自由社版の歴史教科書で学ばなければならない生徒のご家族や、教えなければならない先生方にぜひ読んでもらいたい冊子、『どう教えるか?』Vol.2の記事をさらに掲載しました。今回は、中世についての記事を5本掲載です。
原始・古代から近世までをカバーした、『どう教えるか?』Vol.2は、おかげさまでさまざまな集会や講演会などで大反響をよんでいます。まだお手にとっていない方は、下記のリンクからぜひ内容をご覧いただければと思います。
現在、幕末・維新の時代から、現代までの近現代の記述について検討した、『どう教えるか?』Vol.3の作成が進められています。Vol.3は 2011年4月の刊行を予定しています。ぜひご期待ください!
冊子の内容はこちらから
自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?
2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
→横浜教科書研究会のとりくみ
■これまでに発表した声明を掲載します。
→これまでに発表した声明
■自由社版教科書を使用して授業をしなければならない、現場の先生方、保護者の方、自由社版教科書を使っている中学生を指導される塾の先生方に、お読みいただきたい冊子です。
→自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?
■私たちの活動にぜひご協力ください。
→カンパのお願い
■研究会主催の集会などイベントのご案内です。ぜひご参加ください。
→イベントのお知らせ
■私たちの活動に関連する有益な書籍をご紹介します。
→参考書籍
コラム 人物コラムに潜むもの ―「源頼朝と鎌倉武士」を解体する― (Vol.2)
コラム 人物コラムに潜むもの
―「源頼朝と鎌倉武士」を解体する―
70~71頁
主従関係の過剰な美化 源頼朝が鎌倉幕府を開き武家政治を行ったこと、将軍と御家人が「御恩と奉公」を仲介に主従関係を結んでいたことは、どの教科書でも取り上げられています。しかしこの教科書では、20「鎌倉幕府の武家政治」での説明にとどまらず、「歴史のこの人 源頼朝と鎌倉武士」という人物コラムのなかで、戦前には修身の教材であった、忠臣譚としての『鉢の木』を大々的に紹介し、「従」が命をかける主従関係をことさら美化しています。また、他の教科書よりひときわ大きく、『一遍上人絵伝』の図版を掲げていますが、建築・芸能・民俗・農業などの豊かな歴史情報が含まれているにもかかわらず、取り上げているのは「武」に関するものだけです。
そもそも、このコラムを一読すると、読み物としてのまとまり・つながりに不自然さを感じます。それは、頼朝の人物コラムの姿を借りて、主のためには命を惜しまない人間像を肯定的に描くための素材が詰め込まれたからです。ちなみに扶桑社版では、「人物コラム 源頼朝」「読み物コラム 武士の生活」が並んでおり、自由社版もこれを土台にしたと思われますが、扶桑社版ですら『鉢の木』は取り上げていません。
鎌倉幕府の武家政治(Vol.2)
鎌倉幕府の武家政治
「20鎌倉幕府の武家政治」68~69頁
ここで学びたいこと
1 鎌倉幕府の成立 12世紀後半、関東の武士を従えて鎌倉に本拠地をかまえた源頼朝は、朝廷から自立した政権を築いていきます。これが鎌倉幕府です。頼朝は、家来となることを誓った武士を御家人にして、土地をなかだちとした御恩と奉公の主従関係を結んでいきます。そして、平氏との戦いで手柄を立てた御家人には、敵の武士から没収した所領を与え、それとともに一般の御家人の所領をも保障しました。平氏滅亡後の1185年、頼朝は朝廷に迫り、守護・地頭の設置を認めさせ、守護・地頭には御家人を任命します。さらに、奥州の藤原氏を滅ぼし、1192年、頼朝は征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立します。
2 執権政治と承久の乱 頼朝の死後、幕府は将軍が暗殺されるなど混乱が続きました。後鳥羽上皇はこの混乱に乗じて幕府を倒そうとしました。鎌倉幕府は執権として実権をにぎっていた北条氏と北条政子のもとに結集し勝利します。この承久の乱後、六波羅探題が置かれ、朝廷の監視と西国の御家人に対する監督に当たらせます。また、朝廷側についた貴族・武士の所領は没収され、東国の御家人たちを新たにその地の地頭に任じます。こうして西国に東国の御家人が配置され、幕府の勢力は全国に拡大します。一方、公家の政権である朝廷は院政をつづけ西国を足場に国内の統治を続けました。
3 御成敗式目 東国武士が、西国に地頭として派遣されると、現地の荘園領主や農民などとの間で紛争が起こりました。そこで幕府は、紛争の解決の基準や政治の方針を明確にする必要から、51か条からなる御成敗式目を制定しました。この式目は、律令とは異なる最初の武家独自の法典です。最初の2条は神社・寺院の修理や神事・仏事の保護のことで朝廷の法と同じ内容ですが、律令とは異なる内容のものもあります。3~5条は守護・地頭の職権について定めているなどです。この法律の効力は武家のみに及ぶとされていますが、地頭と荘園領主との争いが幕府の裁判で行われるようになったので、公家にも武家法が次第に及ぶようになります。
平氏の繁栄と滅亡(Vol.2)
平氏の繁栄と滅亡
「19 平氏の繁栄と滅亡」 66~67頁
ここで学びたいこと
1 保元の乱・平治の乱 前節で学習したように、院政は、一度権力をもった上皇・法皇(「治天の君」と呼びます)が、生涯に渡って政権を掌握することが通例です。そのため、院政を行っていた上皇・法皇の死が政権交代の数少ない機会となります。政権交代の機会に複数の候補者が存在した場合には、政争に発展する可能性が高くなります。鳥羽上皇の死の前年、1155年の後白河天皇即位以後続いていた後白河と崇徳上皇の対立が保元(ほうげん)の乱の直接の原因となります。これに加えて、この政権闘争とも関わっていた摂関家内の藤原忠通(ただみち)と忠実(ただざね)(忠通の父)・頼長(よりなが)(忠通の弟)の対立も絡んで乱が勃発しました。保元の乱の勝利で治天の君となった後白河院政下で起こった院司(いんし)・北面(ほくめん)の武士の主導権争いが「平治の乱」の要因です。この乱で勝利した平清盛が政治的な発言力を高めていきました。
2 戦乱と武士 平安時代までの政争の解決方法としては、長屋王の変のように相手に謀反の疑いをかけて自害に追い込む、または菅原道真の事件のように左遷させるという方法が用いられていました。しかし、保元の乱においては、武力により決着がついた点に注目しましょう。強力な武力を抱えた勢力が、政権を獲得できるようになり、皇族・貴族社会においてそれだけ武士の重要性が高まりました。このことが、後に武家政権が築かれた理由なのです。
コラム 荘園をどう教えるか?(Vol.2)
コラム 荘園をどう教えるか?
荘園は教えにくい 「荘園は教えにくい」といわれてからどれくらい経つでしょうか。これまで、この課題を解決するために多くの努力がされてきました(たとえば、永原慶二著『荘園』吉川弘文館など)。しかし、依然その声はおさまっていません。
荘園の理解を難しくしているのは、古代の「公地」制は荘園=「私(有)地」の成立・拡大によって崩壊する、という古い考え方に大きな要因があります。違った言い方をすれば、公地と荘園を対立的に捉え、荘園が公地を侵食・拡大することによって中世社会が成立するという考え方です。三世一身法(723年)、墾田永年私財法(743年)を契機に成立した荘園は徐々に拡大し、院政期に体制的に確立すると習った直後、鎌倉時代になると荘園・公領ごとに地頭が置かれ、かつ鎌倉幕府の財政的基盤は荘園と公領である、と習います。とすると、「えっ!公領はまだあったんだ。」という疑問が湧き、混乱してしまうのです。
墾田とはなにか? では、どのように理解したらよいでしょうか。まず、三世一身法、墾田永年私財法で成立する「墾田」ですが、墾田が「私有地」であるという記述はどの教科書にもみられますが、正確ではありません。墾田は実は「輸租田」(「租」を納める田)でした。したがって、墾田が増えると国家に納入される「租」も増大したのです。すなわち、墾田は口分田とならんで、国家にとっては税を生み出す重要な田地だったのです。
ではなぜ二つの墾田法で墾田の所有を認めることになったのでしょうか。これも実はですが、律令には国司の墾田を除いて、寺院や庶民が所有する墾田に関する規定はなかったのです。したがって、公田(班田対象の田地)以外の荒地を開墾してできた耕地をどのように扱うのか、決まっていませんでした。それで、三世一身法では墾田の所有権を認めると同時にその期限(三世と一身)を決めたのですが、それでも墾田の開発が進まなかったので、所有の期限を外して「永年私財」としたのです。ここで重要なのは、墾田が「永年私財」として班田対象外の田地として認定されたこととともに、墾田が公田とならんで国家的な税(租)が賦課される田地として正式に認定されたことです。したがって、古代国家の基本的な土地制度は公田と墾田とによって成り立っていたといえるのです。
武士の登場と院政(Vol.2)
武士の登場と院政
「 18 武士の登場と院政」 62~63頁
ここで学びたいこと1 武士と武士団 10・11世紀ごろに、各地の有力農民(田堵)が自ら所有していた領地を保護・防衛するために武装したのが、武士の起源と考えられています。その後、朝廷や貴族社会で武力として重用されました。具体的には、朝廷を警備する滝口の武士、皇族・貴族を警備した侍、地方の武力として活躍した押領使・追捕使などが、それにあたります。武士は、一族を中心に次第に武士団を形成していきました。一族の中核の首長、首長の一族すなわち同じ血縁集団にあたる家子、有力な家臣である郎党、さらに一般的な兵力として下人・所従によって組織されていました。やがてこれらの武士団は、天皇の血筋を引く清和源氏・桓武平氏などの貴族と主従関係を結ぶようになり、大武士団が形成されていきます。関東では、当初は平氏が武士団を組織していましたが、1028年の平忠常の乱で源頼信が、さらに前九年の役・後三年の役で源頼義・義家父子が活躍すると、源氏と主従関係を結ぶ武士が増加しました。
2 院政 11世紀後半、摂関家と外戚関係のない後三条天皇が即位すると天皇が直接政治を行う親政を開始しました。この政権では、延久の荘園整理令が制定され、近年成立したものや成立が不明確な荘園が停止され、一時的に荘園の数は減少し、荘園を重要な経済源としていた有力な貴族・寺社などの荘園領主は打撃を受けました。さらに白河上皇により院政が開始されました。天皇を退位した上皇や法皇(上皇が出家)という規制の少ない立場で政治を行うことを院政といいます。この政権では、独自の役人を組織して(院司)役所を設け(院庁)、さらに武力を持ち(北面の武士、後に西面の武士も加わる)、命令・決定などを伝達する文書(院宣・院庁下文)を発給して効力を示しました。多くの荘園が寄進されるなど豊かな経済力ももちました。なお、院政の開始以後も、摂政・関白という役職は存在しましたが、以後政権を掌握することはほとんどありませんでした。
『どう教えるか?』Vol.2 古代編の掲載を完了しました!
自由社版 歴史教科書で学ばなければならない生徒のご家族や、教えなければならない先生方にぜひ読んでもらいたい冊子、『どう教えるか?』Vol.2の記事をさらに掲載しました。
今回で古代編の記事の掲載を完了しました! 引き続き、中世、近世の記事をアップしていきます。
ご期待ください。
冊子の内容はこちらから
今回で古代編の記事の掲載を完了しました! 引き続き、中世、近世の記事をアップしていきます。
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密教の伝来と国風文化(Vol.2)
密教の伝来と国風文化
「17密教の伝来と国風文化」56~57頁
ここで学びたいこと
1 唐風文化 平安時代前期は律令制を再編する時代だったことは前単元で学習しましたが、唐から導入した律令制が影響力を持ったこの時代、文化の上でも唐の影響は強く、平安前期は唐風の文化が花開いた時代でありました。後で触れる空海や最澄もこの平安前期の人物です。だからこそ唐で学び、新しい仏教を日本にもたらすわけです。貴族らは漢詩を読み、漢文学が盛んな時代でした。
2 国風文化 平安中期の文化を「国風文化」といい、日本風の文化が生まれた時代といいます。但しこの時代に至っても、貴族らは唐や大陸の文化にあこがれを持ち続けていました。遣唐使派遣が途絶えた後も、民間商船によってもたらされる大陸の文物(たとえば沈(じん)や丁子(ちょうじ)などの香料、虎の皮、瑠璃壺と呼ばれたガラス壺など)は唐物として珍重されていました。こうした中国文化の強い影響を受けながらも、それらを基礎に日本の風土や生活、習慣にあった文化が生まれたのです。このような文化を国風文化といいます。
3 平安前期の仏教 平安前期には唐で学んだ最澄と空海によって新しい仏教がもたらされました。最澄は天台教学を学んで帰国し、帰国後比叡山延暦寺を拠点に天台宗を開きます。空海は2年間にわたって密教を修行し、帰国後真言宗を開きます。
空海の伝えた真言宗は秘密の呪法によって悟りを得るというもので密教と呼ばれました。密教は祈りやまじないによって国家の平和や人々の願いをかなえるものでした。そのため天皇や貴族らに広まっていきます。最澄も唐で密教を学んでいましたが本格的なものではありませんでした。天台宗が密教を本格的に取り入れるのは最澄の弟子の時のことです。こうして天台宗も密教を取り入れ、真言宗とともにその後大きく勢力を伸ばしていくのです。
4 平安中期の仏教 平安中期にも依然天台・真言二宗は大きな勢力をもっていましたが、この時代に登場し、注目されるのが浄土教です。浄土教は阿弥陀仏を信じることによって死後に極楽浄土に生まれ変わることを願う信仰です。京の市井の中に入り布教を行い「市聖」と呼ばれた空也や極楽へ生まれ変わるための具体的な方法を著書に著した源信などによって浄土教は広められていきます。藤原頼通が建てた宇治の平等院鳳凰堂は浄土教信仰によるもので、阿弥陀仏をまつり、現世に極楽浄土を再現したものといわれています。
平安京と摂関政治(Vol.2)
平安京と摂関政治
「16平安京と摂関政治」54~55頁
ここで学びたいこと
1 律令国家の立て直し 奈良時代には天武天皇の子孫が天皇となりましたが、それが途絶え、天智大王の子孫で母親が渡来系貴族の出身の桓武天皇が即位することになりました。桓武はこのようなこれまでの天皇と異なる出自から新しい王権を作ることを目指します。そのために長岡京ついで平安京へと都を移し、東北地方を制圧する戦争などを行います。この2つは「軍事と造作」といわれ、桓武の2大事業とされますが、いずれも自己の王権を権威づけ、正当化するために行われたと言われています。またこの教科書で「反乱」とされる蝦夷の戦いは桓武による制圧に対する抵抗であった点や蝦夷の抵抗に桓武軍は一時大敗したこと、それくらいの力を蝦夷が持っていたこともあわせて教えたいところです。
2 摂関政治 桓武天皇の後も平安前期には律令制の建て直しが図られましたが、この時期藤原氏(北家)は天皇の秘書的役割を果たすなどして天皇と結びつき勢力を伸ばしました。その藤原氏が天皇と婚姻関係を結び、他の貴族を退けるなどして平安中期に展開したのが摂関政治です。摂政とは天皇が幼少などの時に天皇の権限を代行するもので、関白は天皇の決裁などを補佐する役職のことです。藤原氏は自分の娘を天皇の后として送り込み、生まれた子を天皇とし、外戚(母方の親戚)としてその天皇の摂政や関白となっていったのです。摂関政治の全盛期は11世紀前半、藤原道長・頼通親子の時代です。
3 公領と荘園 律令制で導入した班田収授制は、男子を税負担のない女性として戸籍に偽って登録する偽籍や、税を逃れるため土地を離れる逃亡など、民衆の抵抗が相次いだため行き詰まり、10世紀初頭を最後に行われなくなります。そのため政府は平安時代中期に地方支配や税の取り方を変更します。国司に中央政府への税納入を条件に国内支配の大幅な権限を与えたのです。律令制では戸籍によって一人一人を把握して税をとっていました。しかし国司はそのような方法を変更し、有力農民に土地経営を行わせ、その面積をもとに徴税するように変えたのです。こうすることにより国司は有力農民さえ把握しておけば税が徴収できるようになったのです。このようにして国司が支配する土地を「公領」といいます。平安中期、摂関政治期の土地支配としてはこの点をしっかりと教えましょう。教科書では荘園(貴族や寺社の私有地)の話も出てきます。摂関政治期にも荘園はありましたが、まだこの段階では重要ではありません。荘園については摂関政治に続けて教えるのではなく62頁の「武士の登場」の話をした後に扱うのがよいでしょう。
さて、その荘園が重要になるのは次の院政期、平安後期です。平安中・後期になると農業技術の進歩もあって土地の開発が進展します。こうした開発地は国司に掌握されて公領に組み込まれていきますが、中には上級貴族や大寺社の庇護下に入って税免除の特権を受けようとするものも現れます。こうして生まれるのが荘園です。荘園が増加しだした頃、後三条天皇による荘園整理政策が行われます。それは一定の効果がありましたが、手続きなどが整った荘園は認める面もあったため、後三条天皇以後も荘園は増えていきます。特に律令制が行き詰まって以来、上級貴族や大寺社の方も独自の財源を得る必要が出てきます。そこで開発地などを探しだし、それらの土地を核に、己の権威によって周辺の大きな領域を囲い込んで荘園を設立するようになります。こうして荘園設立は、平安後期、白河院政期後半から鳥羽院政期にかけてピークを迎えていくのです。
飛鳥・白鳳・天平の文化(Vol.2)
飛鳥・白鳳・天平の文化
「15飛鳥白鳳天平の文化」48~49頁,「歴史へゴー!シルクロードと仏教美術」52~53頁
ここで学びたいこと
1 飛鳥文化は日本初の仏教文化 6世紀半ばに百済から公式に仏教が伝来した時、ヤマト王権の主導権は蘇我氏、物部氏など少数の豪族が握っていました。蘇我氏はいち早く仏教を受容し、6世紀末に蘇我氏が物部氏を滅ぼすと、仏教受容はヤマト王権の方針となりました。そして本格的な伽藍を持つ寺院として飛鳥寺や法隆寺が建立されたのです。当時中国南北朝時代の仏教文化が朝鮮諸国に伝来しており、それらが百済や高句麗からの渡来人僧侶や技術者によって伝えられました。基壇上に礎石を置いた建物や瓦葺き屋根、青銅で鋳造し金メッキをほどこした仏像は最先端の文化でした。王家も豪族たちも、一族の力を示すものとして寺院を建立しはじめました。この頃から7世紀前半までの、日本初の仏教文化を「飛鳥文化」と言います。
2 白鳳文化は中央集権国家とともに発展 645年に蘇我氏本宗家が滅ぼされると、政治の主導権は豪族から大王家に移ります。宮の所在地は難波、飛鳥、近江と遷(うつ)りますが、7世紀末の天武・持統朝には飛鳥に戻り、ここで唐をモデルとした律令体制が整えられていきます。飛鳥淨(きよ)御原(みはら)宮付近には律令制度に支えられ、国家の権力を示す薬師寺(本(もと)薬師寺)などの官寺が建立されました。この時期の文化を白鳳文化と言います。仏像の様式は新羅を通して伝えられた、中国唐初期の文化の影響を受けたものになって行きます。また地方の豪族によっても寺院が建立されるようになり、千葉県龍角寺や東京都深大寺などに白鳳時代の仏像が残されています。
3 天平文化は古代国家の到達点 律令国家の成立の後、都も710年奈良の平城京に遷されます。それから都が長岡京、平安京に遷るまでの時期の文化が「天平文化」です。国家により東大寺、大安寺、西大寺などの大規模な官寺が建立され、僧侶は国家の保護を受けて、鎮護国家のための法会を盛大に営みます。聖武天皇は国ごとに七重の塔を持つ国分寺や、国分尼寺を建立させ、都には盧舎那仏(大仏)を建立させました。国家の由来を記述する歴史書『古事記』『日本書紀』や、国家の支配領域の地誌である『風土記』が編纂されました。また天皇賛美の歌を多く含む『万葉集』が大伴家持などによって編纂されました。莫大な費用や人材を惜しみなく注ぎ込んだ寺院建築や仏像彫刻は、世界的に見ても水準の高いものでした。しかし一方で民衆への負担は重く、社会の疲弊を招きました。
4 遣唐使が運んだ国際的な文化 天平文化の時代には遣唐使を通じて中国唐の文化が直接伝えられるようになりました。唐の文化にはシルクロードを通じて、インドやペルシャなどの文化が影響を与えています。また7世紀後半に朝鮮半島を統一した新羅、7世紀末に中国東北部に建国した渤海とも、使節の往来が行われました。天平文化には国際的な奥行きがあり、聖武天皇が愛好し光明皇太后によって東大寺に寄進された工芸品の一部は、シルクロードから唐を経由して運ばれてきたものです。
律令制と人々の暮らし(Vol.2)
律令制と人々の暮らし
「13平城京の造営と奈良時代」42~43頁,「地方の統治」46頁
ここで学びたいこと
1 大宝律令の制定 中国の唐にならった国づくり=律令体制の形成とは、どのようなものだったのでしょうか? ①中央・地方の行政組織がはっきりと体系化され、天皇中心の中央集権国家としての支配の仕組みが法的に完成したことです。つまり、中央に二官八省、地方に国・郡・里(50戸で1里)がおかれ、それぞれ中央から派遣される国司、地方の有力者が任命される郡司・里長によってその地域の人々をおさめさせました。②「公地公民」を基本とし、戸籍・計帳を整備し、班田収授を行い、税をとる体制が確立したことです。
2 律令体制下の人々のくらし 律令体制への移行は人々の暮らしや人間関係をどう変えたのでしょうか? 一般の人々の負担は、朝廷や地方への貢納と労役という形になって、東国の男子が九州まで行かされる防人(さきもり)のような兵役や、庸や調の都への運搬など、モノだけでなく労役が大きな負担になっていきました。この頃編纂された『万葉集』には、防人の歌や貧窮問答歌など当時の民衆の生活や感情をよく表現しているものがあります。当時の社会は、皇族・貴族から一般農民まで含む良民のほか、賤民、わけても奴婢のように売買の対象になる人々もいる身分社会です。良民のなかでも、貴族や役人と一般の農民との間には大きな差がありました。位をもつ者は課役などの義務を免ぜられ、さらに五位以上の貴族には様々な特権がありました。たとえば位田、功田、職田などの土地や、位封(いふう)、職封(しきふう)など税として貢納されたモノ、従者に当たる資人(しじん)まで与えられました。一方、一般の人々には「生活の基礎となる口分田」(43頁)が与えられたとありますが、口分田だけでは生活するには到底足りなかったようです。班田収授の目的は、一般の人々に税や兵役を負担させることにありました。貢納や労役のための旅の途中で、のたれ死にする人々の存在も記録(『続日本紀』)されています。
3 律令体制の矛盾と鎮護国家の仏教 「青(あお)丹(に)よし…」の歌にイメージされる華やかな都の貴族の生活のかげに、庸・調の運搬や雑徭、兵役などの負担に耐えかねた農民の逃亡や偽籍などの抵抗もありました。このような問題が顕著になってくると、国家を仏教の力で鎮護しようと大規模な造寺・造仏があいつぎました。しかし、これは国費を消耗し、人々の生活を圧迫しました。わけても大仏造立は大きな負担だったため、従来弾圧していた行基らの活動を認め、その力をも利用して、少なくとも延べ26万人以上の労働(『詳説日本史史料集』(山川出版社)の42頁の表「労力」を合計)を費やして、詔から9年目にやっと完成させたものでした。
大化の改新と白村江の戦い・壬申の乱 (Vol.2)
大化の改新と白村江の戦い・壬申の乱
「11 遣唐使と大化の改新」,「12 日本という国号の成立」38~41頁
ここで学びたいこと ※天皇号がない時期は天皇を大王、皇子を王子と表記しています。
1 7世紀半ばの東アジア情勢 朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済の対立に唐が介入するという激動の時代の中で、3国がいずれも権力の結集をはかっていきました。この時期、倭も権力を結集し、国力を充実させる政治への気運が高まりました。
2 大化の改新 645年6月、中大兄王子や中臣鎌足らが、宮中で蘇我入鹿を斬殺し、屋敷にこもったその父蝦夷(えみし)も自害して蘇我本家は滅亡しました。皇極大王(女帝)から位を譲られて(初めての譲位です)即位した孝徳大王は、唐から帰国した学者や僧を顧問として改革に乗り出し、翌年正月には、改革の方針が示されたとされています。この改革をその時つくられたという年号から(「大化の改新」)と言います。ただし、その内容が実現するには、大宝律令の成立まで、その後50年ほどかかりました。
3 白村江の敗戦 660年、唐と新羅の連合軍が百済を滅ぼしました。百済復興のため送られた倭国軍は、中央・地方の豪族軍の寄せ集めで統制もなく、663年に朝鮮南西部の白村江で唐の水軍に惨敗しました。中大兄王子は、唐・新羅の侵攻に備えて九州北部などに水(みず)城(き)や山城を築かせ防人を配置して守りを固める一方、国内改革に乗り出していきます。
4 天智朝の改革 中大兄王子は667年に都を近江(今の滋賀県)の大津に移し、翌年、大王に即位し、はじめての全国的な戸籍制度をつくるなどの国内改革を進めました。
5 壬申の乱 671年末に天智大王が亡くなると、その後継ぎをめぐって、天智の息子大友王子と弟大海人(おおあまの)王子(おうじ)が対立しました。672年6月、大海人王子は危険を察して美濃国(今の岐阜県)に脱出し、東国の豪族の兵などを集めて近江朝廷に反乱を起こし、約1ヶ月の激戦の末勝利をおさめました。この乱をその年の干支から壬申の乱と言います。
6 天武朝の改革 大海人王子は即位して天武天皇となり、乱に勝利した実力を背景に、豪族の私有民の廃止、令の編纂、歴史書の編集などを実施し、天皇を中心とする強力な中央集権国家づくりを進めました。
蘇我氏と厩(うまや)戸(との)王子(おうじ)の政治(Vol.2)
蘇我氏と厩(うまや)戸(との)王子(おうじ)の政治
「09聖徳太子の新しい政治」,「10遣隋使と「天皇」号の始まり」34~37頁
ここで学びたいこと ※天皇号はまだ使われていないため、後の天皇は大王、皇子は王子と表記しています。
1 隋・唐帝国の成立と東アジア 6世紀末から7世紀にかけ中国で隋・唐帝国が成立し、律令制度や税制を整えて強大な国家を建設したことは東アジア諸国に強い影響を与えました。朝鮮では百済や新羅が力を強め、倭国も新しい東アジア世界に対応するとともに、中国の進んだ制度や文化を吸収して、改革を進めようという気運が高まりました。
2 蘇我氏・厩戸王子・推古大王 蘇我氏は中国や朝鮮からの渡来人の知識と技術を活用して勢力を強め、馬子の時代に対立する物部氏を倒して権力を拡大しました。馬子と対立した崇(す)峻(しゅん)大王(おおきみ)※が殺害され、その後に即位した推古大王(女帝)のもとで、厩戸王子(聖徳太子)、大臣の馬子が政治改革を行いました。
3 国内政治の改革 国内政治では、「冠位十二階」の制度を始め、家柄にとらわれず、能力や実績に応じて役人を登用しようとつとめたといわれます。また、仏教や儒教などの精神を取り入れた「十七条の憲法」を定めて、政治の理想を示し、役人の心得を説いたとされています。
4 遣隋使 外交では、小野妹子らを遣隋使として中国に派遣し、隋との対等な国交をめざしたとされています。607年の遣隋使では、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」という倭王の国書が、唯一の「天子」を自認する隋の皇帝煬(よう)帝(だい)をおこらせましたが、東方の高句麗と対立していた隋は、翌年小野妹子に隋の使節をつけて倭に帰国させました。
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