることをみないと、幕府政治から天皇を中心とする国家体制を構築していくときの葛藤にみちた政治や社会の動きも理解しにくいのではないでしょうか。


4 “創られた伝統”を教えることのむずかしさと問題点

日清・日露戦争以降の歴史像? 現代の子どもたちが歴史や伝統に学ぶことは、きわめて大切です。しかし、その内容が、その時代の実態を明らかにした研究から離れてしまうことは問題です。また、後世につくられた特定の歴史イメージを、そのまま歴史的事実として教え込んでしまうことも危ういことです。その点で、二宮尊徳や、「武士道」、間宮林蔵など、この教科書では、日清・日露戦争以降の時期にイメージが作られ、今日明らかになっている江戸時代の姿とは異なる時代イメージをそのまま記述する箇所が散見され、注意を要します(尊徳と武士道は本書vol.1、林蔵はvol.2のコラム参照)。

「武士道」の宣揚 日清戦争以降、欧米向けに日本道徳の価値を宣揚したり、兵士となる明治国家の国民に教える道徳思想として、「武士道」が脚光を浴びるようになりました。唱えたのは、キリスト教徒、国家主義者、旧幕臣などさまざまでした。「武士道」というキーワードをつなぎのことばとして、赤穂浪士と、実際は赤穂浪士を徒党とさえ見なした徳川武士とが、ともに「武士道」を体現した人びととして語られはじめたように、「武士道」は近代になってから国民的道徳思想となったものです。

創られた伝統” 近代になってから新たに“創られた伝統”を、この教科書のように、現実の歴史だと思いこむことは危険ですが、授業で取り上げるかどうかは別として、伝統が創られていくという事実は知っておいてよいことです。
同時に、“創られた伝統”を取り上げるのであれば、著者の気に入った“伝統”だけを取り上げるのも配慮に欠けることです。たとえば、佐倉宗(さくらそう)吾(ご)という人物は、将軍に越訴した義民として知られ、赤穂浪士と同じく、宗吾を主人公にした歌舞伎「東山桜(ひがしやまさくら)荘子(ぞうし)」が今日もたびたび上演されていますが、実は、佐倉宗吾や一揆の実像については、惣五郎という百姓がいて刑死し、祟り神(たた がみ)として祀られたということ以外、ほとんどわかっていません。しかし、自由民権運動が高揚した1882~3年に出版された『東洋民権百家伝』によって、宗吾は一気に日本第一の義民・民権家として知られるようになります。これも“創られた伝統”の一つだといえるでしょう。
“創られた伝統”を中学校の授業で取り上げるのは、大変難しいことです。しかし、あえて教科書で取り上げるのであれば、どんな時代に、どのような背景のもとで“伝統”が創られ、歴史が再評価されていくのかを公平にみていくべきです。そうでなければ、後の時代のメディアや文芸、政策的な誘導によってうまれた歴史イメージを受け入れるだけとなり、もはやそれを歴史学習ということはできません。

江戸時代の記述には、以上述べてきたような問題点がたくさんあり、子どもたちが使用する場合、よくよく注意を要する教科書だというべきでしょう。