自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
 →横浜教科書研究会のとりくみ
■これまでに発表した声明を掲載します。
 →これまでに発表した声明
■自由社版教科書を使用して授業をしなければならない、現場の先生方、保護者の方、自由社版教科書を使っている中学生を指導される塾の先生方に、お読みいただきたい冊子です。 
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■私たちの活動にぜひご協力ください。
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『どう教えるか?』Vol.2 中世編の掲載を完了しました!

前回の更新では鎌倉幕府の成立の部分までを掲載しました。
今回は鎌倉時代の文化から応仁の乱まで、中世に関する記事のすべてを掲載しました!

ここもたいへん間違いが多く問題ある部分です。

ぜひみなさまご覧いただき、学習に活用してください!


『どう教えるか?』Vol.2の内容はこちらから

応仁の乱が生んだ戦国大名(Vol.2)


応仁の乱が生んだ戦国大名

「27応仁の乱が生んだ戦国大名」86~87頁

ここで学びたいこと
 
1 応仁の乱 1441(嘉吉元)年に播磨の守護赤松(あかまつ)満祐(みつすけ)によって室町幕府6代将軍足利(あしかが)義教(よしのり)が殺害されたことにより(嘉(か)吉(きつ)の乱)、将軍の権力・権威は弱まり、有力守護大名による幕府の実権をめぐる対立が激しくなります。とくに8代将軍足利義政のとき、幕府の実権は細川勝元(かつもと)と山名持(もち)豊(とよ)に握られました。義政ははじめ、弟の義視を後継ぎとしていましたが、妻の日野富子が義(よし)尚(ひさ)を生んだために、次期将軍をめぐる家督争いがおこりました。細川勝元が義視を支持し、一方山名持豊は日野富子と結んで義尚を支持しました。そこに、有力守護大名の斯波家、畠山家の後継者争いが加わり、全国の守護大名を二分する戦争となったのが1467(応仁元)年の応仁の乱です。こうした家督争いの背景には、相続者の決定に際し家臣の意向を無視できなくなってきた、という事実があります。下剋上の風潮を示唆していると言えるでしょう。

2 下剋上の動き 11年におよぶ京都を主戦場とした戦争は、京都の荒廃をまねき公家や文化人の地方下向をもたらしたことで、地方文化が成熟しました。また、守護大名が本国を留守にしていた間、守護代や有力な国人たちが力をつけ、守護大名の領国支配は大きく動揺し、こうした情勢に国人たちも一揆を組織して自らの権益を守るために対応していきます。山城南部では、応仁の乱後も畠山氏の対立が続きますが、国人たちは農民らも巻き込んで、山城の国一揆を形成し、畠山氏の国外追放を実現させます。下剋上の代表的な一例であると言えましょう。

3 戦国大名の領国支配 戦国大名は、隣国の戦国大名と激しい領土獲得紛争を行いながら、分国支配をすすめていきます。とくに貫高制の採用はおさえておきたいところです。戦国大名は検地を実施することによって分国内の把握をすすめ収入増をはかり経済的な基盤を整備します。検地の結果、耕地面積を銭で換算した貫高であらわし、家臣団の軍役や農民の年貢などの役負担の基準としました。また分国法を制定する戦国大名もあらわれ、年貢を確保するために百姓の逃亡を禁じたりしています。とくに喧嘩両成敗についての規定は、家臣同士の紛争を自らの実力によって解決(自力救済)させるのではなく、戦国大名の法廷に訴えさせ、裁判権を確立させようとした点で、領国支配に関わる重要なポイントです。
 

和風を完成した室町の文化(Vol.2)


和風を完成した室町の文化

「26和風を完成した室町の文化」82~83頁
ここで学びたいこと

1 公武文化の融合 室町幕府の足利義満が、武家と公家の頂点に位置して政治を行ったことを背景にして、公家の文化と武家の文化が融合した文化が成立しました。足利義満が政治の拠点とした北(きた)山(やま)殿(どの)の舎利(しゃり)殿(でん)(金閣)は、公家文化の寝殿造と武家が保護した禅宗の仏堂を兼ね備えており、公武文化の融合を象徴しています。

2 禅宗の文化 中国大陸からもたらされた禅宗が、武家の保護を受けたため、禅宗の文化が広まりました。室町幕府によって保護された禅宗の僧は、外交や貿易で活躍するとともに、水墨画や漢詩文などの中国大陸の文化を紹介しました。また、禅僧によってもたらされた喫茶の習慣から、茶の湯が流行しました。

3 民衆の文化

田植えの時に行われた田楽や寺院の祭礼で行われた猿楽が、民衆に流行しました。田楽や猿楽は、観阿弥・世阿弥父子によって、能へと発展していきました。狂言は、能の合間に演じられた寸劇で、民衆の視点から武士や僧を風刺しました。また、絵入りの物語であるお伽草子が読まれ、現在に伝わる「浦島太郎」や「一寸法師」などの説話の原型が成立しました。



中世の都市、農村の変化(Vol.2)


中世の都市、農村の変化

「25中世の都市、農村の変化」80~81頁

ここで学びたいこと

1 惣村・都市の展開 本冊子「中世の産業の発達」(54~55頁)で詳しく述べたような諸産業の発展をも背景とし、農村では惣(惣村)とよばれる自治的な村落が、14世紀ごろから特に近畿地方を中心に広くみられるようになりました。また京都・奈良・鎌倉のほか、港・宿などに都市が生まれました。戦国時代になると、戦国大名によって城下町も作られたほか、京都・堺・博多などでは、豊かな商工業者らによる自治もおこなわれるようになりました。

2 惣村のしくみ 惣村は、有力な農民が指導者となり、寄合とよばれる村民の会議で運営される自治村落でした。村民は山野の利用やかんがい用水、領主に対する年貢の負担などをめぐる自らの主張を通すために、村の神社の祭りのための組織などを中心に結びつきを強めました。惣村は村の秩序を守るためのおきてを定めたり、自警組織をつくったりしました。81頁の「惣のおきての例」は、寄合の重要性、惣村が森林などの財産を持つこと、外部の者への惣村の警戒心を物語る史料です。また戦国時代の事例ですが、和泉(いずみの)国(くに)(現在の大阪府)日根野(ひねの)荘(しょう)入山(いりやま)田村(だむら)では飢饉となった1504年の冬、村民の命をつなぐ蕨(わらび)粉(こ)を盗んだ少年を、警戒にあたっていた村民が捕らえましたが、この少年は母親ら家族とともに殺されてしまいました。村民の生存をかけた惣村の自治は、このようにたいへん厳しいものでもありました。さらに惣村は、個々の村民が領主に納める年貢をまとめて請け負いました(村請(むらうけ)・地(じ)下(げ)請)。これは近世の村に引き継がれていきます。

中世の産業の発達(Vol.2)


中世の産業の発達

 「農業の発達」,「手工業・商業の発達」80頁
 
この項目は1頁分を2頁で構成しましたが、約500年に及ぶ時代を扱うのに、教科書には時代による変化の記述がほとんどなく、具体的な内容の説明も乏しいからです。

ここで学びたいこと

1 農業の発展 二毛作(にもうさく)を材料に、農業の発展を考えましょう。鎌倉時代に水車による灌漑が広まると、田に水を引いて稲を作り、秋に水を落して麦をまけるようになりました。二毛作は鎌倉時代後半に西日本一帯に、室町時代には東日本に普及します。人々は、地力の衰えを防ぐため肥料も工夫をしました。鎌倉時代は刈敷(かりしき)(草を田にすきこむ)・ 草(そう)木(もく)灰(はい)・牛馬糞が使われ、室町時代には、人糞尿が広く利用されました。そして、糞尿備蓄のため各家にトイレが作られるようになります。
水の分配と山野の管理は大切な仕事です。それは村々の争いの原因になる一方、村人の団結を促し、共同管理を求めて村々が連合するきっかけにもなりました。鎌倉時代には鍛冶(かじ)職人が村に住みつくようになり、鉄製農具の入手や修繕が便利になりました。牛馬を飼い、大型のすきやまぐわをつけて田畑を耕すことも広まります。室町時代には手間をかけて作物を育て、収穫を上げる農業が根づきました。商品作物の栽培が全国に広まり、特産物が生まれるのも室町時代の特色です。80頁にある商品作物が何の原料になるか・どこが特産地か・どんな加工をするのか調べてみるとおもしろいでしょう。

倭寇と東アジア貿易(Vol.2)


倭寇と東アジア貿易

「勘合貿易と倭寇」79頁,「朝鮮と琉球」87頁
 
この項目は、教科書とは異なる構成にしました。学習指導要領にある「東アジアとの関わり」が、教科書では、2ヵ所に離れて書かれているからです。また日本との関係での説明に終始して、国際関係の中での日本の位置をわかりにくくしています。

ここで学びたいこと

1 前期倭寇の活動 14世紀は日本・中国ともに内乱の時代で、海の安全を保障する権力が不在でした。14世紀半ばに前期倭寇が朝鮮半島や中国山東の海岸を襲い、米を人を略奪しました。彼らは対馬・壱岐・北九州の松浦半島を拠点とした海民(海を生活の場にする人々)の集団です。高麗の住民も参加していたという説もあります。当時の人々には、「日本人」「朝鮮人」「中国人」という意識は薄く、目的を同じくする海民という意識で結ばれたようです。

2 明・朝鮮と日本 1368年、明が成立します。明が作った国際秩序を理解しましょう。帝国68頁の「明は東アジアの伝統である中国を中心とした国際関係によって通交と貿易を管理することにしました。それは、中国の皇帝が周辺の国々の支配者を『国王』と認め、かれらがみつぎものを献上(朝貢)すると、皇帝もたくさんの高価な品物を返礼としてあたえるというものでした」という説明がわかりやすいです。日本がこの体制に加わるには、倭寇禁圧が条件でした。幕府は九州平定に努力し、明はその実績を認めて足利義満を日本国王としました。明は民間貿易を厳禁する海禁策をとっていたので、正式な貿易船と証明するため勘合を発給します。応仁の乱で幕府が衰えると、有力守護の大内氏・細川氏がそれぞれ博多・堺の商人に請け負わせて貿易を行い、16世紀には大内氏が独占しました。最後の勘合船は1548年で、大内氏滅亡により途絶えました。
1392年に成立した朝鮮は、海上勢力に通交・通商の権利を認める一方、海賊行為に対しては根拠地と見なす港を直接攻撃するという厳しい対応をとりました。15世紀半ばから、対馬の宗氏が朝鮮と協力し、厳格な管理のもとで日朝貿易を行うようになります。日本・明・朝鮮の交易の安定によって前期倭寇は姿を消しました。

鎌倉幕府の滅亡と南北朝の動乱(Vol.2)

鎌倉幕府の滅亡と南北朝の動乱

「23建武の新政と南北朝時代」,「24室町幕府と守護大名」76~79頁

ここで学びたいこと

1 変革の時代 13世紀末から、人や物の交通が飛躍的に発展し貨幣経済が広く浸透するようになります。この大きな経済変動によって、今までの秩序は破れ、分裂と対立がはじまります。鎌倉幕府を支えてきた御家人制が、彼らの生活の窮乏などでゆらぎはじめます。朝廷も天皇家が分裂し、貴族内の抗争がはげしくなります。支配者たちの動揺は、権威や秩序を維持する規範を弱め、束縛されていた底辺の人々に上昇の機会を与えました。こうした人々の動きを原動力として、時代は大きく変革していくことになります。

2 鎌倉幕府はなぜ滅亡したのか 鎌倉幕府の政治が行きづまっていく中で、悪党と呼ばれる武士が、近畿地方を中心に荘園の年貢を奪ったりしました。また、金融や商品流通にたずさわって力を蓄える悪党もいました。このような動きに対し、幕府は有効な対策を出せずにいました。幕府は北条氏に権力を集中させ、専制政治によってこの危機を乗り越えようとしました。悪党と北条氏の専制に反発する御家人を味方に引き入れ、倒幕を行ったのが後醍醐天皇でした。悪党の楠木正成や、有力御家人の足利尊氏が天皇側につき、鎌倉幕府は滅亡しました(1333年)。


3 南北朝の内乱はなぜ60年以上も続いたのか  後醍醐天皇の政治がわずか2年で破綻し、南北朝の内乱がおこります。南北朝の内乱は単なる中央政界の権力闘争にとどまるものではなく、社会的広がりをともないながら、全国的な規模と長期にわたる内乱になりました。それまで、問題をはらみながらも協調していた諸勢力の矛盾がいっきに吹き出しました。荘園領主と地頭の対立、一族の分裂、在地領主間の争いが日本列島の様々なところで起きました。対立するものは互いに相手を打倒するために南朝や北朝を名目的にいただいて戦いを行いました。武家政権を再興した足利尊氏ですら弟と対立すると自分のたてた北朝をすてて、一時南朝に降伏したこともありました。

4 内乱はどのようにして終息したのか 長い南北朝の内乱は幕府・北朝の手によって南朝を吸収する形で1392年、足利義満の時に終息します。地方の武士たちは互いに北朝方、南朝方を名のって荘園に侵略し、領地を拡大しました。これらの地方武士を押さえて秩序を回復するために守護に大幅な権限を与えました。守護はその権限を利用して地方武士たちを家臣にすることで、戦いは終息していきました。勢力を強めた守護の中には、幕府の統制に従わないものもいましたが、義満は公武の権力を統一して、世の中は安定しました。

元の襲来とその後の鎌倉幕府(Vol.2)


元の襲来とその後の鎌倉幕府

「22元の襲来とその後の鎌倉幕府」74~75頁

ここで学びたいこと

1 モンゴル帝国の拡大とその影響を学びます モンゴル民族がユーラシア大陸に大帝国を築いたことを地図で学びましょう。そして、東西の貿易や文化の交流が盛んになったことも学びます。元には、ヨーロッパやイランなどの商人が訪れました。例えば、イタリアの商人マルコ=ポーロは元のフビライに仕え、帰国後に語った「黄金国、ジパング」などの見聞を『東方見聞録』として残しました。中国の火薬、木版印刷術がヨーロッパに伝えられました。

2 東アジアの動きを視野に入れて「元寇」を学びます 
① 「元寇」についてのこの教科書の記述は、朝鮮、中国などの東アジアの動きに触れていないので、日本の自国優越意識を教えることが懸念されます。そこで、東アジアの動きを視野に入れての授業を組みましょう。
モンゴルは、1231年に高麗に侵入しますが、高麗が降伏するまで30年近くかかっています。それでも高麗の軍隊(三別抄(さんべつしょう)と呼ばれる)と民衆は1273年まで抵抗を続けます。フビライはその高麗の抵抗を制圧して、日本に軍を派遣するのです。ベトナムは、1257年以降、3回にわたるモンゴルの侵入を退けています。もしもこうした動きがなかったら、モンゴルの日本侵攻はもっと早かったかもしれません。
② 1271年、高麗の反乱軍三別抄からの手紙が来ます。日本に救兵と食糧を要請します。もしこの時、日本が援軍を派遣したら高麗の反乱軍とでモンゴルを包囲することができたかもしれません。しかし日本は情勢に疎く手紙を理解できずに黙殺します。この直後、モンゴルの使者が来日します。幕府は国書を無視します。幕府は、御家人だけでなく非御家人にも戦争への動員を命令し、幕府の統治は強化されます。
③ フビライは3回目の日本遠征を準備しますが、ベトナム征服の失敗、中国南部での反乱、ジャワ征服の失敗(1293年)、モンゴル支配者の内紛などで日本遠征を断念します。日本だけがモンゴルを撃退したのではありません。

コラム 「ミヽヲキリ、ハナヲソキ…」 -『阿弖河荘上村百姓等言上状』の世界-(Vol.2)

コラム 「ミヽヲキリ、ハナヲソキ…」
-『阿弖河荘上村百姓等言上状』の世界-

46~47頁

日本の中世を生き抜いた農民たちの姿を伝える『阿弖(あて)河(がわの)荘(しょう)上村(かみむら)百姓(ひゃくしょう)等(ら)言上状(ごんじょうじょう)』は、大変有名な教材です。しかし、この教科書には一行の記載もありません。

阿弖河荘は紀伊国(和歌山県)の有田川上流の山あいにある荘園で、年貢以外に公事として、主に絹と真綿、材木などを納めていました。阿弖河の農民たちは、蒙古襲来の衝撃がまださめやらぬ1275(建治元)年、新任の地頭湯浅(ゆあさ)宗(むね)親(ちか)の横暴を荘園領主に訴え出ました。カタカナで書かれた13か条におよぶ言上状には、現代の私たちが読むと、身の毛もよだつ地頭の暴力が描かれています。  農民たちは、年貢を二重に取られ、綿や麻を責め取られる、栗や柿も奪い取られる。そして、地頭は様々な労役を課し、農民たちを酷使する。しかも、地頭の言うことを聞かなければ、「ヲレ((俺))ラカ コノムキ((麦)) マカヌモノナラハ メコトモ((女たちや子どもたち))ヲ ヲイコメ ミヽヲキリ ハナヲソキ カミヲキリテ、アマニナシテ、ナワホタシ((縄)(絆))ヲウチテ、サエ((苛))ナマント候ウテ…(私たちがこの麦をまかないならば、女や子どもを追い込めて、耳を切り、鼻を削いで、髪を切って尼にして、縄で縛って虐待し…)」という残酷な刑罰を課すというものです。この『阿弖河荘上村百姓等言上状』は、農民自身がカタカナでたどたどしく書き上げ、地頭の暴力的支配の実態を告発する形態をとっています。

大衆や武家の仏教と鎌倉文化(Vol.2)


大衆や武家の仏教と鎌倉文化

「21大衆や武家の仏教と鎌倉文化」72~73頁

ここで学びたいこと

鎌倉文化の誕生 戦乱が起こり、時代が激しく変化するなかで、政権の担い手となった武士、王朝文化を深めていく貴族、無常を感じて遁世した僧、鎌倉新仏教の開祖、共同作業で新しい様式の仏像を造り出した運慶(うんけい)ら仏師など、それぞれが作り出す、新しい文化とその特徴について、時代背景と関連づけて学びます。

ここが問題

「大衆(たいしゅう)」という語はこの時代にはそぐわないものです。歴史教科書では一般に、教育・マスメディアの普及、都市サラリーマン層の出現によって、市民一般が文化のにない手となった大正デモクラシー期に用いられています(東書180頁「大衆文化の登場」)。鎌倉時代に「大衆(だいしゅ)」と言えば僧兵のことで、ここでは「民衆」とすべきでしょう。

「新しい仏教」(72頁)7行目以降の文章では、鎌倉新仏教が広まった要因を、武士たちが京や鎌倉の動向に気を配っていたことに求めていますが、聞いたことがない、無理のある論旨です。一般的には「戦乱やききんを乗りこえて、たくましく成長してきた民衆や、自分の運命を切りひらいてきた武士などの、心のよりどころとして、新しい仏教の教えが広まりました。これらは簡単でわかりやすく、実行しやすかったので、多くの人々の心をとらえました」(東書56頁)という説明がなされています。

3 鎌倉新仏教は、すぐさま民衆に広まったわけではありません。「そのわかりやすい教えや修行方法はたちまちに民衆に受け入れられ、仏教はやっと庶民全体のものとなった」(72頁、11~13行目)というのは正しくなく、日蓮宗も浄土真宗も、普及したのは室町後期(戦国時代)になってからのことです。次の説明が正しいものです。「…浄土宗の法然や、…日蓮の教え(日蓮宗)が、武士たちの心をとらえました。その後日蓮宗は、京都などの都市を中心に、商人や手工業者たちにも熱狂的に受け入れられました。」(帝国62頁),「鎌倉時代に現れた新しい仏教は、しだいに庶民の心もとらえていきました。…のちに各教団は布教を活発に行うようになり、とくに法然の弟子の親鸞を教祖とする浄土真宗(一向宗)は、室町時代になると蓮如のたくみな布教活動によって、各地に信仰を同じくする集団をつくりあげました。」(帝国62~63頁)