コラム 貨幣経済と米経済の攻防って何?
江戸時代の経済の変化について、自由社教科書には次のような説明があります。
江戸時代の経済の歴史では、民衆にとって便利な貨幣経済と、武士の生活を支えている米経済の攻防が繰り返された。幕府に強力な指導者が出て行われる「改革」は米経済体制の立て直しを意味し、かならず緊縮財政をともなった。市中に流通する貨幣は減り、倹約令も出されて民衆の生活が制約されるために文化もいきおい低調になるが、その緊縮政策がゆるみ、貨幣流通が息を吹きかえすと文化も再び花開くのであった。(120頁1~8行目)
「先生、貨幣経済と米経済の攻防ってなんですか?」と質問されたら、どう答えたらよいでしょう? そもそも貨幣は、民衆には「便利」で、武士には困る存在なのでしょうか? また、貨幣の流通量の変化によって、文化が発展したり衰退したりするのでしょうか?
貨幣経済とは 中世の日本では、強力な統一権力が存在しなかったために、信用ある貨幣が発行されず、中国の銅銭(宋銭・明銭)を輸入して国内で使っていました。国内で貨幣を発行できるようになったのは、豊臣秀吉、徳川家康が国内を統一してからのことです。しかし、貨幣は発行されただけで広く流通するわけではありません。律令時代の富本銭や和同開珎などが社会にゆきわたらなかったように、貨幣が必要とされるような商品の交換が行なわれなければ、普及しないのです。江戸時代には、中世とは比べものにならないほど商品生産が盛んになり、貨幣も広く社会全体で用いられるようになりました。つまり、貨幣経済の発達とは、商品経済の発達を意味しているといえるでしょう。
武士の収入では、江戸時代の武士にとって、貨幣経済は攻防によって敵対すべきものなのでしょうか? 江戸時代は、兵農分離によって武士が城下町に集住させられていたため、幕府・大名やその家臣たちは年貢米を商品として売って貨幣に換え、その代金で必要な物資を手にいれるしくみになっていました。米経済という言葉は歴史学の用語ではなく、この教科書にも説明がありませんが(もちろん高校の教科書や受験にも登場しません)、武士が年貢米に頼って生活するという意味だとすれば、米経済による武士の生活は、はじめから貨幣経済(商品経済)にくみこまれており、貨幣経済と対立し攻防するものではないというべきでしょう。武士は、はじめから商品としての米の流通売買を前提に財政を維持していたのです。さらに、くわしくいうと、武士も全国的な商品流通を前提として生きるという社会のしくみを作ったのが、豊臣秀吉や徳川家康の行った兵農分離政策でした。
武士の財政困難 しかし、貨幣経済の発達は、武士に大変大きな影響を与えました。新田開発が進み、需要以上に米が生産され市場に出回るようになれば、米価は低迷します。一方、さまざまな商品が生産され生産が需要に追いつかないと、その値段は上がり、武士の支出は増加します。米価安、諸物価高――大きく見てこの動きが進んだこと、そして、その結果、年貢米の販売代金で財政をまかなっていた幕府や大名が財政難に苦しむことになったこと、それが、貨幣経済が武士に与えた影響でした。
18世紀以降、幕府や大名の財政難を示すエピソードは数多くあります。盛岡藩では、1723(享保7)年の大晦日、江戸の藩邸に品物の代金を取り立てに来た商人たちに支払いができず、商人たちが元日になっても藩邸を退去しないため、藩の重役が商人たちに財政困難の事情を告げて謝り、その面前で切腹し、ようやく帰ってもらいました。また、庄内藩主の酒井忠徳は、1772(安永元)年の参勤交代の帰途、福島宿で旅費がなくなってしまい、「14万石の大名でありながら旅費も不足するようでは、将軍さまへのご奉公など、とてもつとまるまい」と泣いて嘆いたそうです。参勤交代の旅費すら出せずに困っていた大名は、東国でも西国でも珍しくありません。
貨幣経済を利用する このような、18世紀以降の幕府や藩の財政難の大きな原因は、貨幣経済(商品経済)の発達にありました。幕府や藩は、倹約だけでなく、まず年貢を増徴してなんとかしようとします。また、それが難しくなると、逆に商品の生産や流通を盛んにして、田沼政治のように、その利益に税をかけ商人から上納金を取り立てました。
しかし、財政難の対策は、それだけではありません。特に、幕府には、大名にはできない収入増加策がありました。それは、貨幣の改鋳です。金や銀の含有量を減らして、質の悪い金貨や銀貨をたくさん発行し収入とする―つまり“お金が足りないから、お金を作ってしまう”のです。貨幣経済との「攻防」どころか、これ以上の貨幣の利用はありません。幕府にとって貨幣はきわめて「便利」な存在でもありました。
元禄時代(17世紀末)に初めて行われた貨幣改鋳で、幕府は450万両の出目(利益)を得ました。その後、貨幣政策はいろいろ変化しますが、19世紀には、改鋳による出目なしには幕府財政はなりたたなくなっていました。強力な幕政指導者水野忠邦が天保改革をおこなっていた1844年、幕府収入の33.3%(856万両)は改鋳によるものでした。「改革」だからといって、貨幣流通量を減らしたというわけではないのです。まして、文化の発達・衰退が貨幣の流通量によるという新説(奇説?)に根拠はないというべきでしょう。
この教科書を使う場合には、「貨幣経済と米経済の攻防」などという、江戸時代の経済についての誤った説明を削除して、商品生産が社会にどのような影響を与えたのかをきちんと理解させることが大切です(本冊子86頁「幕藩体制の動揺と改革」参照)。
自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?
2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
→横浜教科書研究会のとりくみ
■これまでに発表した声明を掲載します。
→これまでに発表した声明
■自由社版教科書を使用して授業をしなければならない、現場の先生方、保護者の方、自由社版教科書を使っている中学生を指導される塾の先生方に、お読みいただきたい冊子です。
→自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?
■私たちの活動にぜひご協力ください。
→カンパのお願い
■研究会主催の集会などイベントのご案内です。ぜひご参加ください。
→イベントのお知らせ
■私たちの活動に関連する有益な書籍をご紹介します。
→参考書籍
江戸の町人と化政文化(Vol.2)
江戸の町人と化政文化
「41江戸の町人と化政文化」,「江戸の下町へタイムスリップ」120~123頁
ここで学びたいこと
1 江戸が中心となった化政文化 江戸時代の後半期になると、江戸は100万人の大消費都市として繁栄します。武士の支配する政治的都市「天下のお膝元」で人口の約半分を占めたのは町人でした。豪商の出現とともに、中・下層の町人たちが次第に経済力を持つようになり、豊かな町人文化を発達させる担い手となりました。
2 庶民の親しんだ文芸 小説・川柳・狂歌 寺子屋の普及だけではなく、町人は店の看板・蕎麦屋の品書きの札など日常の生活環境からも、読み書きを身につけることも多く、識字率が高まりました。内容は、『東海(とうかい)道中(どうちゅう)膝栗毛(ひざくりげ)』に代表される滑稽本(こっけいぼん)をはじめ多種多様。文字にはルビがふってあり、挿絵のあるものも多く、庶民の娯楽として親しまれ、貸本屋が繁盛しました。一方で、社会批判的な小説は、厳しい取締りを受け弾圧されました。例えば、寛政の改革の時、洒落(しゃれ)本(ぼん)作家の山東(さんとう)京伝(きょうでん)は、手鎖50日の刑を受け、版元の蔦屋(つたや)重三郎(じゅうざぶろう)も財産の半分を没収されました。町人たちは政治に翻弄され「お上には逆らえない」状況でも、諷刺や皮肉の精神を発揮しています。
3 浮世絵の人気は 役者絵・美人画・力士絵・風景画 錦絵と呼ばれる多色刷りの版画の技術が生まれ、安価で販売できるようになり、浮世絵は全盛期を迎えました。この背景には、歌舞伎や寄席、相撲、旅など、経済的な余裕を持つようになった町人たちの娯楽のひろがりがありました。
121頁に歌舞伎の絵があります。舞台、満員の客席(桟敷・1~3階・舞台の袖付近)、花道、などの様子を観察させてみましょう。花道では市川(いちかわ)団十郎(だんじゅうろう)が『暫(しばらく)』を演じる名場面です。「成田屋(なりたや)!」と声がかかっていることでしょう。歌舞伎の興行は、朝6時ごろから、昼食をはさんで夕方まで催されました。封建制社会のさまざまな抑圧に置かれていた町人にとって、芝居小屋という独特の空間で、実際はかなわない願望が舞台で具現されていくのですから、これほど解放されるひとときはありません。しかも、派手な隈取や豪奢な衣装と道具による様式美に魅かれ、役者への憧れを募らせました。人気の高い役者絵は、飛ぶように売れたそうです。木戸銭(きどせん)の出せない町人は、せめて役者絵をと買い求め、寄席などを楽しみました。
4 地方文化の発達 陸上の交通路も水上の航路も急速に整備され、ネットワークができ、物も人も頻繁に交流するようになりました。三都の文化は、城下町や港町をはじめ各地に伝えられ、独自の文化が栄えるようになりました。例えば、農村でも、小林一茶(俳人・信濃)や良寛(りょうかん)(歌人・越後)などが優れた作品を残しています。
ここが問題
1 120頁の冒頭~8行目は、用語や記述などに学問的裏付がありません。意味が分かりにくく、教科書としては、不適切な説明です(本冊子92頁、コラム「貨幣経済と米経済の攻防って何?」参照)。
2 江戸中心の説明しかなく、地方の文化についての視点が見られません。 例えば、各地に芝居小屋ができ、農村歌舞伎なども演じられるようになりました。また、地方都市の発展の姿として北前船の拠点のひとつであった酒田の例(帝国118~119頁:歴史の舞台⑤酒田/豪商のくらし)は、イメージを高める教材です。
3 123頁6~13行目 ヨーロッパにおける「ジャポニスム」の扱い方が、問題です。
「モネ、ドガ、セザンヌ、ゴッホ、ロートレック、ゴーギャンなどだ。いずれも今日、世界のもっとも有名な画家であり、その中のいく人かは、印象派という近代絵画最大の変革の旗手として知られている。江戸の町人文化の中から生まれた浮世絵がこのような画家たちを刺激して世界の文化を動かしたのだから愉快ではないか」。
この画家たちが、浮世絵の影響を受けたことはよく知られていますが、浮世絵が、「世界の文化を動かした」とは、誇張です。19世紀半ばのジャポニスム以前に、ヨーロッパでは16世紀後半から18世紀にかけて、シノワズリー(中国趣味)が流行し、中国風の室内装飾や美術工芸品が愛好され、収集されました。このことには全く触れずに、日本文化の影響だけを強調し、個人的な感想の記述で締めくくるのは、教科書としては適切ではありません。文化の交わりや影響は、多種多様です。事実を客観的に示すことで、その広がりを学べます。帝国130頁には広重とゴッホの絵が並べられての設問があります。生徒に観察と思考をさせながら、絵解きをすることの方が、関心を高め発見する楽しい授業が出来るのではないでしょうか。
アドバイス
1 江戸時代の町人になったつもりで、川柳や狂歌にこめられた皮肉を、探ってみましょう。
川柳 「かみなりを、まねて腹掛け やっとさせ」「役人の子ハ にぎにぎを よくおぼえ」「侍が 来てハ買ッてく 高やうじ(楊枝)」
狂歌 「白河の清きに魚もすみかねて、もとのにごりの田沼こひしき」
「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶぶんぶ(文武文武)と夜もねられず」
2 庶民に人気のあった屋台でのファーストフードの話です。寿司といえば、それまでは、関西と同じ押しずしで、江戸前の浅瀬で取れた雑魚(ざこ)を処理する食物でした。今の「江戸前」(握りずし)が発明されたのは文政(ぶんせい)期(1818~1830)だといわれています。天麩羅(てんぷら)は安永(あんえい)年間(1772~1781)に江戸で流行しはじめました。関西で菜種栽培が盛んになり、食用油が普及していたので、江戸前の魚貝を素材にして、ころもをつけて簡単に揚がり、腹持ちの良いものとして愛好されました。江戸前も天麩羅も美味しく味わえたのは、濃い口醤油が、江戸で普及していたからです。それは、千葉県の野田や銚子で生産されていました。
3 「幕の内弁当」の由来は、歌舞伎の幕間(幕の内)の休憩時間に、桟敷や土間で食べた簡便な弁当です。箱を仕切って、野菜の煮物・焼魚・玉子焼き・漬物、などを見栄えよく盛り、黒ゴマを振りかけた俵型のご飯を詰めたものが一般的でした。
「41江戸の町人と化政文化」,「江戸の下町へタイムスリップ」120~123頁
ここで学びたいこと
1 江戸が中心となった化政文化 江戸時代の後半期になると、江戸は100万人の大消費都市として繁栄します。武士の支配する政治的都市「天下のお膝元」で人口の約半分を占めたのは町人でした。豪商の出現とともに、中・下層の町人たちが次第に経済力を持つようになり、豊かな町人文化を発達させる担い手となりました。
2 庶民の親しんだ文芸 小説・川柳・狂歌 寺子屋の普及だけではなく、町人は店の看板・蕎麦屋の品書きの札など日常の生活環境からも、読み書きを身につけることも多く、識字率が高まりました。内容は、『東海(とうかい)道中(どうちゅう)膝栗毛(ひざくりげ)』に代表される滑稽本(こっけいぼん)をはじめ多種多様。文字にはルビがふってあり、挿絵のあるものも多く、庶民の娯楽として親しまれ、貸本屋が繁盛しました。一方で、社会批判的な小説は、厳しい取締りを受け弾圧されました。例えば、寛政の改革の時、洒落(しゃれ)本(ぼん)作家の山東(さんとう)京伝(きょうでん)は、手鎖50日の刑を受け、版元の蔦屋(つたや)重三郎(じゅうざぶろう)も財産の半分を没収されました。町人たちは政治に翻弄され「お上には逆らえない」状況でも、諷刺や皮肉の精神を発揮しています。
3 浮世絵の人気は 役者絵・美人画・力士絵・風景画 錦絵と呼ばれる多色刷りの版画の技術が生まれ、安価で販売できるようになり、浮世絵は全盛期を迎えました。この背景には、歌舞伎や寄席、相撲、旅など、経済的な余裕を持つようになった町人たちの娯楽のひろがりがありました。
121頁に歌舞伎の絵があります。舞台、満員の客席(桟敷・1~3階・舞台の袖付近)、花道、などの様子を観察させてみましょう。花道では市川(いちかわ)団十郎(だんじゅうろう)が『暫(しばらく)』を演じる名場面です。「成田屋(なりたや)!」と声がかかっていることでしょう。歌舞伎の興行は、朝6時ごろから、昼食をはさんで夕方まで催されました。封建制社会のさまざまな抑圧に置かれていた町人にとって、芝居小屋という独特の空間で、実際はかなわない願望が舞台で具現されていくのですから、これほど解放されるひとときはありません。しかも、派手な隈取や豪奢な衣装と道具による様式美に魅かれ、役者への憧れを募らせました。人気の高い役者絵は、飛ぶように売れたそうです。木戸銭(きどせん)の出せない町人は、せめて役者絵をと買い求め、寄席などを楽しみました。
4 地方文化の発達 陸上の交通路も水上の航路も急速に整備され、ネットワークができ、物も人も頻繁に交流するようになりました。三都の文化は、城下町や港町をはじめ各地に伝えられ、独自の文化が栄えるようになりました。例えば、農村でも、小林一茶(俳人・信濃)や良寛(りょうかん)(歌人・越後)などが優れた作品を残しています。
ここが問題
1 120頁の冒頭~8行目は、用語や記述などに学問的裏付がありません。意味が分かりにくく、教科書としては、不適切な説明です(本冊子92頁、コラム「貨幣経済と米経済の攻防って何?」参照)。
2 江戸中心の説明しかなく、地方の文化についての視点が見られません。 例えば、各地に芝居小屋ができ、農村歌舞伎なども演じられるようになりました。また、地方都市の発展の姿として北前船の拠点のひとつであった酒田の例(帝国118~119頁:歴史の舞台⑤酒田/豪商のくらし)は、イメージを高める教材です。
3 123頁6~13行目 ヨーロッパにおける「ジャポニスム」の扱い方が、問題です。
「モネ、ドガ、セザンヌ、ゴッホ、ロートレック、ゴーギャンなどだ。いずれも今日、世界のもっとも有名な画家であり、その中のいく人かは、印象派という近代絵画最大の変革の旗手として知られている。江戸の町人文化の中から生まれた浮世絵がこのような画家たちを刺激して世界の文化を動かしたのだから愉快ではないか」。
この画家たちが、浮世絵の影響を受けたことはよく知られていますが、浮世絵が、「世界の文化を動かした」とは、誇張です。19世紀半ばのジャポニスム以前に、ヨーロッパでは16世紀後半から18世紀にかけて、シノワズリー(中国趣味)が流行し、中国風の室内装飾や美術工芸品が愛好され、収集されました。このことには全く触れずに、日本文化の影響だけを強調し、個人的な感想の記述で締めくくるのは、教科書としては適切ではありません。文化の交わりや影響は、多種多様です。事実を客観的に示すことで、その広がりを学べます。帝国130頁には広重とゴッホの絵が並べられての設問があります。生徒に観察と思考をさせながら、絵解きをすることの方が、関心を高め発見する楽しい授業が出来るのではないでしょうか。
アドバイス
1 江戸時代の町人になったつもりで、川柳や狂歌にこめられた皮肉を、探ってみましょう。
川柳 「かみなりを、まねて腹掛け やっとさせ」「役人の子ハ にぎにぎを よくおぼえ」「侍が 来てハ買ッてく 高やうじ(楊枝)」
狂歌 「白河の清きに魚もすみかねて、もとのにごりの田沼こひしき」
「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶぶんぶ(文武文武)と夜もねられず」
2 庶民に人気のあった屋台でのファーストフードの話です。寿司といえば、それまでは、関西と同じ押しずしで、江戸前の浅瀬で取れた雑魚(ざこ)を処理する食物でした。今の「江戸前」(握りずし)が発明されたのは文政(ぶんせい)期(1818~1830)だといわれています。天麩羅(てんぷら)は安永(あんえい)年間(1772~1781)に江戸で流行しはじめました。関西で菜種栽培が盛んになり、食用油が普及していたので、江戸前の魚貝を素材にして、ころもをつけて簡単に揚がり、腹持ちの良いものとして愛好されました。江戸前も天麩羅も美味しく味わえたのは、濃い口醤油が、江戸で普及していたからです。それは、千葉県の野田や銚子で生産されていました。
3 「幕の内弁当」の由来は、歌舞伎の幕間(幕の内)の休憩時間に、桟敷や土間で食べた簡便な弁当です。箱を仕切って、野菜の煮物・焼魚・玉子焼き・漬物、などを見栄えよく盛り、黒ゴマを振りかけた俵型のご飯を詰めたものが一般的でした。
コラム 江戸時代の飢饉の記述について(Vol.2)
コラム 江戸時代の飢饉の記述について
素っ気ない記述 飢饉もしくは凶作についての記述は全体に素っ気なく不親切です。「歴史のこの人」の青木昆陽の説明に、「たまたま、享保年間に西国が飢饉にみまわれ、幕府は飢饉の際の食糧確保の方法を考えなければならなくなった」(117頁)と書いています。昆陽を取り上げるのはよいとしても、そのサツマイモの栽培の動機となったとする享保の飢饉については、本文にも記述がなく、西国が飢饉になったということ以外に何もわかりません。1732(享保17)年にウンカという虫が、大陸のほうから海を越えて飛来し、西日本で異常に増殖して稲を枯らし、大凶作になってしまったことくらいは説明してあげたいものです。幕府はこの西国の飢饉を救うために、大坂の御蔵や各地の城に備えてあった米、幕府領の年貢米、江戸で買い上げた米などを積極的に西日本の被災地に回しました。江戸ではそのために米価が上がってしまい、回米に関与した商人が打ちこわされています。また、鯨から採った油を水田に注ぎ、それにウンカをたたき落として駆除する方法が発明されたことなどにも触れると、享保の飢饉についての理解は深まるでしょう。
天明の飢饉の原因は浅間山の噴火か? 「産業の発展と田沼政治」では、「1783(天明3)年の浅間山噴火による気候不順でおきた大きな飢饉(天明の飢饉)で、多数の人々が餓死し、一揆や打ちこわしが多発し」(117頁)、責任を問われ田沼が辞任したと書かれています。しかし、多数の餓死者を出した天明の飢饉ははたして浅間山噴火による気候不順で起きたのでしょうか。結論からいえばきわめて短絡的な結び付けかたです。
天明の飢饉は1782(天明2)年頃から1787(天明7)年頃までを長くとらえるのが一般的なようです。1786(天明6)年の関東や西国の凶作が米価の高騰を招き、翌年5月頃、大坂・江戸など全国各地の都市で連鎖的に打ちこわしが発生し、田沼の失脚につながりました。ただ、「多数の人々が餓死」したのは1783(天明3)年の大凶作によるものです。餓死者は、東北地方の北部・太平洋側に集中し、30万人以上と推定されます。
浅間山の噴火は、1783年の4月頃から噴火が始まり、6月下旬から7月上旬にかけ(新暦でいえば7月下旬から8月上旬にかけ)激しく噴火し、東北の仙台や盛岡あたりまで白い「毛」のような灰が降ったと記録されています。群馬県側に大きな被害を出し、噴火による土石なだれ・泥流で約1500人が死亡したと推計されています。この浅間山の火山灰は成層圏にまで達して日光の照射を妨げ、それによる冷害でフランス革命を誘発したとまで語られることが少なくありません。東北地方では、浅間山の大噴火が起こる前から、太平洋の海の方から吹いてくる東北風、いわゆるヤマセの影響で冷たい雨の降る日が続き、低温と日照不足の天候不順であったことが知られています。浅間山の大噴煙の影響はなかったとはいいきれませんが、基本的にはヤマセの影響とみるべきでしょう。ヤマセはオホーツク高気圧が発達したときに起こる気象現象といわれています。
飢饉は自然災害? 浅間山の噴火はともかく、気候不順が飢饉を引き起こしたという書き方も、飢饉は自然災害、天災だという狭い見かたに閉じ込めかねません。飢饉というのは、冷害・旱害・風水害・虫害など農作物の被害、すなわち凶作がきっかけとなって、食べ物が不足し、死に直結していく飢えの状態に陥ることです。天候不順など天災的な要素のあることは否定できませんが、凶作がただちにおびただしい数の餓死者を生み出してしまうとはかぎらず、さまざまな人為的(政治的・経済的)な要因がからんで、飢えが作りだされたのが、少なくとも江戸時代中期・後期の大きな飢饉の特徴です。
当時の人々は飢饉を説明するとき、人々の奢(おご)り、すなわち質素倹約な生活を忘れ、ぜいたくな暮らしをするようになったからだといいました。奢りというは、貨幣経済・市場経済の発展によって、米を作る農民も年貢米を納めた残りの米を売って貨幣に換え、衣食住の消費生活の向上にあてようと考えるようになったことを意味しています。本来、農民は凶作になったときの恐さをよく知っており、それに備えて次の収穫まで米を残しておいたものです。しかし、新田開発が進み、低米価の時代が長く続きましたので、少しでも売値がよくなると、気候不順を気にとめずに手放すようになってしまいました。そこに大凶作に襲ってきたらどうなるでしょうか。むろん、藩の救済があれば人々は餓死しないで済みますが、藩もまた財政窮乏などから、年貢米に加え、農民から強制的に買い上げて江戸や大坂方面に回米していましたので、人々を飢え死から救うことができませんでした。これが東北地方における天明の飢饉の実態でした。
備荒制度の登場 こうして、藩も農民も貨幣経済の進展とともに飢饉への備えがおろそかになって天明の飢饉を招いてしまい、あらためて寛政の改革で、社倉などと呼ばれる地域社会の備荒制度が再構築されることになったのです。「寛政の改革と大御所時代」では、松平定信が「凶作や飢饉に備えて、農村に倉を設け、米を貯蔵させた」(118頁)と記述し、その肖像画の説明でも、「凶作や飢饉への備えを指導し、天明の飢饉のときも白河領内には餓死者を出さなかった」(118頁)と人物の紹介をしています。飢饉の原因を浅間山噴火だけに求めるのは、前に述べた通り誤りですが、定信が社会政策として飢饉の備えに取り組んだことはきちんと教えて欲しいところです。
想像力を働かせよう 「飢饉の発生と天保の改革」では、「19世紀前半の天保年間に、日本は凶作におそわれ、深刻な飢饉におちいった(天保の飢饉)」(118頁)と書きますが、「深刻な飢饉」とはどんな状態なのでしょうか。天明の飢饉でも「多数の人々が餓死した」というだけで、飢饉状態のなかで苦しむ人々についての想像力がまったく働きません。食べ物がなくなると人々は山野に入り木の実を拾い、草の根を掘りました。また、飢え人となって食べ物のある都市に向かい施しを受けました。はるばる江戸へのぼり、そこで保護され国元に帰された人もいました。飢饉下では盗みや放火が発生し、そのため過剰防衛になりやすく、わずかな盗みでも村人たちによって殺されてしまうこともありました。飢え死にそのものよりも疫病に罹って死んだ人のほうが多かったと記録に残されています。飢饉のとき人肉を食べたということまで生徒に語る必要はないと思いますが、飢えた人々の境遇を想像させ、飢えにならないための手だてを考えさせるのが、今日の食料・農業問題ともかかわって、飢饉を教えるさいにもっとも重要なことでしょう。
素っ気ない記述 飢饉もしくは凶作についての記述は全体に素っ気なく不親切です。「歴史のこの人」の青木昆陽の説明に、「たまたま、享保年間に西国が飢饉にみまわれ、幕府は飢饉の際の食糧確保の方法を考えなければならなくなった」(117頁)と書いています。昆陽を取り上げるのはよいとしても、そのサツマイモの栽培の動機となったとする享保の飢饉については、本文にも記述がなく、西国が飢饉になったということ以外に何もわかりません。1732(享保17)年にウンカという虫が、大陸のほうから海を越えて飛来し、西日本で異常に増殖して稲を枯らし、大凶作になってしまったことくらいは説明してあげたいものです。幕府はこの西国の飢饉を救うために、大坂の御蔵や各地の城に備えてあった米、幕府領の年貢米、江戸で買い上げた米などを積極的に西日本の被災地に回しました。江戸ではそのために米価が上がってしまい、回米に関与した商人が打ちこわされています。また、鯨から採った油を水田に注ぎ、それにウンカをたたき落として駆除する方法が発明されたことなどにも触れると、享保の飢饉についての理解は深まるでしょう。
天明の飢饉の原因は浅間山の噴火か? 「産業の発展と田沼政治」では、「1783(天明3)年の浅間山噴火による気候不順でおきた大きな飢饉(天明の飢饉)で、多数の人々が餓死し、一揆や打ちこわしが多発し」(117頁)、責任を問われ田沼が辞任したと書かれています。しかし、多数の餓死者を出した天明の飢饉ははたして浅間山噴火による気候不順で起きたのでしょうか。結論からいえばきわめて短絡的な結び付けかたです。
天明の飢饉は1782(天明2)年頃から1787(天明7)年頃までを長くとらえるのが一般的なようです。1786(天明6)年の関東や西国の凶作が米価の高騰を招き、翌年5月頃、大坂・江戸など全国各地の都市で連鎖的に打ちこわしが発生し、田沼の失脚につながりました。ただ、「多数の人々が餓死」したのは1783(天明3)年の大凶作によるものです。餓死者は、東北地方の北部・太平洋側に集中し、30万人以上と推定されます。
浅間山の噴火は、1783年の4月頃から噴火が始まり、6月下旬から7月上旬にかけ(新暦でいえば7月下旬から8月上旬にかけ)激しく噴火し、東北の仙台や盛岡あたりまで白い「毛」のような灰が降ったと記録されています。群馬県側に大きな被害を出し、噴火による土石なだれ・泥流で約1500人が死亡したと推計されています。この浅間山の火山灰は成層圏にまで達して日光の照射を妨げ、それによる冷害でフランス革命を誘発したとまで語られることが少なくありません。東北地方では、浅間山の大噴火が起こる前から、太平洋の海の方から吹いてくる東北風、いわゆるヤマセの影響で冷たい雨の降る日が続き、低温と日照不足の天候不順であったことが知られています。浅間山の大噴煙の影響はなかったとはいいきれませんが、基本的にはヤマセの影響とみるべきでしょう。ヤマセはオホーツク高気圧が発達したときに起こる気象現象といわれています。
飢饉は自然災害? 浅間山の噴火はともかく、気候不順が飢饉を引き起こしたという書き方も、飢饉は自然災害、天災だという狭い見かたに閉じ込めかねません。飢饉というのは、冷害・旱害・風水害・虫害など農作物の被害、すなわち凶作がきっかけとなって、食べ物が不足し、死に直結していく飢えの状態に陥ることです。天候不順など天災的な要素のあることは否定できませんが、凶作がただちにおびただしい数の餓死者を生み出してしまうとはかぎらず、さまざまな人為的(政治的・経済的)な要因がからんで、飢えが作りだされたのが、少なくとも江戸時代中期・後期の大きな飢饉の特徴です。
当時の人々は飢饉を説明するとき、人々の奢(おご)り、すなわち質素倹約な生活を忘れ、ぜいたくな暮らしをするようになったからだといいました。奢りというは、貨幣経済・市場経済の発展によって、米を作る農民も年貢米を納めた残りの米を売って貨幣に換え、衣食住の消費生活の向上にあてようと考えるようになったことを意味しています。本来、農民は凶作になったときの恐さをよく知っており、それに備えて次の収穫まで米を残しておいたものです。しかし、新田開発が進み、低米価の時代が長く続きましたので、少しでも売値がよくなると、気候不順を気にとめずに手放すようになってしまいました。そこに大凶作に襲ってきたらどうなるでしょうか。むろん、藩の救済があれば人々は餓死しないで済みますが、藩もまた財政窮乏などから、年貢米に加え、農民から強制的に買い上げて江戸や大坂方面に回米していましたので、人々を飢え死から救うことができませんでした。これが東北地方における天明の飢饉の実態でした。
備荒制度の登場 こうして、藩も農民も貨幣経済の進展とともに飢饉への備えがおろそかになって天明の飢饉を招いてしまい、あらためて寛政の改革で、社倉などと呼ばれる地域社会の備荒制度が再構築されることになったのです。「寛政の改革と大御所時代」では、松平定信が「凶作や飢饉に備えて、農村に倉を設け、米を貯蔵させた」(118頁)と記述し、その肖像画の説明でも、「凶作や飢饉への備えを指導し、天明の飢饉のときも白河領内には餓死者を出さなかった」(118頁)と人物の紹介をしています。飢饉の原因を浅間山噴火だけに求めるのは、前に述べた通り誤りですが、定信が社会政策として飢饉の備えに取り組んだことはきちんと教えて欲しいところです。
想像力を働かせよう 「飢饉の発生と天保の改革」では、「19世紀前半の天保年間に、日本は凶作におそわれ、深刻な飢饉におちいった(天保の飢饉)」(118頁)と書きますが、「深刻な飢饉」とはどんな状態なのでしょうか。天明の飢饉でも「多数の人々が餓死した」というだけで、飢饉状態のなかで苦しむ人々についての想像力がまったく働きません。食べ物がなくなると人々は山野に入り木の実を拾い、草の根を掘りました。また、飢え人となって食べ物のある都市に向かい施しを受けました。はるばる江戸へのぼり、そこで保護され国元に帰された人もいました。飢饉下では盗みや放火が発生し、そのため過剰防衛になりやすく、わずかな盗みでも村人たちによって殺されてしまうこともありました。飢え死にそのものよりも疫病に罹って死んだ人のほうが多かったと記録に残されています。飢饉のとき人肉を食べたということまで生徒に語る必要はないと思いますが、飢えた人々の境遇を想像させ、飢えにならないための手だてを考えさせるのが、今日の食料・農業問題ともかかわって、飢饉を教えるさいにもっとも重要なことでしょう。
幕藩体制の動揺と改革(Vol.2)
幕藩体制の動揺と改革
「39 享保の改革から田沼政治へ」,「40 寛政の改革と天保の改革」116~119頁
ここで学びたいこと
1 農村の変化 幕府の支配が揺らぎ、諸改革が必要となった背景を考えてみましょう。授業の導入として、右のグラフを生徒に示してみましょう。江戸初期、村では10~20石未満の中農などの本百姓が中心であり、幕府の年貢収入を支えていました。当時は、自給自足的な生活が中心でした。しかし、17世紀以降、貨幣経済が浸透すると、幕府を支えていた本百姓の階層分化が進み、没落する農民も出てきました。こうした農村の変化について、東京書籍版のていねいな記述がとても参考になります(106頁)。また、農村の階層分化をわかりやすく生徒に理解させるには、近畿の一農村である「河内国下小坂村」を事例にしたグラフを使うのが有効です(『神奈川県版総合歴史』浜島書店、88頁)。このグラフから、18世紀には小農以下の農家が、全体の7割以上を占めるようになり、農村に格差が広がっていることが分かります。
2 田沼意次の改革 江戸幕府が開かれてから、新田開発などによって米の生産高が順調に伸びてきたのに対し、18世紀後半以降は天候不順により、凶作と飢饉に見舞われます。年貢は天候にも左右され、安定した収入が望めません。一揆・打ちこわしも増加します。年貢に依存する限り、幕府の諸改革は成功しないとも言えます。年貢増徴策に限界を感じた田沼意次は、蝦夷地でとれた海産物の乾物(俵物)や銅を盛んに輸出して長崎貿易を活発にするなど、年貢以外の収入増大政策を積極的に展開しようとしました。しかし、田沼政治が飢饉によって終わりを告げたように、天災に耐えられる財政の仕組みを作り上げるには至りませんでした。
3 松平定信の改革(寛政改革) 定信の政策は緊縮財政でした。しかし、定信が直面したのは、農村の変化と農村から都市への人口流入などによる都市問題でした。幕府は、寛政の改革で、農村から流入しつづける人々に対してどう対処したのか、農村に対して一揆を防ぐために、天災や飢餓対策として米の備蓄を行わせたこととも併せて、生徒に考えさせてみたいところです。
ここが問題
1 この教科書の全般にわたって言えることですが、民衆の姿が見えない記述になっています。この単元では、貨幣経済の浸透による経済変動から一連の改革が実施されるが、それは民衆への負担を強いるものであり、一揆や打ちこわしにつながったという「道筋」が、この教科書では見えてこないのです。百姓一揆のピークがそれぞれの改革や飢饉と相関していることを示す帝国書院版の「②百姓一揆の発生件数」グラフ(帝国126頁)などを活用すると良いでしょう。改革や飢饉など生活負担の高まりと民衆の動きとが、連動していることを、グラフからとらえさせ、この時代の概略を押さえさせましょう。
2 116頁11~13行目「新田開発を行ったり、年貢率をあげたりして、年貢収入の増加に努めた。これによって、幕府財政の立て直しに成果をあげた」。享保の改革について、吉宗は豊作・不作・飢饉に関係なく一定の年貢を徴収する定免法を採用し、年貢率を引き上げました。それは、サツマイモのような救荒作物でしのいでも、年貢を必ず納めさせるという、幕府の厳しい姿勢を示すものです。「歴史のこの人」(117頁)の青木昆陽もそうした文脈でとらえる必要があります。この教科書に即して授業を展開すると、支配者である幕府の目線でいえば、「立て直し」の歴史になりますが、享保の改革に見られる幕府収入の拡大も、年貢率の増大や冥加金の徴収など民衆からの収奪を強化することで「成功」したのです。負担の増大に苦しむ人々が、百姓一揆や打ちこわしによって、支配者に対して「異議申し立て」をした経緯も、学習していきたい項目です。
3 117頁11~12行目「田沼の政策は目新しいものだったが、大商人が幕政に深くかかわり、その結果、賄賂が横行して批判をあびるようになった」とあります。この教科書に限らず、多くの教科書が田沼政治の特徴に賄賂の横行をあげています。しかし、賄賂は田沼時代特有のものではありません。他にどのような批判や不満が、田沼の政治に鬱積していたのかが問われます。最近の研究では、諸藩の財政を困窮させてまで遂行された田沼の専制的な政治手法が、批判や不満の背景にあったことも指摘されています。
4 118頁3~4行目「定信の改革の中心的な柱は、農村の再建だった。そのため、江戸などの都市に流れ込んだ農民に、資金をあたえて故郷の農村に帰した」とありますが、なぜ農民が農村を捨てたのかについても説明が必要です。農村が抱えた社会変動(貨幣経済の浸透、農家の支出拡大、豊作による米価の下落、収入の減少、天災、重い年貢、家産の没落と階層分化など)を想起させましょう。
アドバイス
この教科書では、「江戸の人足寄場」が紹介されています(118頁左上の図)。定信が出した旧里帰農令は農村の生産人口の増加と江戸の消費人口の抑制が狙いでしたが、こうした施設を建てざるを得ない程に、都市への人口流入が進んでいたといえます。この教科書は「職業訓練」施設と説明していますが、過酷な作業や扱いの厳しさから、寄せ場送りは、当時から恐れられていました。しかも、施設は次第に所払いとなった無宿者を収容する徒刑場の性格を持つようになりました。定信の都市問題対策の一例である「人足寄場」は、都市問題の解決ではなく、むしろ都市問題解決を先送りする政策であったことが指摘できます(松本四郎「江戸の無宿と呼ばれた人々は、どんな生活をしていたか」歴史教育者協議会編『100問100答日本の歴史』4巻、河出書房新社)。
「39 享保の改革から田沼政治へ」,「40 寛政の改革と天保の改革」116~119頁
ここで学びたいこと
1 農村の変化 幕府の支配が揺らぎ、諸改革が必要となった背景を考えてみましょう。授業の導入として、右のグラフを生徒に示してみましょう。江戸初期、村では10~20石未満の中農などの本百姓が中心であり、幕府の年貢収入を支えていました。当時は、自給自足的な生活が中心でした。しかし、17世紀以降、貨幣経済が浸透すると、幕府を支えていた本百姓の階層分化が進み、没落する農民も出てきました。こうした農村の変化について、東京書籍版のていねいな記述がとても参考になります(106頁)。また、農村の階層分化をわかりやすく生徒に理解させるには、近畿の一農村である「河内国下小坂村」を事例にしたグラフを使うのが有効です(『神奈川県版総合歴史』浜島書店、88頁)。このグラフから、18世紀には小農以下の農家が、全体の7割以上を占めるようになり、農村に格差が広がっていることが分かります。
2 田沼意次の改革 江戸幕府が開かれてから、新田開発などによって米の生産高が順調に伸びてきたのに対し、18世紀後半以降は天候不順により、凶作と飢饉に見舞われます。年貢は天候にも左右され、安定した収入が望めません。一揆・打ちこわしも増加します。年貢に依存する限り、幕府の諸改革は成功しないとも言えます。年貢増徴策に限界を感じた田沼意次は、蝦夷地でとれた海産物の乾物(俵物)や銅を盛んに輸出して長崎貿易を活発にするなど、年貢以外の収入増大政策を積極的に展開しようとしました。しかし、田沼政治が飢饉によって終わりを告げたように、天災に耐えられる財政の仕組みを作り上げるには至りませんでした。
3 松平定信の改革(寛政改革) 定信の政策は緊縮財政でした。しかし、定信が直面したのは、農村の変化と農村から都市への人口流入などによる都市問題でした。幕府は、寛政の改革で、農村から流入しつづける人々に対してどう対処したのか、農村に対して一揆を防ぐために、天災や飢餓対策として米の備蓄を行わせたこととも併せて、生徒に考えさせてみたいところです。
ここが問題
1 この教科書の全般にわたって言えることですが、民衆の姿が見えない記述になっています。この単元では、貨幣経済の浸透による経済変動から一連の改革が実施されるが、それは民衆への負担を強いるものであり、一揆や打ちこわしにつながったという「道筋」が、この教科書では見えてこないのです。百姓一揆のピークがそれぞれの改革や飢饉と相関していることを示す帝国書院版の「②百姓一揆の発生件数」グラフ(帝国126頁)などを活用すると良いでしょう。改革や飢饉など生活負担の高まりと民衆の動きとが、連動していることを、グラフからとらえさせ、この時代の概略を押さえさせましょう。
2 116頁11~13行目「新田開発を行ったり、年貢率をあげたりして、年貢収入の増加に努めた。これによって、幕府財政の立て直しに成果をあげた」。享保の改革について、吉宗は豊作・不作・飢饉に関係なく一定の年貢を徴収する定免法を採用し、年貢率を引き上げました。それは、サツマイモのような救荒作物でしのいでも、年貢を必ず納めさせるという、幕府の厳しい姿勢を示すものです。「歴史のこの人」(117頁)の青木昆陽もそうした文脈でとらえる必要があります。この教科書に即して授業を展開すると、支配者である幕府の目線でいえば、「立て直し」の歴史になりますが、享保の改革に見られる幕府収入の拡大も、年貢率の増大や冥加金の徴収など民衆からの収奪を強化することで「成功」したのです。負担の増大に苦しむ人々が、百姓一揆や打ちこわしによって、支配者に対して「異議申し立て」をした経緯も、学習していきたい項目です。
3 117頁11~12行目「田沼の政策は目新しいものだったが、大商人が幕政に深くかかわり、その結果、賄賂が横行して批判をあびるようになった」とあります。この教科書に限らず、多くの教科書が田沼政治の特徴に賄賂の横行をあげています。しかし、賄賂は田沼時代特有のものではありません。他にどのような批判や不満が、田沼の政治に鬱積していたのかが問われます。最近の研究では、諸藩の財政を困窮させてまで遂行された田沼の専制的な政治手法が、批判や不満の背景にあったことも指摘されています。
4 118頁3~4行目「定信の改革の中心的な柱は、農村の再建だった。そのため、江戸などの都市に流れ込んだ農民に、資金をあたえて故郷の農村に帰した」とありますが、なぜ農民が農村を捨てたのかについても説明が必要です。農村が抱えた社会変動(貨幣経済の浸透、農家の支出拡大、豊作による米価の下落、収入の減少、天災、重い年貢、家産の没落と階層分化など)を想起させましょう。
アドバイス
この教科書では、「江戸の人足寄場」が紹介されています(118頁左上の図)。定信が出した旧里帰農令は農村の生産人口の増加と江戸の消費人口の抑制が狙いでしたが、こうした施設を建てざるを得ない程に、都市への人口流入が進んでいたといえます。この教科書は「職業訓練」施設と説明していますが、過酷な作業や扱いの厳しさから、寄せ場送りは、当時から恐れられていました。しかも、施設は次第に所払いとなった無宿者を収容する徒刑場の性格を持つようになりました。定信の都市問題対策の一例である「人足寄場」は、都市問題の解決ではなく、むしろ都市問題解決を先送りする政策であったことが指摘できます(松本四郎「江戸の無宿と呼ばれた人々は、どんな生活をしていたか」歴史教育者協議会編『100問100答日本の歴史』4巻、河出書房新社)。
農業・産業・交通の発達(Vol.2)
農業・産業・交通の発達
「37農業・産業・交通の発達」110~111頁
ここで学びたいこと
1 大開発と農業技術の進歩 17世紀は、大開発の時代とよばれ、耕地面積はそれ以前の2倍にまで広がりました。この頃の新田開発は、年貢収入を増やすために幕府や大名が行ったものだけでなく、農民や商人もさかんに開発を行いました。横浜の場合、現在の横浜港や横浜駅の周辺は、それぞれ、17~18世紀に町人が開発した吉田新田、尾張屋新田などとよばれる新田です。現在の横浜市街の中心部はすべて江戸時代の干拓地の上にあることなどを紹介するのもよいでしょう。
2 産業と交通の発達 農民も、身近な土地での新田開発や農具の改良に努め、米や麦などの穀物だけでなく、商品として売るための、農業・漁業・手工業の生産が各地で盛んに行われるようになりました。111頁の図を使って、子どもたちが知っている特産物を探し、江戸時代の産業が現在の生活文化につながっていることに気づかせることもできます。
また、それらの商品生産が互いに関係しあって発達したことにも目をむけたいものです。江戸時代のはじめ頃まで、木綿や生糸・絹織物は朝鮮・中国から輸入されていましたが、次第に、国内での生産が盛んになりました。その結果、染料となる紅花や藍の生産がさかんになり、綿作は良質の肥料を必要とするために、肥料となる干鰯や干ニシンが求められ、網を使った大規模な漁業が盛んになります。流通の展開は貨幣経済の発達をもたらし、金・銀・銅の鉱山開発も進みました。
3 三都の繁栄 江戸時代には、江戸、大坂(大阪)、京都の三都とよばれる巨大な都市が発達しました。江戸の人口は100万人を超え、世界一の大都市になりましたが、それはなぜでしょうか?江戸の人口の半分は武士とその奉公人です。江戸には将軍の家臣(旗本と御家人)が集められ、大名も参勤交代のために1年ごとに江戸と国元を往復して生活させられました。武士の生活を支えるために、商人や職人の町も作られました。こうして、最大の城下町江戸は、政治の中心となる都市として、人口がふくれあがっていったのです。
一方、新田開発により増産された全国の年貢米や特産物は、大坂におかれた大名の蔵屋敷などに集められ、そこから菱垣廻船や樽廻船で大消費地の江戸に運ばれました。大坂は、「天下の台所」とよばれる商業の中心になりました。三都や各地の城下町が大量の年貢米の販売・消費地でもあったことにも、目を向けたいものです。
ここが問題
1 110頁1~3行目「平和な社会が到来し、人びとは安心して生活の向上をめざして働いた。幕府や大名も、農地の拡大につとめ、干潟や河川敷などを中心に新田の開発が大規模に行われた」というところは、幕府や大名が新田開発を行い、そのもとで農民が働いただけという理解にならないようにすることが大切です。横浜をはじめ、全国各地でも、農民や町人たちは、規模の大小を問わず新田開発に取り組んでいます。新田開発は、百姓や町人たちの工夫や熱意と幕府や大名の姿勢があいまって進んだとみるべきでしょう。
2 111頁8~9行目「江戸は、「将軍のおひざもと」とよばれ、商人や職人が多数集まり」というところも、城下町に自然に商人や職人が集まってくるようによめるので、注意が必要です。城下町の建設にあたっては、かならずしも商人や職人が自然に集まってくるわけではありません。大坂や江戸では、豊臣秀吉、徳川家康が商人や職人を集め、職業ごとに町をつくらせました。
右の図(割愛)は、江戸の日本橋南側の様子です。町名をみると、さまざまな商人や職人の町があったことがわかりますが、それは、幕府が積極的に商人や職人を集めて居住させたなごりです。都市が発達してゆくと、みずから都市に流入する人びとも増え、職業も入り交じるようになります。ただし、武士は武家地、町人は町人地にしか住めませんでした。人口の半分を占める50万人以上の町人たちは、江戸の土地全体の16%(約296万坪)の町人地に住んでいたのです。
アドバイス
1 この項目は、地域の教材を使いやすいところです。大岡川、鶴見川、帷子川などの下流域の開発事例から、子どもたちの関心を引き出すこともできます。
2 三都の町人の活発な経済活動を理解するために、三井越後屋の「現金掛け値なし」の図も役立ちます(帝国116頁)。
「37農業・産業・交通の発達」110~111頁
ここで学びたいこと
1 大開発と農業技術の進歩 17世紀は、大開発の時代とよばれ、耕地面積はそれ以前の2倍にまで広がりました。この頃の新田開発は、年貢収入を増やすために幕府や大名が行ったものだけでなく、農民や商人もさかんに開発を行いました。横浜の場合、現在の横浜港や横浜駅の周辺は、それぞれ、17~18世紀に町人が開発した吉田新田、尾張屋新田などとよばれる新田です。現在の横浜市街の中心部はすべて江戸時代の干拓地の上にあることなどを紹介するのもよいでしょう。
2 産業と交通の発達 農民も、身近な土地での新田開発や農具の改良に努め、米や麦などの穀物だけでなく、商品として売るための、農業・漁業・手工業の生産が各地で盛んに行われるようになりました。111頁の図を使って、子どもたちが知っている特産物を探し、江戸時代の産業が現在の生活文化につながっていることに気づかせることもできます。
また、それらの商品生産が互いに関係しあって発達したことにも目をむけたいものです。江戸時代のはじめ頃まで、木綿や生糸・絹織物は朝鮮・中国から輸入されていましたが、次第に、国内での生産が盛んになりました。その結果、染料となる紅花や藍の生産がさかんになり、綿作は良質の肥料を必要とするために、肥料となる干鰯や干ニシンが求められ、網を使った大規模な漁業が盛んになります。流通の展開は貨幣経済の発達をもたらし、金・銀・銅の鉱山開発も進みました。
3 三都の繁栄 江戸時代には、江戸、大坂(大阪)、京都の三都とよばれる巨大な都市が発達しました。江戸の人口は100万人を超え、世界一の大都市になりましたが、それはなぜでしょうか?江戸の人口の半分は武士とその奉公人です。江戸には将軍の家臣(旗本と御家人)が集められ、大名も参勤交代のために1年ごとに江戸と国元を往復して生活させられました。武士の生活を支えるために、商人や職人の町も作られました。こうして、最大の城下町江戸は、政治の中心となる都市として、人口がふくれあがっていったのです。
一方、新田開発により増産された全国の年貢米や特産物は、大坂におかれた大名の蔵屋敷などに集められ、そこから菱垣廻船や樽廻船で大消費地の江戸に運ばれました。大坂は、「天下の台所」とよばれる商業の中心になりました。三都や各地の城下町が大量の年貢米の販売・消費地でもあったことにも、目を向けたいものです。
ここが問題
1 110頁1~3行目「平和な社会が到来し、人びとは安心して生活の向上をめざして働いた。幕府や大名も、農地の拡大につとめ、干潟や河川敷などを中心に新田の開発が大規模に行われた」というところは、幕府や大名が新田開発を行い、そのもとで農民が働いただけという理解にならないようにすることが大切です。横浜をはじめ、全国各地でも、農民や町人たちは、規模の大小を問わず新田開発に取り組んでいます。新田開発は、百姓や町人たちの工夫や熱意と幕府や大名の姿勢があいまって進んだとみるべきでしょう。
2 111頁8~9行目「江戸は、「将軍のおひざもと」とよばれ、商人や職人が多数集まり」というところも、城下町に自然に商人や職人が集まってくるようによめるので、注意が必要です。城下町の建設にあたっては、かならずしも商人や職人が自然に集まってくるわけではありません。大坂や江戸では、豊臣秀吉、徳川家康が商人や職人を集め、職業ごとに町をつくらせました。
右の図(割愛)は、江戸の日本橋南側の様子です。町名をみると、さまざまな商人や職人の町があったことがわかりますが、それは、幕府が積極的に商人や職人を集めて居住させたなごりです。都市が発達してゆくと、みずから都市に流入する人びとも増え、職業も入り交じるようになります。ただし、武士は武家地、町人は町人地にしか住めませんでした。人口の半分を占める50万人以上の町人たちは、江戸の土地全体の16%(約296万坪)の町人地に住んでいたのです。
アドバイス
1 この項目は、地域の教材を使いやすいところです。大岡川、鶴見川、帷子川などの下流域の開発事例から、子どもたちの関心を引き出すこともできます。
2 三都の町人の活発な経済活動を理解するために、三井越後屋の「現金掛け値なし」の図も役立ちます(帝国116頁)。
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